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2020年08月14日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

怨念に朽ちた甲府勤番 忌み嫌われた甲府行き

 

竹内勇太郎氏著

 

『歴史と旅』「特集 江戸サラリーマン武士道」

昭和3910月刊 一部加筆

 

ひとたび任命されると、

生きて江戸に戻ることは困難であった甲府勤番士の失意と怨念

 忌み嫌われた甲府行き

 

 天明六年(一七八六)老中田沼意次が失脚し、吉宗の孫にあたる松平越中守定信が老中首座に任ぜられたとき、大田直次郎(南畝)は、-まずい。と、直感した。

 若い定信は謹厳だが、少々直情的なところがある。彼は腐敗しきった田沼政治を徹底的に一掃して、新しい幕政の倫理を実践しようとした。

 たしかに定信の粛正は峻厳を極めた。すなわち田沼沢の大老井伊直幸、老中水野忠友、赤井忠晶、松本秀持らは免職・減封の処罰をうけ、意次と通じ専横の振舞のあった大奥の老女大崎をはじめ女中敷十人の罷免、さらに意次と結託して不当の利をむさぼった商人たちも、獄門・死罪・遠島などの重刑に処せられた。

 とくに、勘定吟味没の土山宗次郎孝之が在職中の背任を責められて切腹を命じられたときには、さすがの直次郎も震えあがった。

 孝之の罪は表向き背任だが、実質的には大文字屋の花魁(だが)(そで)を千二百両で見受けして、妾にしたという点である。直次郎は孝之に目をかけられていた。

たびたび遊里に誘われて昵懇(じっこん)の仲である。その上、僅か七十俵五人扶持の御徒の身でありながら、孝之と同じように吉原角町の松葉の花魁の三保崎を身請けしている。勿論、小身の御家人にはそんな金はない。「洒落本甲府新話」「世説語話茶」「天明新鐫五十人集」などの著作料である。

 直次郎は必死であった。身請けした妾の三保崎と同時に、牛込仲御徒町の組屋敷には妻と二人の子供もいる。

 

 ――首を飛ばされたんじや話にならねえ――

 

直次郎はあらゆる手蔓を使って、懸命な保身運動を続けた。その中で若い頃、世話になった漢学者の松崎観海に泣きついたのが効を奏した。

 ――なんとか、お構なしということになりそうだ。但し、多分、甲府勤番詰を命じられるかも知れない。

 領海は直次郎にそう伝えた。

 ――冗談じゃねえ、甲府へ送られるなら、死罪になった方がましだ。

 領海の言葉に、直次郎はひきつった顔でそう思った。

 甲府へ送られるなら、死罪になった方がましだ、という直次郎の言葉は、当時の旗本・旧家人の共通した感懐でもあった。

この甲府勤番は享保九年(1724)三月、当時の藩主柳沢甲斐守吉里(吉保の子)が大和郡山に転封になってから、幕府が甲州を天領地として、甲府勤番支配をおき、甲府城の守護、城下の管理、府中(甲府)の行政、弓・鉄砲などの武器の整備などに当らせたものである。

 勤番支配は大手と山ノ手の二組から構成され、知行としては三千石、それに役料千石がついた。この二人の支配は上級旗本から任命される。配下の勤番士も旗本だが五百石以下、二百石以上でそれぞれ組頭二名、勤番士百名、それに与力十駱、同心五十名がつく。

 

彼ら脚本が甲府行きを命じられると、顔面蒼白、肌に栗が生じるとまで、忌み嫌われたのには理由がある。

 それは、当時の甲州という土地柄である。

 

江戸から三十六里。甲府までの間には小仏・笹子という峻嶮な二つの峠がひかえている。

 甲府盆地はともかく、他は一面の山岳地帯である。土地は狭く痩せている上に寒暖の差がはなはだしい。

 当然、領民の生活は貧しく、そのために気性も激しく荒々しい。農民は貧苦には慣れているが、それだけに狡猾で油断が出来ない。粗暴な甲州博徒が幅をきかす一方では、山岳地帯には、今も野盗の集団や、山人たちの集落がある。そして村々には所謂御浪人さまと奉られている武田の遺臣が、不気味な視線で勤番支配の行政ぶりを見つめている。

