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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年08月31日
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カテゴリ:山口素堂資料室

素堂序文 元禄五年(1692)『俳林一字幽蘭集』(水間沾徳編)
http://kamanasi4321.livedoor.blog/archives/1366608.html








忘れられた書家 佐々木文山

 

斎藤健司氏著(埼玉県会員)

 

『歴史研究』545号 

2006・10

 

一部加筆 白州ふるさと文庫

 私は素堂の研究を始めて50年くらい経つが、素堂の序文の中に『俳諧一字幽覧集』という俳諧書があり、素堂と文山の人となりが判然としなかった。偶然この本が手に入って文山の深さを知る事が出来た。そして改めて素堂の交友と教養の深さを知ることとなった。感謝

 

《本文》

佐々木文山は、多くの武士の門人や宝井具角など俳人達との幅広い交流を持った人物であり、各地の神社仏閣の多くの扁額を揮毫した書家であった。

 

一、初めに

 

 

 かの山東京伝が文化元年に上梓した、「近世奇跡考」に「佐文山の戯書」という一節がある。

 武士出身の書家佐々木文山が、友人であった江戸一流の俳諧師宝井其角、豪商紀伊国屋文左衛門と吉原の揚屋に遊びに行った折、揚屋の主人が文山に桜の描かれた屏風を差し出して、賛辞をもとめたところ、文山が「此所小便無用」と書いた。主人が怒り出したため、其角が「花の山」と付け加えたところ、俳諧一句ができ、主人が大変喜び、屏風を家宝としたという話である。

 

文山には、其角の弟子やその他の俳人達との交流もあった。

 元禄五年水間沾徳が編んだ俳諧書「俳林一宇幽蘭集」の序を山口素堂が書いているが、その書を文山が写している。正徳五年に出された稲津祇空の版本俳諧書「みかへり松」の序を書いた梁田蛻巌(セイガン)

代筆をしている。

また享保十二年高野百里が亡くなった時に墓誌を揮毫しているのである。

 

また、江戸後期歌川豊国が吉原の遊女を描いた名妓三十六佳撰中の、遊女「雲井」に次のような文がある。

 

「はいかいをこのみ素外の門に入り また書は佐々木文山の作をしたひてかい書をよくせり……」。

 

武士の佐々木文山は様々な階層の人々に書を通して影響を与えているのである。

 

佐々木文山の経歴

 

佐々木文山は、万治二年に江戸の西久保八幡神社近くに生まれた。名は淵龍。

           

宇は文山、号は墨草堂(ぼっかどう)、幼名高通(よしみち)、通称は百助といった。

享保二十年に七十七歳で病没した。現在都立青山霊園に兄玄龍とともに墓が残されている。父は、佐々

木庄太夫相違といい、慶安から寛文の時期にかけて、武蔵忍藩主阿邦忠秋に右筆馬廻役として、禄高百二十五で仕えた。

 兄に佐々木玄龍がいる。十代の頃に、讃岐高松藩松平家に取り立てられた。現在、松平家における文山の足跡はわからない。唯一、嘉永七年に出版された「讃岐国名勝図絵」に元禄十五年の年号のある「梅宮八幡宮縁起」を作文した高松藩儒臣菊池武雅の代筆者として「佐々木嘉通謹書」の名前があるだけである。 

 

文山の墓誌によれば、宝永六年に高松藩を致仕、禄を養子嘉隆に譲ったと記されている。文山には多くの武士の門人達がいた。盛岡藩士猿橋文丄饒・久慈喜八郎、中村藩士(福島県)脇本嘉明、忍藩士文国・

文揚親子、岩根藩士(岐阜県)佐藤信由などである。

盛岡藩士久慈喜八郎(号文真)は、盛岡藩の命を受けて文山の門人となり、後に藩の右筆として活躍した。

岩村藩士佐藤信由(号文永)は、に藩の家老にまでなった人物で、息子に昌平坂学門所で活躍した佐藤一斎がいる。

また、書家烏石、町名主勝間龍水も文山の門人であった。

 

佐々木文山の書法

 

 佐々本文山の書流は「唐様」である。父庄太夫から受け継いだ「孟魯軒書法」に基づいて書法を展開した。また、門人たちには「増補書学式」という名称で伝授した。現在、岩手県立図書館、京都府園部文化博物館、高知県立図書館に写本「増補古学式(孟魯軒書法)」が所蔵されている。

 

佐々本文山のライバルであった細井広澤の息子九皐(キュウコウ)が安永四年に書いた「墨道私言」の中で、九皐が父広澤から聞いた話として、次のように書いている。

 

「佐々木萬次郎(号玄龍)、その弟佐々木百助(号文山)、玄龍門人後藤千二郎(号仲龍)、この三人の書法、朝鮮の筆跡を学びたりという。

玄龍自ら伝えらく、我家に孟魯軒と云う唐人の書を蔵したり、それを学びたりと云う、広澤老人評すらく、孟魯軒唐山の人にあらじ、恐らくは朝鮮人なるべし。………孟魯軒の書を玄龍模したるゆえに、自然と朝鮮の風見ゆるなり、玄龍者流に篆隷なし、たまたま篆隷を見る事あり、皆無法なり、もっとも大かた誤字なり」

と。すなわち、朝鮮書を会得した佐々木文山や兄玄龍の書は優れていないということであった。

 近代になって唯一体系的にまとめたと思われる、三村竹清の書「近世能書伝」(昭和十九年)も、文山に関するものは九皐には批判的であっても、文山の「朝鮮風」という考え方からは抜け切れなかった。

