カテゴリ:山梨の歴史資料室
山梨の孝謙天皇伝説 奈良田 奈良王神社と外良寺
『甲斐路 かいじ』季刊no67 昭和42年 山梨県郷土研究会 長沢利明氏著 一部加筆 山口素堂資料室
孝謙天皇伝説とゆかりの深い、早川町奈良田にある奈良王神社と外良寺について、次にふれてみよう。 奈良王神社は奈良田の鎮守神ではないものの、それ以上の重要性を持って今なお信仰されており、そこでの主祭神はまさに孝謙天皇そのものとなっているのである。 民間信仰の側面からみれば、奈良王神社は、たとえば婦人の神、特に産神としてあがめられており、産婦が身の丈の布のぼりを奉納して願掛けをしたというが、今でも社前にかけられたそのような布のぼりをよく見かける。 かつては産の守りも出しており、産室にそれを祀って出産がおこなわれたという。 なお、池田俊平氏による報告には奈良王神社について次のように記されている。
孝謙天皇が祭神という。一月二十五日が御縁日で、お祭をする。 神酒か二升村で買って出し、寺で経を上げる。 社のうしろの神木に昔は祭をしたが、今は風で倒れたので、山の方に祭をしている。 祭目にはお上人が扉を開け、お厨子を拝めるようにする。 奈良皇さんはお産の神様である。安産するようにお参りするが、 赤子の宮参りの時は八幡様に行き、別にお礼参りはしない。 願掛けの時は身の丈の幡(自分の身長と同じ長さの幡)を上げる。 娘はうまい人と関係したいという意味で上げたりする」 奉納の布のぼりにはそのような意味もこめられていたとのことであった。 このように奈良王神社は婦人の神とされてきたわけであったが、 それは女祭神としての女帝をそこにまつることによるもので、 孝謙天皇はそのような形で民間信仰面に位置づけられてきたのである。 しかし、第二次大戦下においては天皇制軍国主義のもとにあって、 武運長久の軍神としての神格が特に強調され、 奈良王神社へのさかんな戦勝祈願がなされたことは、 戦前の目記資料などにもくわしく記録されている。 出征兵士の妻たちは髪を切って神前に奉納し、 夫の無事を祈願したともいう。 この奈良王神社が、 いったいいつ頃の時代にまつられたのかという問題を、 次に検討してみなければならないが、先の 『更訂孝謙天皇御遷居縁起鈔』に 「延暦三甲子年六月五目皇居ノ跡ニ一宇ヲ創立」 などと記されてはいるものの、 『宝永二年奈良田村諸邑明細帳』にはこれについての記載は ------のみならず孝謙天皇伝説の記載自体が------ まったくみられず、神社についてはただ「 山神、ほこら壱ケ所塩鴫に御座候面当村氏神ニ御座候。 村中ニて支配仕来り申候
とあるのみである。ここにある山神とは今日の若宮八幡社をさすことが明らかで、『甲斐国志』神社部にもこれが「山祗社、早川ノ西塩島ニ在リ」と記されているものの、『山梨県市郡村誌』には奈良王の宮を誤記したものとされているが、そのようなことはない。 要するに、一七〇五年当時の奈良田には、後に若宮八幡社とされる山神社が一社あるのみで、貴人伝説に類する事項は村明細帳に一行もふれられていないのである。 ところが、ほぼ百年後の一八○六年時の村明細帳をみると、この山神社のほかに「こくうそうのほこら」(今日の虚空蔵神社)と奈良王神社の前身となる小祠の存在が記載されるようになり、奈良田の神社は三社に増えている。 このような経緯から、奈良王神社の創建時は一七〇五年から一八○六年の間に求められ、貴人伝説の発生とほぼ時を同じくするものであることがうかがえる。 『甲斐国志』には、この奈良王をまつる小祠について