 それだけに、華やかな江戸風俗に馴染んできた旗本たちの目には、ぞっとする程の荒涼とした薄気味悪い土地に見える。

 

甲府勤番忌避の嘆願運動

 

 旗本たちが甲府行きを恐れている理由はまだある。宰領の勤番支配は、任期四、五年で配置替えになる。長崎奉行とか、江戸小普請支配とか、一応、栄転が約束されている。だが、その下の勤番士には殆ど転任の機会がない。一度甲府に送られると、終生、甲府勤番士として骨を甲州に埋めることになる。彼らが甲府勤番士を命ぜられて絶望的になるのはここにある。

 もっとも、幕閣では甲府を勤番士の終生の任地とは考えていない。適当な時期に他へ任地替えをさせようと思うのだが、後任がない。甲府左遷の内報を掴むと、どの旗本も震えあがって嘆願運動を必死になって行なう。

 旗本浜中三右衛門の嘆願を見てみよう。

 

「私は当月七日に甲府勝手小普請を命ずる旨の申渡しを受け、実に驚き入りました。家族一同は、ただ悲嘆啼泣しております。ことに養子の身分であるため、先祖や養父にこの上ない不孝のことと当惑至極に存じております。云々……」

 

これを老中に差出すと同時に、甲府勤番支配には、

 

「自分には至って厄介な者が多く、その上老父母がおりまして、平常の手当すらも心にかかりながらも、何かと疎隔がちで、なんとかもって相応の御奉公をお願いして、生前の孝養をつくしたいと念ずるほか、なにもございませんでした。その矢先へこの度の言い渡しを蒙り親戚一同、哀情離別愁嘆つきがたく、さりとてどのように申すべきもなく、ただくり返し嘆願いたすよりほかございません。云々……」

 

と、なりふりかまわず必死に訴えている。この浜中三右衛門は、例の天保改革の立役者水野忠邦の失脚後、鳥居甲斐守の手先となって活躍したことが分り、当然、懲罰の意味で甲府勤番士として左遷された訳である。

 時代は少し違うが、大田直次郎の場合と似ている。

 甲府勤番士を命じられて、大田直次郎や浜中三右衛門と同じように、あわてふためいて嘆願書や訴え状を書いた旗本は相当多い。

 柳亭種彦こと、小普請の高屋彦四郎もその一人で、これは『僞紫田舎源氏』の筆禍で睨まれたのである。

 天明五年(一七八五)湯島立爪坂に住む四千石の旗本藤枝外記が、浅草田圃の百姓平右衛門の物置で吉原の花魁綾衣と心中した。この時代、士道が地に堕ちた田沼時代だけに、外記の心中事件の前後にも、同じ直参旗本の阿部式部が、やはり吉原の花魁花扇と向島の堤で心中している。

 この藤枝外記の心中事件のとばっちりで、甲府へ送られたのが林伊織という御家人である。伊織が外記の腰巾着だったという理由である。

 この男、嘆願書も出さずに勤番方の同心として甲府に送られたが、半歳たらずで甲府を出奔。数年後、武州の博徒弥之助という者の用人棒になり、喧嘩騒ぎで死んでいる。 

外記の後について二、三度、綾衣のいる吉原の大菱屋に行っただけで、彼は一生を棒に振った訳である。 

もう一人、もっと悲惨な勤番士の例がある京橋南一丁目の屏風商山崎屋利左衛門の次男亀蔵は、幼い頃から武張ったことが好きで、十二、三歳の頃から町人のくせに町道場へ通い、道場主の岡田十松から免許皆伝をうけた。それがこうじて、亀蔵は武士にあこがれるようになった。子に甘い利左衛門は本所の旗本佐藤弁内の株を買い、亀蔵は二百石の直参旗本佐藤亀蔵となった。株を買うというのは、何百両かの持金を積んで、当主と養子縁組を結ばすむ。あとは、家督相続願を提出するだけである。ところが、亀蔵の場合、相続願と同時に出す親類書がひっかかった。もともと生家は百姓上がりの商家だけに、養子縁組となるとどうしても書面上、飾る必要がある。元はさる大名の家来だとか、某旗本の用人だったとか、かなり悪どい身分詐称をやった。

