山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2020/08/22(土)08:32

諏訪道之記 五味可都里編

山口素堂資料室(513)

諏訪道之記 五味可都里編 池原錬昌氏著『可都里と蟹守』「五味家蔵」より 一部加筆 五味家蔵。模本(半紙本)写本一帖。15,7・七×21,0m。双葉列帖装。共紙表紙。仮綴。表紙に「天明二年/諏訪道之記/壬寅卯月」と直書。表紙を含めて全体二〇丁、本文墨付一四丁、ただし、後ろ表紙に「左久良」と署名のある丁は墨何に含めず。奥書、「天明二壬夏日」。可都里が、天明二年(1782)四月十日から同二二日(もしくは、二三)まで、信州諏訪・佐久および上州妙義山・榛名方面を旅した折の紀行文。 諏訪道之記 天明二年壬寅卯月(表紙打付書) ことし卯月の初めつかた、名にしあふ諏訪の祭にもうでんと真幸・ト尓の両子、いとねんごろになん誘引給ふに、予もひたすら心ざし有ければ、そぞろに思ひ立けらし。宵よりわらじうち、風呂敷などかゝげて、いさ、か旅の用意をなしぬ。明れば十日の暁雨さへ降、目にふるゝ物青々としていとうれしきに、ト尓来りて、いざやまいらむなど聞へければ、各々に別をなして、村端まで出る。 これよりひと里過し比は雨漸やく晴て、韮崎の駅に午の刻ばかりに至。それより右のかた山の裾を通り、姥石(韮崎市祖母石)にかゝる。此処に姥石あり。拾丁余も東なるよし、里人の語る。さあらば見にまかでんといえども、各くつかれければ行ず。只台原の駅に急がんなど呼り合て行程に、漸やく台原に至。日はいまだ申の刻ばかりなれば、次の駅にゆかんとて、茶店に人て飯を鋃つ、酒を呑みて、少し疲れをしのぐ。向かいの山を詠むれば、并松静にむら雲覆へる際より、鳥の一羽舞出ければ読る。  見やりては恨み心の郭公それよりしらす(白須)の森を過、水吹新田にかゝり酉の刻の比、教来石の駅にやどる。十一日、泊(とまり)の駅を出れば、雨そよ降出し、甲信の境山口の関を過る比しはしきりに降り荒みければ、それより蓑を打着て津瀧(蔦木)にいたる。 【註】甲斐を代表するといわれるといわれる山口素堂の生まれた地である山口を通りながら、一切触れていない。これは甲斐国志のいうような事は俳諧人には認識されていなかった事が理解できる。 爰にてト尓の伯子貴同子息に出合、きのふ古郷を出し時の物語などして、しばらく茶店に盃をまはす。雨も小止ば、それより虎松を馬に乗せて人々は先へ行ぬ。三人は跡より辿りて、山路にかる比しは雨晴て四方にしら雲みだるゝ。  雲ちりぐに日の影うつる若葉かな程へて金沢の宿にいたる。それより諏訪の城下へ申の上刻ばかりに着。布尾松之助にやどる。十二日、布屋のあるじにいざなはれ、各々明神の宮に参詣して神殿を拝し、それより桟敷に友なひあるじさまざまになんもてなし侍る。《筆註 御柱の事》当宮の祭は七としをめぐりて、卯月初の寅の日、御柱とて三丈余の大木を引て神宮寺より祭の義式あり。はた一里が間両側に桟敷をかけ、参詣の紫煙群なして立騒声は、山彦にこたへて暫時もやむ事なし。されば其心まめやかにして、いとをかしくぞ覚。とある。折々は盃を取て興じつつ簾かけに膝並びて日を暮す。  諸人や声すみわたる夏祭其夜も布屋にとゞまる。十三日、布屋を出、よね屋に人て蔡我・東隅・蓼左の面々にまみへ、しばらく語る。けふは天気もよし、船遊のもよふせむなど聞きて、ともに潮水の浪打ぎはに至、蓙うち敷、盃を取て別ををしむ。  拝の濡るゝ枚や旅わかれ人々はかの一興もよふほしそれより善光寺におもむく。みたりは舟に乗り湖の気色はなやかに漣よする遠近に綱引する舟の人呼かはし、さほさしめぐる風情、いとをかしく詠つゝ、下の諏訪に至。