曲 馬(甲陽軍艦) 嬉遊笑覧(喜多村信節)
關口とて馬のりの上手あり曲乗は本の事にあらずといへども是は一入重寶なり。一丈二尺あるがけを飛おろし横一尺五寸の土居のうへをも早道或はいつさんをのる貫の木通又は板屋の上を早道に乗る其外あら馬強馬を乗て馬の藥飼まで上手なれは關東奥にも此關口ほどなるはなし俗説に小栗判官といふ者鬼かげといふ馬に騎て棋盤をものりたりといへり。小栗がことは鎌倉大草紙にも出たれ共鬼鹿毛といふ馬のことは見えず是も甲陽軍艦 武田信虎公秘蔵の鹿毛の馬のたけ(四尺)八寸八分にしてかんかたち譬へば昔の生食摺すみにも劣るまじと近国迄申ならはせば鬼鹿毛と名付と見えたり。俗説は是をとりて彼名としたりとみゆ。
武田信勝(甲陽軍艦) 嬉遊笑覧(喜多村信節)
武田信勝十一歳の時小姓友野一郎と日向小傳次と扇切いたせと御意の時、又一郎腰にさしたる扇をぬく、傳次は手に持たる扇を腰にさして指をたてゝ向ふ時、信勝はや見えたるぞおけ扇切に傳次は勝たりと心の逸物なるをほめ給ふ云々
かくあるのみにて其法しられぬ共今ゐあひ抜が扇を空に投て地に落さず抜打にきる事をする。是もそのたぐひとみゆれど、指たてゝ向かふとなれば扇を投付などするを指にて打落すわざにや。
武田信玄(甲陽軍艦) 嬉遊笑覧(喜多村信節)
武田信玄幼き頃其姉今川義元の室より母義のかたへ貝覆の為にとて蛤を贈る處に其時信玄勝千代殿と申たる時なれば御母公より女房達を以此蛤の大小を扈従に申付えりわけて給はれとの御事にて大をはえりて参らせられ小の蛤たゝみ二帖じきばかりにふさがり高さ一尺も有つらむ云々。
甲陽軍艦 嬉遊笑覧(喜多村信節)
内藤修理と長坂釣閑口論の處侫人を作らぬみたけの鐘をつけと云。釣閑そこにて腹を立おのれが分として某にみたけの鐘をつけと百姓あてがひの申やう口惜しき次第也。云々
甲陽軍艦 扇 嬉遊笑覧(喜多村信節)
おし板に釘の者書たる扇の掛て有を見て云々、おし板は板をはりたる床なり折釘は扇を掛ることあれば中釘なり。今は扇かけとて紫の組ひもなどにてさまざま風流に作り總角などかけたるは陽明家の御好とかや。
甲陽軍艦 武田勝頼 嬉遊笑覧(喜多村信節)
天正元年九月勝頼遠州に出て帰陣の處、此時草履二十内外の小者共十五人挟竹にて馬乗一人打落搦取。
甲陽軍艦 笛吹峠合戦 嬉遊笑覧(喜多村信節)
笛吹峠合戦の條、合戦に手に合ざる者手柄の者上中下をさたして上の手柄には三膳或は二膳赤椀にて振舞又手に合ざる人々にて黒椀にて精進飯を喰せらる是を他国にては信玄公なされたると沙汰有信形短気なる人にて如此云々。板垣信形也これは義家朝臣の甲乙の座を学びたる歟。
甲陽軍艦 料理 嬉遊笑覧(喜多村信節)
甲陽軍艦の料理を書たる圖に誠に十の膳ありしなりといへり。此こと今一種には栗の餅もいやいや米の餅もいやいやそば切り素麪食たいなと云つゝどうどうめぐりするなり。
富士山 嬉遊笑覧(喜多村信節)
○『甲陽軍艦』奉献富士浅間願書あり。其中に士峯高山むろに於てひつそうしゆをうけ五郎の大乗經讀の事あり。萬の山むろとは山中にある處の室どもなり。今もむろといふひつそうし
ゆは 蒭衆にやこの山に登るは必一夜とまるなれば『鷹筑波集』に一夜とまりに身をぞくるしむ(といふ句に本勝寺日能)足よはき人のいらざる富士参富士参詣群集の事『猿楽狂言』にも見えたれば半腹に横をめぐるを中道といふことなどは猶後のこと