 問題になりかけたが、結局は利左衛門が金の力で幕閣を抑えた。だが、家督相続後、半歳たらずで亀蔵は甲府勤番士として赴任を命ぜられた。“不正は黙認するから、甲府へ行け”。これが公儀の処置であった。

  

勤番士恨み節

 佐藤亀蔵の悲劇は続く。亀蔵は町道場の弟子仲間、御家人樋口又造の妹千絵と恋仲であった。又造は小 禄の御家人で小十人組である。しかし旗本の養子になったことで、亀蔵と千絵は結婚出来た。あこがれの旗本になれた上、恋しい女と一緒になれたのだ。亀蔵は天にも昇る気持であったろう。

 ところが、想像もしなかった甲府行左遷人事である。亀蔵は愛妻千絵の手を握って、悲憤の泪を流したのは当然である。

 甲府勤番士の下命を受けて三ヵ月目、亀蔵は甲府に赴任していった。ところが、二カ月程遅れて甲府に来るといった千絵が来ない。督促の手紙を出すと、病気になって実家の樋口家に戻ったという。

 勿論、口実である。江戸育ちの千絵は甲府行きを拒否した訳だ。甲府へ行けば生涯江戸には戻れない。そう思うと彼女は彼女なりに重大決心をしたのだ。亀蔵は失意のまま、三年程、勤番士の生活を続ける。三年目を過ぎた頃から、その言動がおかしくなった。発狂したのである。そして半歳後に、彼は庭の松の

木の枝で首を吊った。自殺という説と、仲間の勤番士が見かねて、そうした処置をとったとも言われている。

 以上のような事例を考えると、幕府が如何に旗本御家人を、甲府に送り込むに腐心したかが分る。

はっきり言って、甲府勤番士を命じられる旗本や御家人は、その過去に於いて、なんらかの罪状・悪事・不屈の行跡をのこした者たちばかりである。上司に対し不敬・不遜の振舞に及んだとか、あるいは深川芸者や吉原の遊女に迷い、放蕩の限りをつくしたとか、博徒と交って自分の屋敷で賭場を開帳したとか、とにかく無頼放蕩、あるいは反体制の男たちを、懲罰の意味で送り込んだとみていい。

 『甲陽随筆』『甲州噺』あるいは『甲陽茶話』などという古書とならんで『裏見寒話』という江戸時代の随筆集が残っている。

 この作者、野方成方は甲府動番士である。内容は甲斐の歴史・地誌・民俗などを聞き書きにしたものだが、その片々に僻地で生涯を閉じなければならない寂寥感や、空しさが潜んでいる。

 

石屋根は不二の裏店雪隣

  裏不二やむかし鹿子のはづれ雪

 

こうした俳句のなかに成方の諦観がうかがわれる。表題の裏見は、恨みの意と、富士山を裏から見るという意をかけたもので、寒話はそのまま作者自身の心境であろう。

 

放縦無為に堕した甲府勤番支配

 甲府勤番士の実体を書いた古書や記録は意外と少ない。しかし、それとは逆に顕彰的な記録はわりと多い。

 山梨大学の前身は「徽典館」といったが、これは寛政七年(一七九五)甲府勤番支配の近藤淡路守政明、永見伊予守為貞が勝手小普請役の富田富五郎(武陵)らによって興されたもので、甲斐の文教を盛んにした。また与力の吉川新助は陽明学を、ついで垂加神道を学び、勤番士を教育したことで知られている。徽典館と命名したのは大学頭林衡である。

 一方、勤番支配の松平定能は、甲斐在住の学者内藤右衛門、森島弥十郎、村松弾正左衛門らを動員、甲斐の地誌『甲斐国志』百二十四巻を編纂している。

 