 現在流布されている書道書の多くの文山の評価は、総じて、細井広澤とその門人達の著作物から取られたものが多い。

息子九皐の記した「墨道私言」、門人大和長利(延利)が、唐様の祖と言われた北島雪山と細井廣澤について記した「二老略伝」、門人佐久間東川が歴代の書家について記した「臨池家伝」である。

 

 しかし、いずれも、文山の死後に書かれたものである。佐久間東川などは、文山は、長崎の唐通事林道栄の門人であったとまで論じている。

 

第三者的立場から、また、文山の存命中に批評したのは儒者「荻生徂徠」であった。徂徠は宝永六年九月に「佐子号文山説」と題して批評を書いている。文山の書は、篆・隷・草・行・真全ての書体において優れていたと述べている。

 都立中央図書館の加賀文庫にある文山の兄佐々木玄龍の自筆書と思われる写本「草法通式」に孟魯軒書法の由来が記されており、孟魯軒は浙江出身の明の文人と記されている。

文山の書流は明らかに「朝鮮様」ではなく、「唐様」である。

 幕臣であった東条琴台の未刊の書 「近代著述目録後編」には、文山の著作として「筆法圖解」、「永字八法辨」、 「學書小言」、「文山印譜」が挙げられているが、現在確認されておらず、確認されているのは、太田南畝の写本叢書「三十幅」所収の「伊呂波之伝」のみである。

 

 

徳川実紀の誤記がもたらした弊害

 

 

 文山の経歴について後世の様々な出版物において兄玄龍と混同して記述されているところがある。

たとえば、文化十五年に出版された「本朝古今新増書畫便覧」の文山の項には、

「台命ヲ蒙り朝鮮国ノ答書ヲ作ル以ツテ朝ニ仕へ」

とある。更には、安政二年に出版された「古今墨蹟定覧」には、

「兄玄龍卜同シク台命ヲ蒙り朝鮮国ノ答書ヲ作ル故ヲ以テ兄ハ大府ニ仕フ」

とまで記している。しかし、これは、兄玄龍についてだけの話である。玄龍は、正徳元年六月に幕臣になっている。そよて、朝鮮国王への返簡書を書いている。

この大きな間違いの元

 

の記述にある。六代将軍家宣の「文昭院殿御実記」、正徳元年六月二十七日の項に

「處士佐々木万次郎淵龍めし出され。稟米二百俵たまはり。御家人に加へらる。これは能書の聞こえありて、文山と號せしものなり。」

と書かれているのである。良く読んでみると、万次郎(玄龍)と文山(淵龍)が混同されて書かれているのである。実は、この間違いの部分は「御徒歩方万年記」から引用したものである。内閣文庫に残る「御

徒歩方万年記」、「賓永八年(正徳元年)」六月二十七日の記述に「佐々木万次郎被召出御切米被下置若年寄御支配被仰付之」とあり、さらに朱書きで、「是を号文山とテ手書なり」とある。この「御徒歩方万年記」は寛政九年以降に編集されたものなので、誤って記述されたと思われる。

 因みに、同じく内閣文庫にある幕府の日常を綴った「柳営日次記」には、佐々木万次郎の記事はあるが、淵龍・文山という名は全く出てこないのである。文山が幕臣になったというのは事実ではなく、大きな間違いであった。

 

 

五、佐々木文山の作品

 

佐々木文山の手掛けた作品は数多くあるが、代表的なものは、東京大倉集古館にある書巻「瀟湘八景詩」(享保二年)、愛媛県今治市河野美術館蔵、詩「春」があり、私所蔵の書軸は、縦三十四・五センチ、横五十一センチで、「慎其獨(中国の儒教書「大学」に出てくる「其の独を慎む」を書き記したもの)」、

書巻「西湖(西湖十景の漢詩と和歌)」である。圧巻なのは、岡山県立博物館にある備前市在住の個人から寄託された「六曲一双屏風」である。六つの書体を駆使して十二支を中国の漢詩で表し、子孫繁栄を願って書いたものである。

 また、「近世奇跡考」にあるごとく、神社仏閣などに多くの扁額を残している。

 

私が調べた限り、北は山形・宮城から南は岡山まで十八件にのぼる。埼玉県では私の住む加須市の白山神社に一つ、隣の騎西町医王寺に一つなどわかっているだけで五つある。(表参照)

 

※ 最近になって、新潟県糸魚川市「能生白山神社」に二件、京都府京丹後市「住吉神社」に一件、佐々木文山の扁額が確認されたので付け加えておく。

 

 なお、文山が使用した墨の中には、奈良の製墨の老舗「古梅園」製の物を使用したものがある。安永二年に作られた「古梅園墨譜後編」には、文山が使用した墨が載せられている。デザインは、龍が火を吹く姿の図柄が施されている。

 

六、最後に

 

 佐々木文山は兄玄龍とともに、江戸時代中期を代表する「唐様」の書家である。特に、武家書の大家である。にもかかわらず、佐々木文山に対する十分な評価がされてこなかった。江戸中期は、五代将軍綱吉の頃から武士文化が花開いた時期である。

 文山の門人たちが武士であったという点を鑑み、幕府を始め、諸藩における書流に対する充分なアプローチが必要ではなかろうか。






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最終更新日  2020年08月31日 18時58分58秒
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