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2020年08月01日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

古代甲斐国府
  

参考資料、『春日居町誌』(国府跡)

 国府(コウ)は律令政治が行なわれていた奈良時代ごろ、国々に設けられた地方政治都市で、その中心をなす国庁には国司が居て政治を執ることになっていた。国庁の所在地としては「国府」の他に「国衙」あり、更に時代が下がると「府中」がある。 本町の大字「国府」を中心とする地域は、甲斐国の最初の国府跡であると推定されているが、甲斐にはも御坂町に「国衙」もあり、両者の関係についてはいろいろ学問的な難しい問題がある。
 いずれにせよ、時代が余りにも古く、遺構もほとんど発見されず、「国府」の問題を解明することは甚だ困難となっている。 
 問題というのは大きく三つある。
  一つは春日居町国府=古代の国府の遺跡があるか否か。
  一つは国府跡があるとすれば設立の年代と廃止の年代。
  一つは国府跡の規模の問題。
 この三つの問題は互いにからみあい、古くからいろいろの人によってさまざま論じられ
ている。まずそれらの諸説の主なものについて述べることとする。

 甲斐国府についての諸説
   参考資料、『春日居町誌』
 1、『和名抄』(和名類聚抄)
 平安のはじめ(930年代)に成立した分類体の漢和辞書で全国六十八か所の所在地を示した最古の文献である。
 国府は在八代郡。行程、上二十五日、下十三日。……
 この記述は後世に強い影響を与え、これをそのまま著述しているものが多い。すなわち『拾芥抄』(鎌倉時代、公卿の備忘的著作)、『下学集』(室町時代の漢和辞書)などは、いずれも『和名抄』の記述そのままである。
 

甲斐国府の諸説 『甲斐国志』文化11年(1814)

国府、村名なり。古時国守の官舎を建てし処なりと云。然れども和名抄・拾芥抄等に、府は八代郡に在りとみえて、彼所に国衙村在したり。石禾(石和)郷に接壌し此より相距ること里許にして遐(トオ)からず。本村には遺構の形容も見にず。移転のこと得て知り難し。然れども笛吹川水路の転ぜざるは以前は石禾郷の地続きなり。国分尼寺の旧趾、加茂神社、熊野堂、立河の不動の類、故ある勝跡近隣に于囲続したれば往昔の盛事想合すべし。云々

《解説》

○ 『和名抄』には国府は八代郡に在る。八代郡には今(文化11年)も国衙という地名がある。   

○ 山梨郡国府には国府らしい遺構がないので甲斐国府跡ではない。

○ 『甲斐国志』の説=『大日本地名辞書』・『山梨県史蹟名勝天然記念物調査報告』・『東八代郡誌』

 

『甲斐名勝志』

 国府。往昔、国司の住み給ひし所なり。館の跡今不詳。此地に守宮と云う社あり。一説に『延喜式』天明3年(1783)所載

甲斐名(奈)神社也と云伝。然れども今不詳。

 

大田亮氏の説 『甲斐』大正15年

『和名抄』、八代郡とあるは山梨郡の誤謬のみ。と断定し、国衙の地域は全く山梨郡井上郷に属するもので八代郡ではないとし、

その根拠を三つあげている(後記)。更に太田氏は(山梨郡)の国府とは、けだし郡(コホリ)の訛なるべし。すなはち山梨郡の

郡家(郡役所)の地とす。としている。

広瀬広一氏の説 『山梨教育』454号 国府三転説
 本州上代の国造庁所は、どうしても岡部・甲運附近にあったもので、奈良朝の初めの国府所在地は岡部村にあったことを固く信じている。その根拠は「鎮目」「国府」などの遺称があること。条里遺跡研究の結果、国府、一宮村に条坊が敷かれて居り、しかも国衙村が遺址であることも疑いない。一宮村の場合は東原の筑前原を中心に、沢山の土塁・国分寺(僧・尼)国学址・軍団址
・林部神社(橋立)・浅間神社などの遺跡があることで、国府跡であること間違いないが未だその場所の確証は握っていない。
 およそ本県の国府は、岡部村、一宮村、国衙村と三転したものと思われる。

『東山梨郡史蹟』の説 三転説。
 国府が岡部村から一宮村へ遷った一因は水害の為で、金川が押し出し笛吹川が北西へ寄ってきたことに起因している。一宮村へ遷ったのは白鳳末期から奈良時代。そこから国衙へ遷ったのは平安時代以後と思う。