他に著名な勤番士としては、明治の新政府の民部省の駅逓(えきてい)権正(ごんのかみ)、今の郵政大臣になった杉浦譲などがいる。

 だが、こうした顕彰された人物の記録は詳しいが、その人材の数はあまりにも少ない。

 勤番支配になる前の藩主の柳沢吉保・吉里父子は、その田身が甲州だけに民政に力を注ぎ、城下の整備や殖産振興に努力したので、甲府は明るく活気づいた。

()()雑記』に、「棟に棟、門に門を並べ、作り並べし有様は、是ぞ甲府の花盛り」

 と、書かれていたが、吉里が大和郡山に去ると、甲州は再び勤番支配の暗い時代になった。

 失意の怨念で自暴のまま朽ちていく旗本や、虚脱感のなかで諦観をみせ、無為の歳月を送る男たちが、為政者としてその職務に就いたととろで、その民政はひずみ荒れるだけである。

 寛延二年(一七四九)の米倉騒動、続いて寛政四年(一七九二)の(ふと)(ます)騒動、そして天保七年(一八三六)の郡内騒動など、相次いで一揆が起きたのも放縦弛緩した勤番支配の結果であろう。

 とくに郡内騒動の場合は、米価の暴騰や奸商の専横に憤激した農民数千人が蜂起し、甲府や甲斐全般に押寄せ横暴の限りを重ねた。これに対し、甲府勤番士たちは自力で鎮圧することが出来ず、隣の諏訪藩や沼津藩の力を借りて、ようやく追捕することが出来たという非力ぶりであった。

 

更に幕末期に於ける甲府勤番士の行動は、誠に無能・醜態といわねばならない。

 

慶応三年(一八六七)三月、東山遊軍の参謀板垣退助は、信州から甲府に入るとき、幕府直轄地で血気の旗本が固める甲府城だけに、相当の抵抗を覚悟していた。

 しかし、彼らを迎えた甲府勤番の旗本たちは、事態の急変に周章狼狽して右往左往するばかりで、なかには江戸や他国に逃げだす者もいた。やむなく姿を見せない城代(勤番支配)に代り、町奉行の若菜三男三郎や中山誠一郎がその折衝に当っている。

 その頃になると殆どの勤番士がその職場を棄て、四散してしまった。彰義隊や新選組にくらべて、誠に不甲斐ない腰抜け旗本たちである。甲府勤番は、やはり旗本御家人の流刑地であったかも知れない。    (了)

 

武田夫膳大夫晴信(その二)

 

甲州武田家の人々/第十八回

 

『歴史と旅』「特集 江戸サラリーマン武士道」

昭和3910月刊 坂本徳一氏氏著 一部加筆

 

信濃攻略に二十年余の歳月を費やした信玄は、川中島五度の合戦によって、越後の上杉謙信と対決する

 

信州佐久の志賀城攻め

 

武田春信の信濃攻略は数え年二十二歳にはじまり、永禄七年(一五六四)夏から秋にかけての第五回川中島の対決で終わっている。晴信改めて信玄、数え年四十四歳であった。

 全信州を完全に制覇するのに二十二年間の長い年月をかけたことになる。

 内外ともにすぐれた軍事力と占領政策をとりながらなぜ信濃を席捲するのに二十有余年を費やしたのか。平たく言えば甲軍は加害者であり、信濃の人は被害者であったからである。信濃の占領政策に落ち度がなかったにせよ、侵略者である武田晴信に対する怨磋の声を消すことはできなかったのである。

 血気盛んだった晴信の信濃の攻略の前に立ちはだかった最初の挑戦者は、佐久の志賀城主笠原新三郎清繁である。佐久市志賀地区にそびえたついかめしい志賀城址には、今も甲軍に滅ぼされた怨念が漂っているようだ。

 『晴信二十七歳の天文十六年(一五四七)七月十三日、上野国平井郷(群馬県藤岡市)の関東管領上杉憲政を後ろ楯にして晴信の降伏勧告を拒絶し、志賀城にたて籠って徹底抗戦の構えを示している笠原清繁とそれを支援する依田一族、上杉方の援将高田憲頼以下一千の殲滅をはかるため甲府を出発。途中、稲荷