ゝ見えて『日次紀事』に近世以登山猶為容易 而有巡山腰者
是請横行道 又稱横出山上 其行程比攀躋 則倍道且険難不及言語 是為苦行とあり。云々
甲陽軍艦 猿楽 嬉遊笑覧(喜多村信節)
猿楽に高安道善と云者此頃天下一の大皷なり。此者若き太皷の天下一は大倉九郎と申者也。
甲陽軍艦 料理 嬉遊笑覧(喜多村信節)
甲界もみぬ奥山家の分限なる百姓料理するすべもしらず、海老を汁にして鯛を山椒みそにあへて鳫白鳥を焼物に鯉を菓子にして蜜柑をさしみにすれば能者どもいづれを取ても喰ふべきやうなく皆捨る。云々
甲陽軍艦 灯籠見物 嬉遊笑覧(喜多村信節)
永禄七年七月十四日の夜太郎義信公、長坂源五郎御供にて灯籠見物に事よせ御城を忍出て飯富兵部所にて亂鳥迄談合云々。
甲陽軍艦 上杉家の盗賊 嬉遊笑覧(喜多村信節) 上杉家の盗賊はやりし頃高野ひじり半弓にて鍋釜盗人を射殺しければ則政これに千貫の知行をあたへて足軽大将にしたる事みゆ。
甲陽軍艦 太田源五郎 嬉遊笑覧(喜多村信節)
武州岩付(岩槻)太田源五郎幼少より犬ずきをする松山の城に飼立てたる犬を五十疋居城岩付にて飼立たるをば松山の置しに松山に一揆起りけるに文を竹筒に入れ犬の頭に結付十疋放しければ片時に岩付へ持来しとぞ。
甲陽軍艦 茶 嬉遊笑覧(喜多村信節)
四国浪人村上源之丞堺の紹鴎が雑談を聞て語る数奇者と茶湯者は別なり。茶湯者は手前よく茶立て料理よくしていかに鹽梅よくする人を申し、数奇者は振舞に一汁一菜茶を雲脚にても心の奇麗なるを名付て呼候。元来数奇は禅僧より出たり、意地をを肝要にして誠多き心ざしを執行の人のたつる茶を数奇者の振舞とといふ。
山本晴幸の開眼 傍廂(斎藤彦麿)
山本勘助晴幸は、素性賤く、五體不具なれど、系図正しき豪勇の士には遙まされり。あるとき甲斐の諸将を集めて、軍慮の物語する席に、小兒三人交れり。小宮山助太郎、小山田八彌、秋山友市なり。助太郎は談中しづまりて、うづくまりて、よく聞き居たり。八彌はわらひ居たり。友市は退屈して、度々座を立ちたり。晴幸この三兒をつくづくと見て、助太郎は赤心うごかぬ丈夫にて、八彌はこゝろ定まらず。友市は不忠の名をのこすべしといひしに、はたして、助太郎は後に小宮山内膳と云ひ、故ありて甲州を浪人しつれども、勝頼天目山にて生涯の頃、わざわざはせかへりて、死を共にして義を立てたり。八彌は後に小山田八左衛門と名のり、勝頼生害の頃、善光寺(甲斐の)にげ行きしなり。友市は後に秋山内記といひ、又摂津守に任ず。勝頼生害の五日以前に、甲州を出奔し、敵方の織田信忠へ降参しつれども、不忠の逆賊なりとて、しばり首うたれたり。晴幸は一眼ながらよく見ぬきたり。
甲陽軍艦 四大将 筆のすさび(橘 泰)
甲陽軍艦に載する、當時の四大将と云ふは、武田信玄、上杉謙信、北条氏康、織田信長なり。毛利元就は、時の先後遅速故か載らず。謙信は四十九歳にして、天正十六年に卒す。辞世の句に、四十九年夢中醉レ。一期栄花一盃酒と作られたり。信玄は天正元年五十歳にて卒す。辞世の句に、大底還他肌骨好 不レ塗 紅粉 自風流、と作られたり。かって自詠に
人は城人は石垣人は掘なさけは味方仇は敵なり
と詠して、生涯城郭を構えず軍を仕られたり。云々