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2020年08月25日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

甲斐源氏の勃興とその後の歴史

山梨県 なまよみの甲斐

 甲斐の国

 『各駅停車』「全国歴史散歩」

  山梨県 甲斐古文書研究会編

 

 律令制の根幹を成していた班田制に代わって荘園制という土地制度が確立すると、各地に武士団の台頭がみらわるようになった。甲斐源氏か勃興したのもこの時期で、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏は、源平合戦などを通してその武功をもって名を馳せた。

甲斐おける甲斐源氏の歴史は、市河荘(西八代郡巾川大門町附近)の荘司として下向した義光の二男義清が平塩岡に館を構えたことに始まる。そして、義清の予清光が、多くの男子を甲斐国の要所に配して甲斐源氏の地位をゆるぎないものにした。彼らは分封された土地で氏を興し、甲斐源氏の新たな分脈を形成していった。

 その代表が清光の二男信義を祖とする武田氏である。後に武田三代といわれて、信虎・信玄、勝頼の時代に甲斐国に君臨することになる武田氏は、武河荘武田の里(韮崎市)に拠って勢力を拡大した。

 武田信玄の出現は、内陸の小国甲斐を大きく日本史の舞台へと押し出していくことになった。駿河の今川氏、越後の上杉氏との相克を経て、天下統一の夢を抱いた信玄は、京都への上洛の途次の元亀4年(1574)、信州駒場にて病に斃れ、ついにその大望を果たせなかったが、信玄が残した事蹟は甲斐の人々にとって大きな財産となっている。

武田氏は信玄が没した10年後の天正10年、甲斐国に侵攻した織田・徳川連合軍によって攻められ滅亡した。

 武田氏以降の甲斐は支配心が目まぐるしく変遷したが、やがて徳川氏の治政下に入った。そして、江戸時代においては幕府直轄領の時代から抑沢氏支配を経て天領となる歴史をもつのである。






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最終更新日  2020年08月25日 10時23分43秒
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