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結城無二三(ゆうきむにぞう)出生と江戸出立 結城無二三 『甲州風物誌』上条馨氏著 一部加筆
結城無二三の幼名は米太郎、呼名は景祐(かげすけ)もとの名は有無之助、後に無二三と改めた。仁孝天皇の弘化二年(一八四六)四月十七日、甲斐国山梨郡日川村一町田中に結城景仲の長男として生れた。 景仲の夫人二里離れた御代咲村の長谷川友右衛門の女であった。 関東の名門結城朝光(ともみつ)を祖とし、朝光―朝広を経て、朝広の長子の広瀬は結城本家を継ぎ、弟の祐広は奥州の白川へ移って白川結城をたてた。結城本家は有名な里見八犬伝に出てくる結城合戦の家柄であり、白川結城は南北朝時代の元弘・建武の際に、南朝の忠臣として、後村上天皇に忠勤をつくした結城宗広、結城親光を出した家柄である。 さて本家の広綱には時広、宗重、感広、重広、奉親の五男があり、長男の時広は本家を継ぎ、三男の盛広が相模国、今の神奈川県飯島郷に移って飯島と改姓した。これが無二三の直接の先祖である。以後徳川時代まで飯島姓で通していたが、近年になってとの結城姓に復した。相模国から諸国浪人して京都に上り、武田家の興隆とともに武田家に仕え、川中島の合戦で功をたて、代々武田 家にはかなり重く用いられ、武田滅亡の時には天目山まではついて行かなかったが、武田浪人ということになる。祖先の系図の一節に、 「飯島民部少輔、其の後天正六年甲斐国山梨郡に浪人す」とある。 さて、無二三が十四、五才の時に「安政の大獄」()が起こり、前年にはベルリが浦賀へ来て物情騒然、今また吉田松陰、橋本左内以下の志士が大老井伊直弼によって処刑され、翌年の万延元年(一八六〇)には、水戸の浪士によって井伊は桜田門外に斬られるというような、ことが甲州の山中に伝えられる。これらの中央の形勢に、無二三は少年の血を湧かせ、関東の名家を祖先にもつ系図をひそかに開き見ては、いても立つてもいられず、何とか武士として国事に奔走して家名をあげ、立身の道を得ようと、江戸へ出ることを父に願い出た。まだ十五、大の少年、父は許さない。しかしその決意のかたいことを知ると、さすがに武士の血を引いた男児、あっぱれと江戸へ行くことを許した。この時無二三はわずかに十六才。(中略)今の年でいえば十四才余、表向きは医術修業ということであったが、志はそこにはない。 甲州から江戸へ出るには、笹子峠と小仏峠の険をこえねばならぬ。花のお江戸とはいうものの、幕末百鬼横行のありさま、昨日もどこかで暗殺があったといえば、やれ黒船が今に江戸を砲撃するかもしれないとの流言に脅かされる。医術修業・武者修業といえば、これが今生のわかれとなるかも知れぬ。ましてや馴れぬ一人旅、子を思う分影仲の心は千々に乱れる。先祖代々の功徳と善行を思えば、この辺で結城家もあっぱれ世に出て名声を天下にあげる運がもう回ってきてもよい筈だ。その望みを無二三に託そう。父の覚悟はきまった。 江戸出立の日は一族郎党、全部無二三の家に集まり、表をかわして成功を祈りあった。十六才の美少年の旅姿、は少年結い、きりっとつけた袴に白い脚絆、腰には子供ながら大小をしっかり差し、柴の包を背にし、笠を脇にいそいそと笹子峠を登って行く。父景仲も一緒に時の上まで送り、そこで別れて西東、父の限にやどるはうれし涙か離別の涙か、笹子の峠を幾曲がり、姿が見えなくなっても小半時、はるかに東を望んでは、武者修業のわが児の前途に幸あれと、ひそかに祈るは親の情。 それから入年の後に、新選組に加盟して、江戸からこの笹子峠を大砲隊を率いて、故郷の土をふもうとは神ならぬ身の知る由もない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年07月09日 22時10分23秒
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