山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2020/08/15(土)08:42

昇仙峡開発にみる窪田幸左衛門と長田円右衛門

山梨の歴史資料室(467)

長田円右衛門と同志の人びと (小沢秀之氏著)(『郷土史にかがやく人々』)第十一集 青少年のための山梨県民会議編所収- 御岳新道を開き昇仙峡を世に出す - 九口の御岳みち   甲府市御岳町の金桜神社には、昔は参詣道路が九口あった。その九口の入口には信仰者らが大鳥居を建てた。今も中巨摩郡敷島町吉沢の旧道「御霊若宮」がまつられている所に大鳥居の礎石のみが草に埋もれている。これが昔の吉沢口である。この吉沢口が甲府からの金桜神社登拝の正面参詣道で、御霊若宮から右して行けば、吉沢から阿弥陀坂を登り、外道原、三声返しを経て、羅漢寺の表大門に出て、羅漢寺沢を登り、八王子社(猪狩村の産土神社)の傍から麦坂を通り、猪狩村に降り、それより金桜神社にのぼる経路を外道(ミネ道ともいう)と言った。別に亀沢通り(サワ道ともいう)という経路があり、御霊若宮より丘の坂を西へ降って亀沢に出て、亀沢川に沿って漆戸、下福沢、御岳とのぼるのも正面参詣道となっており、このほかに塚原口、杣口口、万力口、江草口、穂坂口があり、塚原、万力口を除けば、他は直接に金峰山山宮への登拝口である。  (略) 円右ヱ門の家は通称「よこて」と呼ばれている。儀右ヱ門の家は「わでの家」と呼ばれ、それぞれ家の位置で呼び名があるが、「なかの家」と呼ばれた惣七、また「下の家」と呼ばれる勇右ヱ門の家と、この四軒は系図式(略)に示したよりに同じ血につながる一族である。勇右ヱ門、惣七、儀右ヱ門の三家は猪狩村の名主・長百姓など村役人を代々交替で勤めていた。 円右ヱ門の妻の「みよ」は、巨摩郡江草村の田中家の娘で、二十四歳で猪狩へ嫁に来ており、猪狩村は西の山越しに通婚圏がひろがっていた。《浅尾新田村の窪田幸左ヱ門》浅尾新田村の窪田幸左ヱ門が御岳新道開鑿の測量を円右ヱ門・勇右ヱ門らに頼まれたのも、西の山越しの交際路の関係からであった。幸左ヱ門は頻繁に西の山を越えて猪狩村に入り、測量を続けたわけである。 幸左ヱ門は明和八年(一七七〇年)上小倉村(現須玉町上小倉)の丸茂家に生れ、浅尾新田村の窪田忠左ヱ門の妹婿となり、安政二年()十二月十日に八十四歳で没している。 幸左ヱ門が測量術をどこで勉強したかは明らかでないが、窪田家に伝わる目盛りの付いた自家製測量器具や多数の絵図は、幸左ヱ門が測量に手をつけた朝尾堰、箕輪堰随道工事、江草村嘉納堰、楯無堰、津金堰工事、川茂村・小形山村用水路開鑿工事(現都留市内)穂坂堰風越穴改修、野呂川測量など実に甲州国内三十三か所の隆道工事や用水路測量などをしてきた記録であり異才のあったことが知られる。 御岳新道工事の測量をした時の幸左ヱ門は六十五歳であったが、健脚は衰えず、弟子二人を使って岩壁を測量して廻った。勇左ヱ門家に残されている証書によると、幸左ヱ門は測量ばかりでなく工事の石切りや杣職など主要な人足集めにも応じていたらしく、勇右ヱ門が幸左ヱ門に人足賃として甲金十両を支払っている。この頃の十両は大金である。この金の工面には名主勇右ヱ門、長百姓惣七、百姓代円右ヱ門の三者連印の証書をつくつて、江草村(須玉)の庄兵ヱから畑三反歩を五か年間質入れして借りてあり、工事費捻出にはこうした苦心が重ねられていた。《窪田幸左衛門関係資料》『明野村誌』天保四年(一八三三)、猪狩村、御嶽新道関係書類。猪狩村の依頼により御嶽新道設計測量。工事着手は天保五年十二月二十一日 

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