山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2020/08/17(月)13:14

永峯秀樹 『明野村誌』

北杜市歴史文学資料室(155)

永峯秀樹 『明野村誌』       永峯秀樹は嘉永元年(一八四二)六月一日、明野村浅尾新田の蘭方医小野通仙の四男として生れた。 甲府徽典館に学び、十九歳の年、京都に遊学、江戸に出て士族永峯家の後嗣となり、武士の身分で幕末の騒乱の時代に活躍した。慶応三年(一八六七)から明治元年(一八六八)にかけては、戦火をくぐりながらも幕臣某から仏語を学んだ。その後沼津に移住し沼津兵学校に入り、資業生(二十一歳)となり、英語を学ぶ。明治四年(一八七一)築地の官立海軍兵学校寮に出仕、数学の教師となったが、後になって自分には数学は向かないので英語で文筆に生きようと決心しためである。そのころ銀座の奎章閣から経済書の翻訳をもちこまれ、ウォーケルの「富国論」三冊本として訳出刊行した。またそのころ英国から兵学寮の顧問団の来日があり、米人宅に寄宿し、「話す英語」にも熱心で、通弁(通訳)にもすばらしい成果をあげている。明治七年(一八七四)には「ヨーロッパ文明史」の翻訳に取り組み、さらに「暴夜物語(アランビアナイト)訳者永峯秀樹伝」を出版した。なおこうした翻訳のみでなく、日本発行の最初の英和辞典である「開成所辞書=英話対訳袖珍辞書」を刊行した。秀樹はこうした活動に対し、その抱負を次のように語っている。「まずひろく世界の様々のことを知らしめて日本人の島国的独尊心をくじくにあった」。このように事実彼は西欧文明移入の第一線に立っていた、明治文明開化の第一人者というべきである。後に江田島兵学校英語教師となり退官まで三〇年間、我が国草創期の海軍士官養成に努めた。秀樹の生家は、浅尾新田の丘「薬王寺あと」にある小野家の墓地のところである。画人三枝雲岱・小野泉等もこの小野家から出ている。

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