山城(長野県南佐久郡臼田町)に到着、信濃の先方衆を召集して約一万の軍勢で志賀城を包囲した。

攻撃を開始したのは七月二十五日朝であったが、天然の要害に囲まれた山城をよじ登るのに困難をきわめた。山岳戦を得意とする武田の足軽隊も、上から必死に防戦する笠原軍に阻まれて、一日だけの総攻撃で百余人の死傷者が出るほどであった。十日間の攻撃に屈せず、容易に城は落ちなかった。

 攻撃をあきらめた晴信は長期の構えを指示し、城内に流れ込む水の手を止めてしまうなど心理作戦に転じた。流水を止めても城内に数カ所のわき水があって、飲料水には事欠かず、笠原軍の士気はあがる一方であった。彼等が頑強に抵抗する理由は、清繁の正室が関東管領の上杉憲政の娘であり、「舅殿は必ず助けに来てくれる」という確信があったからである。その期待にたがわず、憲政の副将金井秀景を総大将とする上州軍約三千余りは八月五日、平井郷を発って碓氷峠を越えて笠原軍の救援のため志志賀城へ向かった。援軍が来る。忍びの者の報告を受けた晴信は志賀城へ到着する前に潰滅させる(はら)を決めて副将の板垣駿河守信方、横田備中守高松、甘利備前守虎泰、多田淡路守満頼の各隊を召集して、約三千の甲軍を浅間高原の小田井原へ急行させて、白樺林や雑木林の繁みの中で、上州軍が通過するのをじっと待たせた。

 六日早朝、小田井原にさしかかった上州軍は、背丈ほどの秋草の繁みの中に隠れていた甲軍に近くから奇襲されてあわてふためき、隊列をみだして応戦したが、甲軍が放つ矢と襲いかかってくる槍の攻撃を浴びてまたたく間に馬上から落ちて数十人が斃れていった。

 戦うこと約二時間、上州軍の金井秀景が部下に守られてやっとの思いで死地を脱して逃げ去ったあとには、一千を越える上州軍の戦死者がいた。

 役付きとみられる首級五百余りを持参して帰陣した板垣ら甲軍の将士は、晴信の前で首実検され、軍功に応じて晴信からのちに感状と褒賞(金子または領地)が与えられた。

 首実検のあと、大将首をはじめ主だった上州軍の首級すべて五百余り、槍の穂先に刺して志賀城内から見通しのきく広場に並べて飾った。

 「笠原殿。この首に見覚えがあろう。関東管領の上杉憲政殿のお身内の諸将の首級でござる。昨日、小田井原で待ち伏せて援軍ことごとく討ち取った証拠の首でござる。とくとご覧下さい。もはや、上州からの援軍の道は絶たれたも同然、無駄な抵抗をやめて即刻、大手の門をあけて降伏するなら女子供は言うに

及ばず、笠原殿ご一党のお命を保証しよう。半刻後にご返答を給わろう」

 地声の大きいのでは定評のある鬼虎の小幡豊後守昌盛は、ありったけの声を張りあげて叫んだ。しかし、半刻過ぎても城内から降服の意思表示がなかった。

 明けて八月十日早朝、全員玉砕を覚悟した笠原清繁以下全将兵は、城内に女子供を残して大手門を開き、武田の本陣めざして総攻撃をかけてきた。必死に戦う笠原軍の戦闘ぶりに千軍万馬の武田の将兵もたじろぐほどであった。三里四方に散っての白兵戦は延々二十六時間も続き、翌十一日正午頃、文字通り全員が戦死した。武田方でも百余人の戦死者が出たほどの激戦だった。

 

 笠原清繁は城内の本丸で戦死、遺児二人は自害、上杉方の授将高司憲頼父子も諏訪の先方衆の小山越前守の刃に斃れ、清繁に加担した佐久の土豪依田一族も滅亡した。

 

『妙法寺記』によると、この日、城内に取り残された女子供のセリ市があって一人につき一貫文から五貫文で売買され、上杉家の出で才媛のほまれ高い清繁の正室は、晴信の親類衆の一人、郡内領の小山田出羽守信有が二十貫文で買い取り、甲州の駒橋(山梨県大月市駒橋)の館に連れ帰って寵愛した、とある。

 

村上義清との戦い

 晴信のいくさは、甲軍を侮り、抗戦する者に対しては徹底的に戦って潰滅的な打撃を与えるが、逆に敵として戦った相手でも降伏して忠誠を誓った者に対しては、武田譜代の家臣と分け隔たりなく遇した。

