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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年08月26日
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カテゴリ:山口素堂資料室

山口素堂は甲斐府中には居なかった

 

素堂と甲斐府中山口家市右衛門の関係は翁没後百年後の文化十一年(1814)完成した『甲斐国志』にのみ記載されているが、調査の結果では両者を結び付ける事が出来ない。『甲斐国志』には誤った記載や当時の素堂に対する認識の甘さが目立つ。

これは資料収集のままならない時代でもあり致し方ないことである。現在は資料も豊富にあるので盲信的に『甲斐国志』を信じるのでなく誤りは誤りで訂正していく勇気と調査こそが『甲斐国志』編纂者に対する後世の人間としての礼儀である。

 甲斐と素堂についての誤記は甲斐国志の素道の項である。これは時の代官桜井孫兵衛の孫、斎藤氏が記した孫兵衛を称えたもので、濁川治水碑には一言も素堂には触れていない。国志の「素道」の項は他の項目と違い講談調で異体文章となっている。これは甲斐ではなく、江戸に於いて斎藤家親族により手が加えられた可能性が高い。それは「素道」項の次の「宮本武蔵」の項でも理解できる。宮本武蔵の所縁については歴史・文学者は一切触れていない。

さて山口素堂と山口市右衛門は『甲斐国志』によって結び付けられているが、私の調べた範囲の資料によると、どうしても一本の線にならない。それどころか山口素堂と甲斐の関係も非常に稀薄で巨摩部数来石字山口の生まれも、二十才頃まで居たとされる甲府魚町の山口屋のことも資料からはつながらないのである。山口家も締め付けの厳しい時代に酒造業で財を成すことは並大抵のことではない。酒造業山口屋市右衛門は確認出来ても時人に「山口殿」言われたということも資料には見えてこない。

 『甲斐国志』には一切山口屋が酒造業との記載はなく、これは後説である。巨摩郡教来石字山口に祖先が居たとの記述も素堂は山口で生まれたと伝わり、幼少の頃一家で甲府魚町に移住したとの記載も『甲斐国志』の解釈の仕方であって、それを裏付ける資料がない。

俳諧書『連俳睦百韻』には素堂の一族とされている寺町百庵(言満。三知)が素堂の家系に触れている。が、それは『甲斐国志』の記載とは余りにもかけ離れている内容である。後世両書を結び付けて記されている書もあるが、資料からは確認出来ない論である。

 もし山口素堂翁が甲斐の出身でなかったら如何なるのであろうか。

 甲府魚町に住んでいた山口屋市右衛門は実在した人物である。『甲斐国志』以来多くの書物に山口素堂翁の実家として既に事実のように定説化している。しかし資料に依り確認できる山口屋市右衛門は現在の中巨摩郡白根町町の出身である。(前述記参照)

 また魚町山口屋市右衛門家の母は請書に紹介されている。墓石によると元禄三年(1690)歿で戒名は「峻真 光誉清意禅定尼 優位」とある。これは山口家の縁続きの墓所に向かって右側に位置している。

 この母の没年も元禄八年であって、元禄三年ではない。(素堂 甲山記行)

 

  正面

元禄三年 十二月十四日

 光誉清意禅定尼 其位

側面 魚町 山口市右衛門尉建立

老母

  下記は山口家墓所の右側の区切り内にある主な墓石である。

  一、山口市右衛門の母の墓石。  元禄三年(1690)

  二、山口氏勝(藤)左衛門の墓石。天和三年(1683)

  三、施主山口氏の刻字のある墓石。年不詳。

  四、魚町山口氏の刻字のある墓石。貞享元年(1684)

  五、施主山口氏の刻字のある墓石。宝永六年(1709)

 

墓所の左側の区切り内にある墓石には「素堂墓所」の標石「素堂翁の石像」の他に明治時代に素堂の事蹟を記した石碑を建立した「山口屋伊兵衛」の墓石がある。この墓所は、右側は山口家市右衛門家の墓所、左側は素堂の系を引くと伝えられる山口家伊兵衛家の墓所となるが、明治以前の墓石が見えないのが不自然である。

これは山口素堂が江戸に出たからとの説も考えられるが、素堂翁の墓は江戸谷中感応寺(天王寺)中瑞院で後世山目黒露が現在の文京区白山の厳浄院に移している。この墓石は最初の戒名は削り取られていて、後に別に素堂居士の刻字のあるものを当てはめてある。

素堂の家系は嫡孫山口素安までは確認できるのであるから、甲斐府中の山口伊兵衛家は素堂との関連はなく、推察ではあるが山口伊兵衛は山口市右衛門家の分家である可能性は残る。

山口家の墓所と墓石からは素堂と山口市右衛門の関係は何等見出せないのである。歴史資料が存在しない「素堂事績」は資料に基づいた新たな展開をすべきである。最近、昭和五十七年発行の著名な歴史家の翁に関する著書を拝読したが、『甲斐国志』を独自の解釈を加えて史実に適合しない展開をされていた。『甲斐国志』は絶対ではない、資料再調査をしてから正確に記していただきたいものである。

 余談ではあるが翁は『甲斐国志』によると「山口勘兵衛」や『山口市右衛門』を名乗った事になっているが、資料には一回に出て来ない。素堂の名前や号で資料により確認出来るのは次ぎの通りである。