村東ニ奈良王権現ヲ祠ル。 即チ奈良王ノ館蹟ナリト云伝フ。村持ナリ」 (神社部)、 皇居ノ址ト云フ其ノ中ニ 小神祠一座ヲ置キ奈良王ヲ祀ル。 供奉ノ公卿大夫ノ居ル所、 姫宮ト云フ所モアリ」 (古蹟部)
と述べ、奈良王権現の名でとりあげている。なお、ここにある公卿衆の居館跡・姫宮とは、どこをさすものであるか、今となっては判然としない。 一八八三年の『山梨県市郡村誌』には、奈良王宮の名でこの小祠がとりあげられ、
雑社社地東西拾三間南北拾三間面積百六拾九坪。 本村奈良田組ニアリ。 祭神同上祭日陰暦正月廿五目。 社地中大樹五株アリ 桧二株囲七尺回以上壱尺 同樅三株囲壱丈回以上壱丈五尺回以下。 本社ハ奈良王の館跡ナリト云
とされている。 山中共古の『甲斐の落葉』 は、奈良王神社に安置されている神体の孝謙天皇像のことにも言及し、
寺僧ニ導カレ孝謙法尼ノ堂へ到リシニ堂ニ鈴一口カカレリ。 甲府ノ士某ガ納メシモノニテ近代ノモノ。 孝謙奈良王ノ像トイヘルモノハ近キ時代ニ 仏師屋ノ造リタルモノニテ宝冠ヲカブリ 珠卜剣トヲ持チテ座セル像ナリ
と記され、この像はごく新しい時代に安置されたものとしているのであるが、塩田義遜氏によれば、その台座には「文政七年二月吉目湯志真村」の銘があるという。 参考までに、『外良寺過去帳』をみてみると、
延暦三甲子年六月五日皇居ノ跡ニ一ヲ創立シ 即チ天皇ノ法諱法基尼ノ尊像ヲ彫刻シ 奈良法皇尊ト奉称セシ以来当寺所属ナリシガ 明治政府神仏分離ノ命令ニ基キ本社ヲバ、 八神社ニ属シ尊像ハ仏体ナルヲ以テ当寺ニ引移シ合祀ス。 彫刻年代作者不詳
とある。奈良王の祠と天皇像は外良寺の管轄下に置かれ、付属堂宇としてあつかわれていたようであるが、神仏分難によって一担は天皇像が外良寺に移されていたという。しかし、すぐにもとへ戻されたようで、山中共古が奈良田を訪れた時分には、それは奈良王神社に安置されていたのである。
以上のように、奈良王の居館跡とされる地に今日の奈良王神社がまつられたのは、伝説の発生・成長期にあたる一八世紀中のことと推定され、それはごくささやかな小祠にすぎなかったもののようである。 明治期に至ってからは、明確に孝謙天皇を祭神とする由緒正しき神格が強調されて天皇像も安置され、外良寺からはあいついで縁起書が版行されるにおよび、天皇伝説の中心的旧跡として位置づけられていったものと思われる。 伝説とともに神社もまた成長・発展していったことになるが、それに際して外良寺の寺僧の果した役割には大きなものがある。 そこで次に、その奈良田唯一の寺院・身栄山外良寺について、孝謙天皇伝説とのかかわりをみてみよう。
外良寺 外良寺の創建年時は諸説あって明らかではなく、一八〇六年の村明細帳には 「開基善蔵坊目心。開山本山八世日持上人」 (本山とは小室山妙法寺をさす) とあるのみだが、『目蓮宗大観』などには 「開基禅定院目心、開山日等上人、天正十年創立」 とある。 ところが、志村孝学の『更訂孝謙天皇御遷居縁起鈔』には次のような記薦がなされるのである。
当寺八万寿元甲子年八月四日現寺地ノ南ニ創設シテ 奈良皇山外良寺卜称シ真言密宗小室山ノ支流タリ矣。 文永年間小室山主肥前法印ノ宗祖卜法議ヲ論難シ 遂ニ改宗シタルヲ伝聞シ 本村居族篠党又右衛門尉ハ頗ル法議ヲフセシ 才能者ナリシガ其大法論ヲ転伝シ 隨喜ノ余り宗祖ノ御座像ヲ彫刻シテ 本山開祖日伝聖人ノ開眼ヲ請ヒ 正和三甲寅年九月十三目今ノ境内ヲトシ 之レニ祖師堂ヲ建立シ而来一村挙テ転宗セシヲ以テ 本山八世日寺聖人ノ許ヲ得テ 文明四壬辰年七月十五日外良寺ヲ此地ニ移シ 山号ヲ身栄山卜改称セシ。 以来明洽廿四年迄テ四百廿年 暦世三十九更一代ノ如ク宗法伝灯セリ。