 侵略者晴信を終生敵視して戦い抜いた村上義清が、北信の小県郡に攻め込んできた甲軍と四つに組んで戦ったのは天正十七年(一五四八)の二月十四日の上田原の合戦である。上田原はいまの上田市の千曲川ぞいの川辺町など七つの地区にまたがる原野であった。

川辺町の石久摩神社の境内に「上田原古戦場」の大きな碑がある。この戦いで甲軍は惨敗した。

 武田の前線の騎馬隊は各地で村上軍の巧みな作戦に乗せられて、伏兵が放つ弓矢と槍襖に囲まれて、多数の戦死者を出した。葛尾城を本拠とする村上軍は、小県・佐久郡下の土豪に決起を促し浪人の救済を兼ねて葛尾城へ集結、侵略者を信州から追い出すという大義名分を掲げ、総力をあげて武田方に抗戦した。

 この合戦で武田方の副将板垣信方、甘利備前守虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門の四将が戦死した。晴信もまた左腕に槍の穂先を受けて負傷した。甲軍の戦死者は七百人を越え、村上軍も勇将雨宮刑部、小島権兵衛ら三百敷十人の死者を出した。

 上田原で苦杯をなめた晴信は、それから二年後、天文十九年(一五五〇)九月九日、宿敵村上義清を戸石城(上田市神科)に攻めた。晴信以下八千の甲軍は、三方から攻撃を開始したが、砥石を立てたような絶壁に阻まれて難攻し、二十二日間の攻防戦で晴信の腹心横田備中守高松以下一千人ほど戦死し、手負いの将兵がふえるばかりであった。

 晴信に誤算があった。戸石城にたて籠っているはずの義清は実は城外に潜伏し、武田方と和睦して参戦している北信の豪族高梨政頼とひそかに取り引きして高梨の寝返りを画策、十月一日、戸石城で苦戦している晴信の本陣めがけて総攻撃をかけてきた。

 城内にいるはずの村上義清が突然、寝返った高梨軍と糾合して背後を衝いてくるとは夢にもおもわなかった不祥事である。前と後に村上軍の猛攻を浴びた晴信は、これ以上、味方の犠牲者をふやすのはしのびないとして、生まれて初めての退却を命じたのであった。

 のちの人たちは、この攻防戦での武田軍の敗北を評し「戸石崩れ」と呼んでいる。

 全員に退去を命じ、二日朝、諏訪の上原城(茅野市)にたどり着いた。甲軍を撃退した村上軍は、武田方の出城の稲荷山城を襲い、城に火を放ち、さらに甲軍に寝返った真田方の寺尾一族の集落(長野市松代町)を襲い、女子供を皆殺しにした。

 戸石城は翌年五月、真田幸隆の知略で戦わずして武田方が占領したが、村上軍は信濃守護の小笠原長時の属将平瀕八郎左衛門などあらたな同志を得て、武田方に戦いを挑むが、晴信は真田一党と山本勘助らを使いにして敵方の土豪と内通し、多額の献金、厚遇を条件に買収して、戦わずして村上義清と越後の春日山城主の長尾景虎(のちの謙信)と縁続きの高梨政頼の孤立化を謀り、村上、高梨の反武田勢力を越後へ迫放しだのは戸石崩れの戦いから二年後であった。

 

挙国一致体制

 

 村上軍との戦いのさなか、晴信は南信伊那の叛乱の鎮圧に出兵、天文十七年七月十九日未明には、塩嶺山脈の勝弦峠に集結していた小笠原軍に奇襲をかけて一千人余りを討ち取っている。

 

 村上義清を越後に迫放したあとの天文二十三年(一五五四)七月二十四日、信州下伊那の「神の峰城」を攻撃、城将の知久頼元ら八人の将を生け捕りにして連れ帰り、河口湖の鵜の島に監禁し、翌年の弘治元年(一五五五)五月二十八日、船津浜で打ち首にしている。