○  信 章  確認できる。諸俳諧集。

○  来 雪  確認できる名乗った期間が短い。俳諧集。真蹟集。

○  子 晋  林春斎門人としての号。儒家として。

○  素 堂  これは号、後本名となる。

×  勘兵衛  『甲斐国志』のみ。 官兵衛『甲斐国志』のみ。

×  市右衛門 『甲斐国志』のみ。 重五郎『甲斐国志』のみ。

○  太郎兵衛 『連俳睦百韻』のみ。

○  松兵衛  素堂著『とくとくの句合』の雷堂百里の跋文中。

×  素 道  『甲斐国志』のみ。

 

『素堂著『とくとくの句合』の雷堂百里の跋文』

 

右自問自答の主素堂はあづまの長明ともいはんや。

山口松兵衛の時、交り貧しからずるけるを、

こがらしの筑波はげしき冬の風の、

煙にあふ事幾度か、

また一族の不幸に、すこしの宝も失ひ、

悔事なく老母を供して、

行水の流もとのあらぬ葛飾深川の草むしろ、

柱を掘建ばせを(芭蕉)庵の風に耳をひれふせ云々。

 

とある。

○  其角編『錦繍緞』に「江上隠士。山松子」の記載が見える。

   (山は、山口。松は松兵衛。子は敬称。)

×  佐兵衛 不明。

×  太兵衛 不明。

×  公 商 『甲斐国志』のみ。

 

 上記の名前。号の内『甲斐国志』のみの名前や号が多い。特に諸書に引用される「官(勘)兵衛」、「市右衛門」は歴史資料や俳諧書からは見えてこない。

『甲斐国志』は翁歿後百年経て編纂されたものである。当然参考にする書物が存在した筈である。それが何としても判らない。甲斐に於いても『裏見寒話』を始め諸書が刊行されているが不思議に「濁川改修工事」や翁の事には触れていない。『甲斐国志』は何を資料としたのか。恐らくは資料不足で著者の推察では創作で埋めた箇所が多かったと思われる。特に元禄九年(1696)三月から始まった「濁川改修工事」に関しての桜井孫兵衛政能の記述は、「素道」の項の半分以上にわたっている。孫兵衛は時の甲府殿の代官触頭として元禄七年(1694)着任して元禄十四年まで勤めている。が孫兵衛は『甲府殿分限帳』によると【上方触頭】となっている。又この工事は官費で業者が請負実施しているのである。素堂と孫兵衛の関係は『甲斐国志』以外には無いので不詳であるが、翁が二十才で孫兵衛の僚属となる事など有り得ない。孫兵衛は翁より八才年下で当時は十二才である。「素道」の項の編集者は意図的に桜井孫兵衛の事蹟を素道の項に挿入したと考察しても聞違いはあるまい。

以後、真実のように素堂像がひとり歩きをして幾多の歴史書や引用書物により部分的(濁川改浚工事への関与)に過大に評価され、又その後諸歴史書や紹介書に再調査される事なく、その都度引用者の推察、創作が入り現在伝えられる濁川工事担当者としての素堂像が意図的に定着してしまったのではないかと考えるのである。言い替えれば「創作歴史」と云えるもので、真実とは程違いのである。

 (この項、別述)

 山口屋市右衛門の家系と山口素堂の家系は接点の無いままに後世一つにされてしまった。その原点はやはり甲斐国志である。是を功刀亀内氏が府中魚町の酒造屋山口屋と結合して「山口屋市左衛門」として紹介、『留守の琴』(山口黒露の追善集)で

 「露叟は柳町に続く緑町に住居して、この庵には昔素堂が仮居していた」

との記述を採録して、素堂と甲斐及び濁川工事とを結び付けてしまい、素堂の家系の人として山口伊兵衛なども明治に至り、素堂の濁川工事の功績をたたえた石碑を東京都や甲斐に建立している。

 

素堂には嫡孫までは資料で確認が出来る。

『連俳睦百韻』によれば翁には子供がいて、山日素安は嫡孫としてこれも翁の家系にあるとされる寺町百庵の『ふでの秋』に素堂号に触れている。素安の後は不明であるが、この家系が甲斐府中の山口伊兵衛につながる事はない。

 その後の山梨県の歴史紹介書も疑うこと無く、翁を甲斐の人間としてさらに装飾されて紹介されてきた。悲しい事に翁は俳諧に尽くした偉大な功績より、濁川工事指揮者として過大評価を与えられて今日まで来ている。

 翁とよく間違えられるのは寛永十八年に甲府城番として来甲した旗本山口勘兵衛四千石が居る。但し在任期間は短く一年交代であった。この山口勘兵衛が在任期間を終えてから江戸に戻ったか府中に居残ったかは資料不足で確認は出来ない。

 

後、山口姓を名乗る人物は次ぎの様である。

享保九年(1724)の柳沢吉保の大和郡山に転封に伴い城請け取りのメンバーに郡代、山口八兵衛四百五俵が居る。

  八兵衛は浅尾堰の開拓に尽力している。

文化十三年(1816)の山口勘兵衛二千五百石。

天保七年(1837)の山口内匠二千石。

 この他に市右衛門として活躍した人物には府中穴山町の代々の名主市右衛門が居る。が、府中には市右衛門を名乗る人物は数多く居た。

貞享年間の「上下府中細見」に見える山口屋市右衛門がどうして翁の生家となったのかは不思議でならない。あやふやな甲斐国志の記述を更にあやふやにしてしまい定説となってしまった翁の事蹟は今後も究明されることなく埋もれてしまうのだろうか。






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最終更新日  2020年08月26日 17時03分45秒
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