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2020年11月02日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

山梨 奈良田 孝謙天皇伝説の成長 

 

 『甲斐路 かいじ』季刊no67

  昭和42年 山梨県郷土研究会

  長沢利明氏著

  一部加筆 山口素堂資料室

 

 この、あくまでも抽象的で実体のともなわない貴人遷居伝説が孝謙天皇遷居伝説に転化・発展したケースの初見は、これまたよく知られた『甲陽随筆』(一七八〇年代)における次のような記述である。

 

巨摩郡西河内領早川村の奥奈良田村は

人皇四拾六代孝謙天皇甲斐の国に流され給ひ

右村に皇居ましまし給ふゆへに山中と

申せとも賑やかに罷成朕か住めば爰も奈良田と

勅定有之に付奈良田村と申す由

帝の住せ給ふ旧跡と申伝候所も数ケ所御座候由。

又当国塩なき国ゆへ帝歎かはしく思召

天に御祈被遊候へは、

忽塩の涌出る池水出来仕て塩水今以有之。

右村朝夕の助に罷成候よし

もっとも供物の備物諸国より奉送る。

其後帝崩御ましまし奈良の京へ注進

奈良田村より道法十里程も有之

西川内領飯富村と申所迄来り候時

諸国より御貢物右村迄持参致よし

崩御の汪進を承り

諸人御貢物を奪取所宝に致し

俄に富貴に成る故に飯富村と申由。

又御召連れ候女中方

帝崩御の後は散々に成川内領の村々にて死去致候

  を神に崇め后の宮中宮村とに有之よし。

又帝崩御の時神々化して飛せ給ふ山をば

天子が岳と申飯富村より東の方に有之。

同奈良の京より度々勅使往来の道筋は御勅使川と申

芦倉入より出山沢の名也。

此山沢入より唐桧峠などと云ふ

大山を越へ奈良田村へ出る也。

依之右「みでい川」文字には「御勅使川」と書候よし。

然し共孝謙帝甲斐国へ流され給ふ事古き記録には

相見へず候へとも往古より語伝御座候よし。

 

ここにはほぼ原形的な形での孝謙天皇還居伝説、が記されているようであるが、その記述の中心は早川入りの各旧跡の由来解説に置かれており、それらの由来はすべて天皇還居との関わりをもって説明されている。

塩ノ池・飯富・后の宮・御勅使川などに関する関連旧跡の由来については、また後でふれてみることにしたい。

この『甲陽随筆』に続く孝謙天皇伝説資料としては、幕末~明治初期に版行された『外良寺賂縁起』

をあげることができる。これは奈良田にある目蓮宗寺院、身栄山外良寺に関する略縁起であるが、その記載内容は『甲陽随筆』のそれともよく共通するものである。

 

抑和朝東海道甲斐之国八五郡なり。

爰に山代郡奈良田邨ハー郡一村なり。

其旧記を尋に人王四十六代に当て

御女帝孝謙天王暫都を諜玉ふ。

時に天平宝字年中にこの山中に住玉ふ。

宮使の御人々召運給ふに百姓もこれ有所

再都之帰給ふ時に望てのこり度由を奉願

男女拾人余是ありしかば

殊外不便に思召玉ひ不自由の所ゆへ

御符水塩の泉檳榔子染池この三ケ所を祈玉ふ。

これ永代不易の名所也。

 

これによれば、天皇煮居に随行した家来百姓が奈良田に定着し、彼らのために天皇が御符水・塩の泉・檳榔子染池を残したという。この三ケ所の旧跡は奈良田の七不思議の内にも数えられている。さて、孝謙天皇伝説を記述した決定販的資料といえるのは、志村孝学による『更訂孝謙天皇御還居縁起鈔』(一八九一)ということになろうが、そこでの記載の概略は次の通りである。

 

奈良田ト申スハ(中略)

人皇四十六代宝字称徳孝謙天皇御遷居の地ナリ。

抑其旧誌ヲ尋ヌルニ天皇諱は阿閉高野ト曰フ。

(中略)

  治世ト年王位ヲ大炊皇子ニ譲り

自ラ祝髪シ法誹ヲ法基尼卜号シ

  当地エ御遷居ナシ給フ時ハ

天平宝字元丁酉年ヨリ甲辰マテ八年ナリ。

(中略)

天平神護元乙巳年再ヒ南都エ御還幸

(中略)

天皇白ラ大炊王ヲ廃帝トシ四十八代ヲ重祚シ給フ。

(中略)

天皇前後在位十五年寿五十三

神護景雲四庚戌年八月四日西宮ニ於テ崩ス。

大和国添下郡佐貴郷高野ノ山陵ニ葬ル。

(中略)

其后村民天皇ノ威徳ヲ慕ヒ

延暦三甲子年六月五日皇居ノ跡ニ一宇ヲ創立シ

  即チ天皇ノ法諱法基尼ノ尊像ヲ彫刻シ

奈良法皇尊卜称シ奉ル。

 

ここでの記載は史実をも多く取り入れた天皇の一代記のスタイルがとられており、ここにおいて奈良田の孝謙天皇遷居伝説は総合的な完成をみることになる。

この縁起鈔は木版刷りにされ、西山温泉の湯治客らを介して大量に流布したので、さまざまなところでとりあげられることになり、文字通り伝説の決定版とされたのである。

引用中には省略したが、天皇の当地への遷居の目的は西山温泉での病気療養となっており、霊夢によって甲斐の秘湯の存在を知ったという。天皇は八年間の遷居ののち都へ還幸して称徳天皇を重■(足乍)したのち、崩じて高野陵に葬られたとあるので、他説に語られるような奈良田での崩御と陵墓地への奈良王神社の鎮座という結末がとられていない。

 

伝説の発生から成長・完成に至るプロセスは以上のようなものであった。

 

人物を特定しない、素朴な貴人の配流・流離伝承が、時には道鏡伝説となり、時には某帝・奈良王・王様などとばく然と語られたりしたのち、しだいに孝謙天皇の遭居説として、それは成長していったもののようである。ではなぜその伝説の主人公が孝謙天皇でなければならなかったのか、ということが問題になるけれども、たびたびにわたってなされてきた既存地名からの連想解釈がその手がかりとなるのではなかろうか。

すなわち、当初において鳳凰山と道鏡法皇あるいは奈良田と後奈良院といった連想がすでにあり、これらが混然一体化して奈良法皇とか奈良王という正体不明な貴人像を生み出していく。奈良の法皇が道鏡をさすと、の解釈がひとたびなされ、奈良朝のスキャンダルに関するわずかな知識を持っていさえすれば、いともたやすく法基尼孝謙女帝の名が次に浮かびあがることであろう。

したがって、鳳凰山➡法皇、奈良法皇➡道鏡、道鏡➡孝謙天皇といった意外に単純な連想の発展、が、つまるところの真相ではなかったかと推察しうる。






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最終更新日  2020年11月02日 04時48分32秒
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