 晴信の戦績をたどると二十代は、手練の時代だったと言えよう。二十一歳で甲斐の国守の座にすわり、諏訪攻略を手始めに自ら陣頭に立って戦いの場数を踏んでいくうちに、いくさの作法を会得し簡単な答えではあるが「負ける戦いは、はじめからするものではない」という結論を得た。特に戸石城攻略の失敗は骨身にこたえたらしく、その後の合戦に際しては戦う前の細密な調査、「敵を知り己を知らば百戦百勝」の孫子の兵法どおり、慎重な態度でいくさに臨んでいる。

 村上、高梨の北信軍が越後の長尾景虎を頼って信濃を去れば、越軍との戦いは必然だろうという予測を立てていた。その激突は晴信が予想していたよりも早くめぐってきた。

 越後を相手に戦うとなれば、さらに巨額の軍用金が必要になり、武田軍団の人員の増強も必要となる。それよりも大事なのは挙国一致体制であると晴信は考えた。すぐ下の弟の典厩信繁に命じ、天文十六年(一五四七)五月、最初の「甲州法度之次第」の原案を作らせた。それに自ら手を加えて五十七ヵ条として制定し、甲州および信州の占領地に住む住民にいたるまで法律を遵守するように布告、自ら法に従うことを宣言している。

 領土の拡大に伴う人心の掌握を重点に、挙国一致体制と治国安民の政策を推し進める骨子として法を制定したのである。法を制定することは、自らを戒め、己を縛ることになるのだが、晴信は志賀城攻略の前に甲州法度を制定したことに意義があり、四隣制覇をめざす青年晴信の面目躍如とする快挙であった。

 

川中島五度の合戦

 

越後の長尾景虎が村上義清、高梨致頼の先導で信州の土を踏んだのは天文二十二年(一五五三)四月二十二日である。新暦に改めると五月のさわやかな季節である。越軍約一万の大軍は川中島を越え、更科郡の八幡社付近で甲軍と激突した。越軍は猛攻して、武田が占領していた葛尾城を奪回した。武田方の城将於曾源八郎をはじめ、葛尾城を死守した武田方の城兵は戦死した。

 越軍との決戦を避けた晴信は、全員に退去命令を出し、二十四日、苅屋原まで退却して五月一日、深志城(松本城)に立ち寄り、敵情を調べて甲府へ帰国した。

陣容を立て直した晴信は七月二十五日、五千余の将兵を率いて甲府を出発、佐久をへて越軍に奪還された内山城、望月城などを奪い返しながら八月一日、甲軍は小県郡の長窪(長門町)に布陣、越軍の前線和田城(同郡和田村)を攻めて城将らことごとくを討ち取り、四月には高島城(同郡武石村鳥屋)に攻め入り、城兵を全滅させた。

 甲軍の反撃で村上軍は確保していた塩田城も放棄して、塩田平の十六の砦も甲軍に破られて、小県郡は再び甲軍に制圧された。

 晴信は塩田城に腰をすえて更科郡八幡に進出した越軍と各地で戦いを交え、甲軍の反撃を浴びて九月二十日、村上、高梨の北信の豪将と越軍は越後に退散した。

 これが第一回の川中島合戦である。時に晴信三十三歳。景虎は二十四歳であった。

 

晴信と謙信の宿命の対決は天文二十二年に始まり、第二回の川中島合戦(弘治元年七月~十月)では、晴信は初めて鉄砲三百丁を導入して試射している。

対陣中、駿河の今川義元が調停に立ち、①越軍は旭山城を破却し、北信諸士を選任させる、②越・甲軍ともそれぞれ勢力を保って相対峙することを禁じ、現状維持のまま撤収せよという調停案だった。

 短絡的な義元らしい冴えのない提言だったが、二百日も対陣している晴信と景虎には渡りに舟であった。義元の調停を両者は即刻聞き入れて景虎は春日山城へ。晴信が甲府へ引き揚げたのは閏十月末であった。甲軍の鉄砲三百丁がどの程度の威力を発揮したのか、これを裏付ける史料はない。

