山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2020/08/28(金)06:03

白州町の村名(江戸時代)

白州町・武川町 歴史文学史蹟資料室(320)

白州町の村名(江戸時代)   ★横手村  武田家家臣横手源七郎(柳沢家と関係がある)が住む。 白州で最も古い集落の一つ。 ★大坊新田村  古くは山岳信仰の栄えた集落か。民謡の馬八節の発祥地。 ダイダラボッチの伝説も残る。新羅三郎義光伝承「馬蹄石」あり。 ★台ケ原村 宿場町として栄える。俳人北原台眠が出る。古くは鍛冶屋集落がある。 江戸時代からの酒造屋山梨銘醸あり。 ★白須村  白須上・白須下,前沢(旧門前)・竹宇(竹生) 白須地名の地域は広大な面積である。  駒ケ嶽や日向山を中心にした山岳信仰で栄えた地域。 高台には遺跡が多くある。 ★片颪村  現在の花水集落。昔は現在の長坂町に属す。 曲淵勝左衛門の末裔の知行地。 花水坂は富士見三景の一つ。 ★鳥原村… 鳥原,荒田・松原集落、白須松原(赤松林で有名) 濁川(砂の流れが美しい)の名勝地。旧松茸の産地。 ★下救来石村  宿場町。教化石で有名。 河西九郎須、俳人塚原幾秋三代。 馬場美濃守信房の出身地とされる。 ★上教来石村  上教来石・山ロ集落。 素堂の生家があり代々の素堂家が郷士として住んでいたとされる集落。  山口集落には「山口関所」があった。 ★大武川村  白州町の飛地。昔から長野県との交渉が深く、 生活圏富士見町に属し学校も長野県の学校に通う。   (四)武田家滅亡後の甲斐(素堂以前)  天正十年(1582)武田家滅亡後の甲斐は混乱の渦に巻き込まれることとなる。武田の家臣は勝頼に追従した者。信長により処分された人達を除き、その殆どが徳川家の家臣として仕官している。特に私たちの郷土映北地方(武川筋)の武士は穴山梅雪の影響か徳川政権に真っ先に取り入れられて、その後も徳川幕府一員として諸方面に活躍する事となる。中でも五代将軍綱吉を支えた、柳沢吉保は有名である。 吉保の初祖は、武川村柳沢の出である。その他でも折居家・馬場家・青木家・曾雌家(柳沢吉保の妻の出)・曲淵家・米倉家・山高家それに白須家(白須家は元々現在の白州町白須・当時は巨摩郡白須村の出)などなど枚挙に暇がないくらい輩出している。 徳川家の信頼はそのまま甲府城の城番を武川十二騎(米倉丹後守・山寺井右衛門,山高孫兵衛・柳沢三左衛門・大戸野又兵衛・曲淵清蔵・青木與兵衛・折井仁左衛門・知見寺越前守・小尾彦左衛門・馬場民部)が勤めた事でも理解できる。 こうした家系からは代が変わっても徳川家の一員として幕末まで活躍した人物も現れ、これは素堂が生きた寛永十九年~享保元年の時代も含まれる。  現在の韮崎市にある甲斐源氏ゆかりの武田神社は由緒ある場所であるが、現在は大正年代に建立された甲府の武田神社にお株を奪われてしまい訪れる人も少ない。天を突き上げる山門も何れ消失するのか、淋しい限りである。  地域の歴史書で大きな間違って伝わる事に、領主となった人物が常駐していた様な記載が目立つ事である。宝永二年から甲斐の領主となった柳沢吉保でさえも任期中一度も甲斐に来ていないのである。これは中央の仕事を持ち執行する立場の人間は滅多には領地には来なくて、その殆どは領地の責任者に任せきりであった。それを恰もそこに住んでいたとの認識の上での著述は大きな間違いを起こしやすい。  甲斐源氏の発祥の地を自認するあまりに発祥以来の武田一族を甲斐在住の国主として歴史を展開することはどうしても無理が生じ易い。  今の国会議員と同じで選挙区を領地とすれば分かり易い。大臣や要職に就けば尚更その感が強く、地域より国政にその力を発揮する。  ましてや新羅三郎光義など中央で活躍した人物が甲斐に在住したとの事実は資料からは認められないし、例え墓所や墓石が存在しても、後世の作であることもある。この辺りについては山梨県内の歴史研究者の諸本と中央の歴史関係者の記述内容に明確に表れている。  よく何代かの墓石をもってその地に居住した事に為っている書もあるが、これも間違いを生みやすい。当時領主としてその地に関わった人物が自分の初祖から本人の父の代までの墓石を並べ建立すれば、それが後世に於いては代々そこにその家が在った様に勘違いされる原因となってしまうのである。 こうした事が、「小笠原」の地名の発祥は「櫛形町」か「明野村」などの論議に及ぶ。当時において領地はその目的においては各方面に在り、鉱山地に山林・耕作地や牧場などそれぞれ領地である。領地を預かる家臣や領主がたまに出かける為の領地屋敷も存在したのである。 それは「……様の屋敷」「……様の御所」などとして残り、それも原因して「発祥地」を混迷させる。   話は横道に逸れたが武田家滅已後、混迷の時代を迎え、徳川時代には安定したと云われる甲斐の国は分割され領主も様々で、それと共に人々の意識も分割されたまま、現在でも思いがけない部分で地域意識が明確に為る場合がある。それは選挙であり、スポーツであり、生活風習などである。「あの地域には負けたくない」とか「あの人には負けない」などの言葉は現在もよく聞く言葉である。

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