茶店にしばらく休らひ酒うちのみ、それより各々人肌ぬぎになり、和田峠にのぞむ。此峠は上下弐里半にして左に山川流れたり。数百歩過てかのながれをわたり、それより右に見なす山をめぐるも、八重はた重也。つかれたる祈ゝは茶店に洒をくみ、あるは見もしらぬ道心などをはなしなぐさみつゝ酉の下刻ばかりに和田の駅に着。増屋にとまる。十四日、増屋を出れば、とある座敷の人々多が中に手招者あり。あやしみて近寄見れば、十一日津瀧にて先へ立たる清兵衛の父子也。そヾろになつかしく此ほど待かはしたるなど語て、それより同じ旅寝にむすぼる。長久保峠より雨ふり、芦田を過、名にしあふ望月の駅に至比は、雨いたく降り蓑を通し衣を濡らしければ、茶店に人て洒をくむ。  望月や駒を向かへんなつの旅それより八幡の駅に午の刻の比着。油屋にとまる。十五日、八幡を出て汐名田にかゝり、千曲川を渡りて岩村田を過、小田井の駅にいたる。きのふの雨晴らにはれていとうれしく、茶店に入て各々盃をとる。それより原にかゝり、爰にて浅間がたけを眼前に見なし、しばらく石上に腰打かけ、業平の中将の見やはとがめんと詠じられしむかしを思ひ出て、  かはらずにさしも浅間の煙かなほどなく追分に至、それよりくつかけを過、かるゐ(軽井)沢の駅へ申の刻の比着。三度屋に泊。十六日、泊の駅を出て、上信の境笛吹峠を越て坂下の駅に至る。それよりト尓・左久良は少し先へ立て、横川の関屋を通り、未の刻ばかりに妙義の永楽屋に着。ほどなく人々来る。権現へ参宮し、神前に膝間付て、静に拝し侍る。  御鏡に清くもうつるあふぎ哉当社は詞にものべがたき御像栄也。 十七日、永楽屋を出る。山下なれば、時ならず薄ぎり四方に覆ふて、さながら雨天のごとし。しかあれども当国一宮に参詣せんと、各々まかる。巳の刻の比、一宮に至。神殿を拝し、それより午の刻ばかりに松井田の駅に至。茶店に入、しばしの時をうつし、それより雨ふれければ、虎松を駕に来せて弐里の山路を通り、申の刻ばかりに秋間三軒茶屋にやどる。 十八日、三軒茶屋を出て三の尾里峠にのぞめば、むら雨して時鳥数々鳴ければよめる。  行ちがふ雲のまぎれにほとゝぎすそれより榛名の宿へ巳の刻ばかりに至、参社して拝し侍る。山は四方にそばだちかへしたり。社殿の後に四有丈高き石あり。うへにかさあり、中ほどに幣たてり。すごき事眼をなやます。此外あまた有といへ共、書あらはしがたき景山とかや。此日神楽あり。宜禰が袖ふる鈴の音、笛太鼓の拍子は、ちまたすみわたりて、いと面白くぞおぼゆ。  心まですむや卯月のかみ神楽それより下向に趣。真幸・左久良は馬に乗り弐里余過て馬より下り、三の尾峠を越へ松井田の駅に酉の刻の比着。糸屋にやどる。十九日、松井田より、ト尓・作良は馬にまたがり横川に至。馬より下り、問屋を通り坂下に垂。それより真幸は駕にのり、笛吹峠を趨へ、かるゐ沢を通り、追分に着。甲州にとまる。廿日、小田井を通り、岩村田に至。これより長沢筋にかゝり、猿倉・なめず川渡り、中込・千曲川を左に見てわたる。原村・野沢・取出・日出・小出畑新田・栢岩・高野町、村はづれに古城の跡あり。・下はた・上はた・ほんま・宮下・まな風・かきかけ・海尻・これより千曲川、あづさ山より流るゝ。海口・板橋・三軒屋・壱里の峠越へ平沢・深沢といふ川あり。甲信の境なり。長沢・箕輪新田・大林・(若)神子・小田川・(大)豆生田・中条・小まい(駒井)・絵見堂・北下条・南下条などいふ里々を通りて、追分より三日といふ晩景に帰宅せしめぬ。天明二壬寅夏日左久良(後ろ表紙) 

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