桂川七郎氏の説 三転説。
 岡部村国府(奈良時代)一宮村国分(十世紀半)英(はなぶさ)村国衙(鎌倉時代来)それぞれの移転の時期を示している。岡部村国府を認める理由としては、地名、国分尼寺(寺本廃寺)、鎮目(一国府庁の存在を示す)、古墳(時期に同じ)、条里、三社神幸が甲斐奈神社へ立ち寄ること(順路は古例によって変せずと江戸中頃の記録に出ている)の六つをあげている。

大場磐雄氏の説
 甲斐国府については『和名抄』や『伊呂波字類抄』その他に、八代郡に在りと明記している。『国分寺の研究』昭和13年、即ち古来、諸学者の一致している所である。岡部村国府は、山梨郡の治所のあった所、即ち郡府か小府を訛って「こう」となったものではなかろうか。寺本廃寺は奈良時代、山梨郡の郡寺址で大領(郡の長官)である豪族が造立したものではなかろうか。

大田清六氏の説
 国府も国衙も正しい。岡部村国府にあったものが笛吹川の氾濫で英村の方へ移ったものはではないか。

須藤賢・谷岡武雄氏の説
 両氏は甲府盆地の条里を調査した結果、界線が正しく東西・南北を指している所は、極めて局所的にしか見られないが、岡部村国府を中心に同村の大部分に及ぶものが比較的広い。そのほか一宮町国分、御坂町国衙に狭いものが見られることから、甲斐の「国府」はまず岡部村に設けられ、やがて河川の氾濫と扇状地の開発に伴って高燥の一宮町国分(?)に遷り、更に英村国衙に移転した。そのころは律令政治衰頽期であり、地形的には扇状地であるため大規模のプランがとりえなかった。国分地域の国府の所在については若干の疑問があり断定的ではない、というのである。

上野晴朗氏の説
 岡部の国府は文字通り国庁の跡を示すものであること間違いなく、広瀬氏の注目した条坊址(小都城址)が岡部の国府と一宮の国分寺周辺に明瞭に看取されること。またその周辺の条里の遺構と方位のとりかたが全く違うので、この二カ所の街割に古い国庁の跡を求めてみることは必要である。
 国衙は律令制の衰頽期に入り、機能の変化から現地に移ったものであることは、国衙の呼び名の新しさからも、又条里の遺構の中にすっぽりはまってしまい、もとは農耕地と一般集落であったことを見ても歴然である。すなわち、国府 一宮町(東原国分) 国衙である。

坂本美雄氏説 『考古博物館紀要』3 昭和62年
 大化改進ごろ、(七世紀中ごろ)には春日居を中心とする勢力が、御坂勢力、甲府市北西部勢力を越えて甲府盆地内で最も有力となった。その勢力は大和勢力と直結して新文化を取り入れ、寺本廃寺建立とした大事業を遂行した。
 しかしこのゆな代勢力が甲斐の政治都市として「国府」まで建設することは他の勢力の反発が考えられたので、これを避けて山梨郡の郡家を今の春日居町国府の地に建てた。 一宮町の場合も、国府跡かと想定していた筑前原の調査では、中世以降の遺構しか発見されていないので国府跡とは認められない。甲斐の国府は御坂町の国衙あるいは同町金川原の「方八町」に置かれたかも知れない。

木下良氏の説 『文化史学』11号
 国府跡考定の一般的条件
 国内の中央部より都に近い側に偏心して位置することが多い。国内の生産中心地である平野部にあり、周辺に条里制の遺構をみる所が多いが、その場合、国府城は周辺条里と異なる方位の土地割を示す例がかなり多い。駅路や河川に沿っていることが多い。
関係地名を残している。(国府・国庁・国衙・府中・………)臨海国の場合、国津・国府津を伴う。関係社寺を伴う(総社・六所社・御霊社・守公神・印ニヤク社………)方五丁から方八丁の府城内に条坊的格状土地割を存する。府城周縁に塁濠をめぐらす。
遺物(瓦・墨書土器など)遺構の残存が認められる。地名は奈良時代にはほとんど国府・平安時代の律令制崩壊期に入ると国衙が多い。これらによって木下氏は甲斐国府を跡を考察して、春日居村国府から英村国衙への二転説をとっている。春日居村国府の根拠は地形が、都城や諸国国府の立地条件としての、いわゆる四神相応の地に概ね合致している。地名が奈良時代前後に主として使われた「国府(こう)」である。総社の存在(甲斐奈神社)、また三社祭礼に一之宮・二之宮の神輿が笛吹川を渡ってこの社に御神幸をしていた。これは相模国府の国府祭りに一~五之宮が参集したのと通じる。
 笛吹川の舟運。
 土地割の方位が広瀬氏・須藤氏の言うように正東西・南北を示している。一宮村国分の土地割は国分寺設置に伴うものである。
大字鎮目、小字三島地内で旧平等川が周濠状にほぼ直角に曲折しているのは、国府城の西縁をつくったものである。
 これらの根拠によって木下氏は方六町の国府城を設定している。
 国庁跡は北側中央ではなくて、鎮目の御岳地区。付属施設地域として字狐塚。『和名抄』の「国府在八代郡」の国府は、国衙の地を指すものである。国府が国衙に移った時期は、国衙の形態よりみれば山城国などとほぼ同時期(貞観三年・861)と考えることができよう。従って『和名抄』の国府に関する記事内容は、貞観三年以後の状況を示すようである。

