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『茶人物語』茶の湯ライブラリー 讀売新聞社 編者 日野忠男氏 昭和43・10・1 一部加筆 山梨歴史文学館
毎年十一月十三日に、京都市中京区の空也堂で空也忌が営まれるが、この庶民的な宗教家も、茶の湯の歴史にとって忘れ去ることのできない人物である。 空也上人は『日本往生極楽記』によると
「父母未詳、郷土を語らず」
とあり、幼いころのことはほとんどわからないが、醍醐天皇の第五子または仁司天皇の皇子である常廉親王の子とも伝えられる。 空位は若いころから、修行のため全国をまわり、布教のかたわら各地で道路や灌漑用の井戸を作ったりして、市聖として多くの人たちに親しまれていた。 当時の仏事は、寺や家の中で静かに自分だけで行なうものとされていたが、空位はこの常識を破り、念仏を戸外に開放、今も京都の民俗芸能として残る六斎念仏踊りを始めた。 当時は世の中が騒然としていた時代で、悪疫が流行、盗賊の群れが横行、人々は絶望のあまり、せめて死んだあとだけは幸せになりたいと、浄土の世界に強く憧れていた。 こうしたとき、天才的な布教師である空也は、人々が寺を訪れるのを待たず、自分から街頭に出かけたわけで、彼は当時の僧侶としては、たいへんな行動性を持っていたといえるだろう。 彼が出かけたのは、今の西本願寺の当たりにあった東の市というところで、 ここで「ナモーダ、ナモーダ」と念仏を唱えながら、身ぶりもおかしく踊ってみたのである。
今まで厳めしく勿体ぶった僧侶しか知らなかった大衆は、空也に自分たちと体温の通じ合うものを発見、念仏踊りはたちまち京都中に広まったといわれている。 『拾遺和歌集』に、
一たびも謝無阿弥陀仏といふ人の蓮の上にのぼらぬはなし
という空包の歌かあるが、この歌でもわかるように、その教えが噛んで含めるように優しかったことも、念仏踊りとともに大衆の心をつかんだ理由である。 この空也が考え出したのが大福茶である。
天暦五年(九五一)ごろ、京都には今の赤痢か腸チフスのような悪疫が流行、朝廷では空世に悪疫退散の祈願をさせることになった。今までの例では、こうしたとき僧侶は寺に龍って祈りを捧げるのだが、型破りの空也は、十一面観音像を作って荷車に載せ、京都の町を引いて廻り、面白可笑しく念仏踊りをしながら、小さな梅干と昆布を刻み込んだ茶を病人たちに飲ませた。 この施茶で、さすがに猛威をふるった悪疫も治まったと伝えられている。 このとき村上天皇も病気にかかっていたので、いちばん初めに天皇に献茶された。 そこでこの施茶を****皇服茶****(天皇の飲んだ茶)と呼んだが、
みんなに幸福をもたらした茶でもあるとして、いつの間にか大福茶と呼び替えられるようになったものである。 関西地方では、今でも元旦の朝、梅干のはいった昆布茶を飲むが、これは大福茶の名残りである。 京都市東山区の六波羅蜜寺にある観世音像は、空現が荷車に載せて引いたものであるといわれ、またこの寺にある達磨の子、廉勝が刻んだ空也像は、 「説くことすべて仏」 という意味から、 舌から六体の仏が飛び出している珍しい形で知られている。
空也は六十九歳か七十歳で死んだが、その場所は六波羅蜜寺とも奥羽地方ともいわれ、定かではない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年09月15日 17時16分37秒
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