山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2020/09/05(土)18:57

芭蕉 関連史跡 資料館ガイド 北陸道

松尾芭蕉資料室(204)

芭蕉 関連史跡 資料館ガイド 北陸道  『歴史読本 3月臨時増刊』 「江戸三代俳人 芭蕉・蕪村・一茶」  平成8・3・8刊芭蕉・蕪村・一茶 関連史跡 資料館ガイド 一部加筆 山口素堂資料室  象潟や雨に西施がねぶの花 と詠んだ芭蕉は、「酒田のなごり日」を重ねたあと、北陸道(越後路)を日本海沿いに出雲崎、直江津、高田、親不知、市振、奈呉の浦、金沢、小松、那谷寺、山中温泉、天龍寺、永平寺、福井、敦賀といった町まちを経て大垣にいたるのである。 小松の多大神社で斎藤別当実盛の遺品である兜などに、  むざんやな甲の下のきりぎりす の句を手向けた芭蕉は、那谷寺を訪れ、山中温泉に入った。ここで曾良が腹の病にかかり、一足先に伊勢の長島の親戚のもとに急ぐことになる。金沢から同行していた北枝が随行して全昌寺、汐越の松、天龍寺まで旅をともにするが、このあと北枝は金沢に帰った。 芭蕉は福井の俳人神戸等栽をたずね、敦賀、種の浜などに遊んだのち、一路南下して大垣に向かう。 曾良という随行者を失ってからの芭蕉の動静は明瞭を欠く。  今日よりや書付消さん笠の露 芭蕉が泊った全昌寺(加賀市)には杉風刀の芭蕉木像がある。 〔奥の細道むすびの地記念館〕 大垣にはいった芭蕉は、如行・曾良・越人・前川・別口父子ら、親しい俳友・門弟に温かく迎えられ、しばらくの間は長途行脚の疲れをいやした。 大垣市船町の谷本因宅跡に「史蹟奥の細道むすびの地」の標柱が建てられている。馬場町の記念館には芭蕉および俳友木因などに関する資料や蕪村の『奥の細道』絵巻、大垣入りした芭蕉・路通の旅装が復元展示されている。 大垣に二週間ほど滞留した芭蕉は「長月六日になれば伊勢の選宮おがまん」と木因・如行らに見送られて、水門川か経て揖斐川を渡った。 伊勢参宮をはたした芭蕉は、九月下旬(元禄二年)伊貿にいたり、十一月まで滞在している。  〔芭蕉翁記念館〕 芭蕉のふるさとの地「上野」の中心的な建造物で、芭蕉に関する書籍や遺品が展示されている。赤坂町の芭蕉翁生家には、  故郷はほぞの緒に泣く年の暮 の句碑がある。近くの愛染院境内には、芭蕉の遺髪を納めた「芭蕉翁故郷塚」、本町には『貝おほひ』を奉納した上野天満宮(天神さん)がある。また、日南町には芭蕉の門弟服郡上芳が住んでいた蓑虫庵がある。  〔俳聖殿〕  上野公園(上野城跡)にある八角堂で、芭蕉の旅姿をかたどっている。木造桧皮葺で、初雁が八角、二層が丸型の優美な建物である。内部正面には芭蕉祭献詠句が掲げられ伊賀焼の芭蕉座像が安置されている。上野城には芭蕉の旅笠・文机などが展示されている。 なお、福地城跡(伊賀町柘植)は松尾氏(福地氏)の居城であったところで、本丸は芭蕉公園になっている。 元禄四年冬、江戸に帰った芭蕉は三年後の七年冬、江戸を立ち、ふるさとで月見の会を催した。そのあと大坂に出るが病を得て臥した。 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る の句を遺して、この世を去るのは、十月十二日のことである。没後、遺言によって義仲寺(大津市馬場)に葬られた。   木曾殿と背合わせの寒さかな 〔正木美術館〕 正木忠之のコレクション(大阪府泉北郡忠岡町)で芭蕉筆自画賛『時雨夕陽』が蔵されている。コレクションは室町時代の水墨画・墨蹟が中心である。大燈国師墨蹟、小野道風筆三体白氏詩巻、藤原行成筆白氏詩巻は国宝である。  〔柿衛文庫〕 芭蕉の筆蹟鑑定の第丁人者岡田利兵衛のコレクションだけに、「ふる池や」短冊、「旅の画巻」「猿蓑」巻頭、柿衛木『おくのほそ道』巻頭、蕪村筆『俳仙群会図』など貴重な作品が多い。 

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