『和名抄』の「府は在八代郡」批判
 要約…律令時代の「国府」と「国衙」の相違、律令制下の諸国の治所の呼び方…国府・国衙・府中・国庁。角田文衡氏の説、「奈良時代前後には「国府」で「平安時代以降には国衙の語がより多く使用した」吉村茂樹氏の説、「奈良時代には国府」で「平安時代にはいって国衙の語を多く使用した」木下良氏の説、「国衙は奈良時代には一例(『平安遺文』・『六国史』の調査から)のみ。平安時代に多く見られる。
…条里制からみて、
 大田、木下氏の説、条里の基準線が、御坂町国衙の場合は周囲と全く合致している。これは既に条里制が敷かれている所へ国衙造営を行なったことを示すものであるとの指摘もある。『和名抄』の成立…著者は平安時代中ごろの源順(911~983)で、記述の誤りを指摘する人もある。大田亮氏の説、「国府は八代郡に在り」は誤りで「国府は山梨郡に在り」でなければならない。   

その理由として
国衙は山梨郡の井上郷と石和郷に挟まれた狭い地域であって遥か南の八代郡八代郷の管内にはいるか否か頗る疑わしい。

『三代実録』の貞観七年(865)甲斐国八代郡に浅間神社を建てた時の勅定に「八代郡郡家以南」といって「国府以南」と言っていない。国衙と八代村の間三輪明神は延喜式内社の山梨郡神部神社である。

上野晴朗氏の説
『和名抄』には山梨郡の郷として。於曽・能呂・林戸・井上・玉井の山梨郡東部と、石禾・表門・山梨・加美・大野の山梨郡西部の10郷をあげている。この郷名の配列を今の地名にあててみると、
 於曽=塩山市 能呂=勝沼(一部、一宮町) 林戸=一宮町(一部) 井上=御坂町 玉井=御坂町と石和町の湧水地帯
ということか考えてもても坪井・上下平井・中川・成田・国衙・二之宮周辺であろう。続いて山梨西郡は石和町、甲運村、春日居町、山梨市と回っている。御坂町をめぐる古代の郷は、かつてはすべて山梨郡に属していたことが知られ、現在の天川の流れに沿って八代郡と山梨郡の境があった模様である。
 解説…『和名抄』の誤り…(前文略)八代郡内には小都城的な国府らしい遺構等の確実な痕跡は認められず、(中略)八代町大字高屋を地理的・政治的環境から郡家跡と推定する人があるにとどまる。云々

山梨郡国府の時代と国府三転説
 坂本美雄氏の説、
 山梨郡という郷名が称された時期は七世紀中ころ(645)大化改新の時期にあたる。最初は「郡」ではなくて「評(こうり)であり、郡になったのは大宝律令( 701)制定頃。山梨郡は東都と呼ばれ古代国家の最も開発の進んだ地域である。六、七世紀の古墳研究からみると
 御坂勢力…………御坂町・八代町
 甲府北西部勢力…甲府市域を中心とする。
 春日居勢力………春日居町を中心とする。
 六世紀後半の古墳…御坂町姥塚古墳・甲府市加牟那塚古墳のような大きな古墳は春日居町には存在しない。
 七世紀後半…寺本廃寺の建立。(甲斐国始まって以来の大事業)…仏教という新文化建設。
 鎮目の保雲寺裏手の「寺の前古墳」や「狐塚古墳」らは仏教伝来を示す舎利容器が発見されている。
 その附近から大和朝廷の武士の存在を示す環頭太刀の握頭も発見されている。
 このことは三代勢力のうち春日居勢力がいち早く中央と結んでその文化を摂取し、盆地内の最強制力にのしあがったことを示すものである。