 第三回の川中島の合戦は弘治三年(一五五七)四月十八日の景虎と北信軍の越境に始まり、小ぜり合い程度で九月五日ごろ景虎は越後に引き揚げている。

永禄二年(一五五九)、三十九歳の晴信は出家して徳栄軒信玄と名乗る。景虎は同四年三月、上杉の姓を名乗って関東管領に就任、名を上杉政虎(のち輝虎、謙信)と改めた。

 信玄対謙信が激突し、両軍とも三千人以上の戦死者を出したのは、永禄四年九月十日の第四回川中島の合戦である。

 のちの人たちの創作が入りまじって大激戦にいたる経過の真相をつかむことはできないが、この日の夜明け、八幡原で甲越両軍が激突して信玄の弟の典厩信繁、諸角豊後守昌清、初鹿野源五郎、油川彦三郎、安間三右衛門、三枝新十郎、山本勘助晴幸らが戦死、甲軍の援軍が到着して戦況が逆転、越軍も多数の戦死者を残して午後三時ごろ越後に引き揚げた。

 長野市八幡原の八幡神社境内の信玄本陣跡に「三太刀七太刀」の碑があり、謙信・信玄の一騎討ちの銅像が立っている。しかし、上杉・武田関係の史料には一騎討ちしたことを裏付ける記録は一行も載っていない。後世の人たちの願望がドラマを創りあげたものとおもわれる。

 

最後の第五回川中島の合戦は、信玄四十四歳、謙信三十五歳の永禄七年(一五六四)七月二十九日、謙信が信濃善光寺に到着、信玄とは塩崎(長野市篠ノ井)で対陣した。

 激戦から三年経過していたが、五分と五分の配陣とあってうかつに攻撃できず、にらみ合いのまま六十日間、むなしく時を過ごした。

 謙信は下野の佐野昌網が北条方と通じて反旗をひるがえした知らせを受けて、信玄との衝突を避けて十月一日、越軍は潮がひくように引き揚げた。

 信玄は信越国境まで追跡して甲軍の前線基地とするため飯山城を攻略、越軍の信州進攻に備えて城を修復し、先方衆を含めて国境警備に兵力を増強した。

 五回にわたる川中島の合戦をとおして信玄と謙信は血みどろの戦いを続けてきたわけだが、第五回の対陣を最後に信玄と謙信の対決に終止符が打たれた。

 

 戦線拡大

 

 信玄の菩提寺の恵林寺(山梨県塩山市)に伝わる信玄の遺訓のなかに、

「およそ軍勝五分をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となす。そのゆえは、五分は励みを生じ、七分は驕りを生ずるゆえ、たとえいくさに十分の勝ちを得るとも驕りを生ずれば、次には必ず敗れるものなり。すべて戦いに限らず世の中のこと、この心がけ肝要なり」

 という有名なことばがある。

 四十代になった信玄は、いくさに臨み、慎重のうえにも慎重を期して出陣している。甲・駿・相の三国同盟も信玄の慎重さを窺える政略的な配慮であった。特に壊れやすい間柄の北条氏康・氏政父子には甲州特産の漆器類や毛皮、甲州金などの貢物を贈り・氏政の正室として信玄の長女(黄梅院)を差し出している。

 永禄九年(一五六六)五月、氏政に嫁いだ娘が懐妊したと聞いた信玄は、富士御室浅間神社に安産祈願文を奉納、「希みどおり母子ともつつがなく出産できた際は百人の僧を集めて法華経を読唱し、神馬を奉納する」と自ら筆を執って神仏に約束している。

 こうして足元をしっかり固めながら謙信に叛いた本庄繁長を支援して越後へ進攻して新井宿でひと暴れする一方、関東に進出して北条軍と合同で武蔵松山城、岩櫃城などを攻略、さらに西上野の倉賀野城(高崎市)、箕輪城(北群馬郡箕郷町)、惣社城(前橋市)などを攻略して、今川義元戦死身機に三河の徳川家康と合流して駿河進攻作戦を開始した。信玄の駿河進攻で三国同盟が破れ、今川氏真、北条氏政を敵として戦うことになるが、掛川城の先陣争いで家康ともタモトを分ち、その背後の尾張の織田信長の存在がクローズアップしてきた。(つづく)






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最終更新日  2020年08月14日 17時27分18秒
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