これによるならば開創時が一〇二四年、本山での法論・改宗にならった日蓮宗への転宗が一三一四年、現在地への移転が一四七二年となり、先の天正十年開創説よりはずっとさかのぼる寺院史が述べられているのであるが、志村孝学一流のアレソジがなされたものとみるべきであろう。 それにしても、開創時の外良寺が「奈良皇山」の山号を名乗っていたことは興味深く、『外良寺過去帳』にはこれについて次のように記している。
当寺改宗以前奈良皇山外良寺卜称シタル所以テ尋ヌルニ 奈良皇尊ノ祈願所トシテ創立セシ故ニ奈良皇山ト云ヒ 孝謙天皇当地御在居中夢想伝法アリシ 外良薬ヲ伝エタルニ依テ外良寺ト号ス。 改宗ノ際身栄山ト改称ス。 夫法華経安置ノ道場ハ我不愛身命但惜無上 道ノ霊場ナレハ尽末来際マテモ法華経ト共ニ 外良ノ寺門繁栄セン。 是山寺号生起スル所以ナリ。
つまり、外良寺はもともと奈良王の祈願寺として開創され、寺号の「外良」も孝謙天皇が霊夢によって授かった外良薬にちなむものとされる。この外良薬については『外良寺略縁起』にも記されている。
天王御悩労療也時に老翁来て薬を奉異人去りぬ。 又七日乃内に御悩癒事奇なり。 天王彼老翁を不思議と思召給ひけれハ 有夜異人顕て御物がたり是あり。 其後薬法明給ひ外に良薬なり、 時に我八応神天王と告給ひて孝謙帝夢ハさめ玉ふ。 依てこの薬を外良と名右乃由を明給ひて篠党土佐殿之与玉ふ。 (中略) 後々百姓にてハ薬制法不障ゆへ 万寿年中の頃寺を立て薬制して所々に出すゆへ 外良寺と名後に薬法紛失絶る事弐百年余 然る所孫左衛門の古書の中より外良の書出るなり。 依て再諸人の為に出す者なり。 天皇の霊夢にあらわれた異人は応神天皇の化身といい、 授けられた外良薬の製法は、 外良寺や篠党の末裔である当地住民にも伝えられたという。
このいきさつを『更訂孝謙天皇御遭居縁起鈔』は
篠党土佐殿へ彼ノ異人伝法外良薬ヲ伝へ 並ニ御歌書物ヲ賜ハル。 (中略) 奈良皇山外良寺ヲ創立シ外良薬伝法ヲ寺二移シ 其後故アリテ相模国小田原駅二移り 外良屋ト号シテ今尚現存セリ」
とし、小田原名物「ういろう」の起源に結びつけている。
中国伝来の外良薬は、形を変えて今日、小田原や名古屋名産の茶菓となっているが、なぜにその渡来伝承が奈良田に伝えられているのかは全く判らない。 とはいえ、それが寺院の名称となり、孝謙天皇伝説と結びつけた形での寺伝が語られてきたことになる。 古くからさまざまな縁起冊子を版行し、孝謙天皇の旧跡や七不思議の拝観コースのガイド役を寺憎がひきうけ、西山温泉への湯治客相手に一種の観光寺院的使宜を供与してきた外良寺であったればこそ、その寺伝にも天皇伝説の由緒が深く刻みこまれていなければならず、伝説そのものの洗練化と定式化に際して歴代住職の果してきた決定的な役割は、そのことの勤機によって深く裏づけられている。完成段階における孝謙天皇伝説の二大基本資料である『外良寺略縁起』および『更訂孝謙天皇御遷居縁起鈔』は、いずれも当時の外良寺住職の編集・版行にかかわるものなのであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年11月02日 04時49分38秒
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