『甲信紀定』邨岡良弼氏著(下総の人)明治三十九年著
『和名抄」に甲斐の国府在二八代の郡一と。石和の東南二十町許(ばかり)に国衙村あり。また小岡ノ郷とも書り(柏尾大善寺文書)そは高平たる百畝許の地を臺の上と呼。これ国庁の墟にて大門と字せるは其端門の遺と知らぬ。聖武天皇建(オカ)し給いし国分寺は(延喜式に甲斐国分寺料稲二万束)国分村の在。(護国山と云、今は臨済宗なり)桙衡神社(神名式)はその二ノ宮村に在し、世に美和明神と称ふ。旁近数村(アタリノムラサト)を都て八代ノ荘と呼(イヘ)ば、古の八代ノ郷の域なり。云々。

「甲斐の歌」『古代の道と国』丸茂武重氏著 昭和61年発行
『万葉集』の東歌にも防人の歌にも、甲斐の国の歌がない。どうした理由であろうか。しかし、平安時代になると甲斐歌が流行してくる。甲斐歌は歌詞ではなくメロデイであったろう。
  西国なれど、甲斐歌など誦う………『土佐日記』 土佐国から京に帰任する紀貫之は、乗船の際に甲斐歌を聞いている。
   また『平家物語』には、
  女はじめ詠(い)ひたる歌をふりあげつつ、甲斐歌に唄ひ行けりとある。
 甲斐は、甲府盆地と、「甲斐が嶺」と『古今和歌集』にうたわれた、西部は赤石山脈、北部は関東山地、東南部は御坂山地か成っている。赤石山地と八ヶ岳・蓼科山地の間にある小地溝には、七二一年(養老五年)に信濃国の一部が裂かれて諏訪国が一時的(十年間)設置されたが、その理由は史料的には判明しない。いわゆる古東山道は、蓼科山を北上し上田盆地に通じていたので、あるいは諏訪国から八ヶ岳山麓東行して釜無川流域を通って甲斐国に通じていたとも推定されるが、令制によって定められた東海道支路が、駿河国から御坂峠通って甲府盆地と結ばれていた。御坂山脈の標高は二、〇〇〇メ-トル以下ではあるが、起伏量が大きく、また北東から南西に向かって走る断層列によって分断されているために、交通が困難であった。
 甲府盆地には東から笛吹川、西北から釜無川が流入し、合流して富士川となっている。盆地床の標高は当部で四〇〇メ-トル、交付しないで二六〇メ-トルである。盆地の南部、御坂峠の西にある中道町には大規模な方形周溝墓があり、右左口峠を越える古道があったろう。
 このように山地で囲まれた甲斐国の歌には、この自然がよく詠まれていた。
  甲斐がねをねこし山こし吹く風を人にもがもやことづてならん(『古今和歌集』)
 また、山々で隔離された生活があるため、
  甲斐人の嫁にならじ事辛し甲斐の御坂を夜や越ゆらん  (『承徳本古謡集』)
 ともうたわれた。「風俗歌」にも周囲の山々=甲斐ケ嶺をうたったものに次のふたつがある。
  甲斐が嶺をさやに見しかや心(けけれ)なく心(けけれ)なく立てるさやの中山(遠江国小笠郡)   
 この歌の意味ははっきりしない。
  甲斐が嶺に白きは雪かやいなさをの甲斐の褻衣(けごろも)や晒す手作りや晒す手作り

『風土記』に見る甲斐 武田祐吉氏編 昭和三十二年第八刷発行
 例言(抜粋)
 風土記は地誌である。元明天皇の和銅六年(713)に、諸国をして、その国の産物、地味の良否から、地名の起源、古老の伝承等までを報告せしめた。
   甲斐の国逸文 菊花山(都留菊花)
 此の歌の註に云ふ、風土記に、甲斐の国、鶴の郡、菊花山あり。流るる水菊を洗ふ。その水を飲めば、人の寿鶴の如し。
 雪の上に菊ほりうゑて 甲斐刻の鶴の郡をうつしてぞ見る
 風土記に。
   甲斐国鶴郡 有菊花山 流水洗菊 飲其水 人寿如鶴云々
   『夫木集』十四藤長家歌
 かひがねの山里見ればあしたづの 命をもてる人ぞすみける
 六帖にあり、貫之が歌也、かひの国のつるの郡に菊おひたる山あり、その山の谷よりながるゝ水菊をあらふ、これによりてその水をのむ人は命ながくしてつるのごとし。仍て郡の名とせり、彼国風土記に見えたり。(和歌童蒙抄四)

 






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最終更新日  2020年08月01日 20時55分50秒
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