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2020年08月07日
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カテゴリ:柳田国男の部屋

柳田先生と教育

柴田勝氏著

一部加筆 山口素堂資料室

 

 小学校の教師たちが手頃に買える標準で私の本は定価をつけているつもりだ、こう高くなるのではおもしろくない。と先生は戦時中に申された。新らしく出来た本の匂いを嗅ぐのが私は好きで、楽しみでも

あるのだが、こうなっては装頓などもとやかく云えなくなるし、たのしみが減る、と云う意昧のことも申された。本を書く、本をつくることについて先生は細かな注意と大変な努力をされ、本に対する強い愛情をもっておられたように私には感じられた。

 フィレンツェのウフィツ美術館を行き廻って、あの有名なボッチェリーのヴィナスの誕生を見たときから、「桃太郎の誕生」を考えていられたらしいのだから、書かれた本につける書名もずいぶんと考えをこらしてつけられたことがよくわかる。

(このことだけについて見ても全くすばらしいことだ)。

だから先生の著書名はみんな詩的な名まえがついている。一般の学者がつける書名とは異なる特色をもっている。

 先生の書斎(研究所になった)に入って行って、先生が大変な興奮をしていられたのを見た経験を私は三つ記億している。いずれも戦後である。

 「君が、どこまでもそんな考えで学問をしようというならば私は一切援助も協力もするわけにはいかぬ。それは実態調査というやりかただ。そんな無駄なやりかたはやめなさい、」

という意味のことを申されていた。

東北に転勤になったので、東北地方を調査研究しようという若い学者に対しての忠言であった。はいっていった私すら気の毒に思うぐらいの興奮のしかただった。(実態調査の流行時代だった)

 確か、砧文化会の仕事を世話していた人だったように思う。どうしても先生の要請を聞き入れない様子のその人に、

「わたしはこの年になっても自分の救霊のことすら考える暇なく、なお学問をしている者だ。君の年で人のために働くことにみきりをつけるのは間違っている。」

という意味のことをはげしい興奮で話していられた光景である。

 つぎは、たしか月二回行われた学会の時であったように思う。

談たまたま学問のことになったときである。

「国敗れてなんの学問ぞや」

とはげしい語調で一同に申された。学問のための学問など云うのはおかしい、国あっての学問ではないか、という意味のことであったように思う。

 こういう先生の態度は、人間および教育者の基本的態度を教えるものだ、と学校の教師なるが故の私にはそれらのことについて深い惑動をもったものであった。

 日本文化の伝承者として利用価値がある子ども、などとは別に先生は日本の子どもに対して深い愛情をもって居られた。したがって、直接こどもに働きかけることもされたし、敦育について、いくつかの提唱もなされた。

「日本の昔話」を始め、いくつかの本を、子どものために書かれたのはその証拠である。しかし、先生は決して敦育の実際や技術上のことに対しては兎や角いわれなかった。教育というものは技術ではないのかネ君、とは何遍も私に云われた言葉であった。教育の技術は、それは諸君教育者の工夫し考えることであって、私などのとやかく云うことではないよ、というのが先生の態度であった。

 教育研究会のときに、ある地方の教師が、社会科で、大単元制がよいか小単元制がよいかを質門したら、即座に『それは諸君自らが考えるべきことではないか』、

と答えられた。学校は村落や家庭からいくたの教育面を奪ったのであるから、いまさら無責任なこともできまい、その面の教育を大いにやる義務がある、というのが先生の、学校教育に対する考えであった。     

 

 集団疎開は、都会の子どもたちが地方農村を観るよい機会である。どうみたらよいかを教えようとして企てられた本があったが、そのうちに戦争は終った。その原稿の一部を集めて出版したのが「村と学童」であった。先生はいつも、果してご自分の書く文章が子供に読めるか、読まれるだろうかについてたえず心配と不安をもって居られたようである。

 社会科が、学校の教科にはいる、という時の先生の熱意は大変なものであった。社会ということばはよくない、ほんとうは「世間」とでも云ったらよい、だから、社会科は「世間勉強」とでも云ったら一番ぴったりする、というのが先生のお考えであった。

社会科は暗記にあるのではなく、社会を理解する関心にあるのだから、その目的は史心を培うことにある、と申された。だから同じ単元を何遍も出す必要はない、というのであった。菊池喜栄治、白井緑郎等、成城学園の教論たちに毎週一回約三年間、小学校で必要な単元と内容について話された。

 国語教育に対する先生の熱意はまた大変なものであった。「過去の国語教育は文学と読み書き中心の敦育であった、それではいけない、話しことば、話しかたの教育が重視されなければいけない、」

というのが先生の考えであった。戦後、国語教科書の編集に積極的に乗りだされたのはそのためであるご孔会科の教科書はない方がよい、というのが先生の見解であったが(われわれもそうであった)どうしても一般の教師たちが必要とする実際を見るに及んで、これを作ることに踏み切ったが、時期が遅れたために採択が少なく、廃刊になったのは残念であった。(前、成城学園小学校長)

         






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最終更新日  2020年08月07日 09時35分27秒
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