2020/11/10(火)06:14
武田氏家臣団の組織
武田氏家臣団の組織 『山梨県郷土史研究入門』 服部治則氏著 山梨郷土史研究会 編 山梨日日新聞社 平成4年発行 一部加筆 山梨歴史文学館 武田氏の統属組織を最も明確に示すものはいわゆる 「壬午起請文」であろう。天正一〇年(一五八二)壬午三月武田勝頼滅亡より五ヵ月後の八月二一日、武田遺臣が徳川家康に忠誠を誓約した時の起請文で、人数合わせて八九五人の甲州武士は、武田親族衆(I)、信玄近習衆、信玄直参衆、小十人頭、同子供衆、寄合衆、御蔵前衆、弐拾人衆、以上(Ⅱ)、遠山衆、栗原衆、一条衆、備中衆、典厩衆、山県衆、駒井右京進同心衆、城織部同心衆、井伊兵部少輔前土屋衆、今福筑前守同心衆、今福新右衛門同心衆、青沼助兵衛同心乗、跡部大炊助同心衆、跡部九郎右衛門同心衆、曽根下野守同心衆、原隼人同心衆、甘利同心衆、三枝平右衛門同心乗、以上(Ⅲ)、御岳衆、津金乗、以上(Ⅳ)の二八に類別されている。 それらの武士団は、質的に四グループに分類できる。 I 武田親族衆=武士隊将(寄親)クラス。 且 武田直属家臣のうち旗本・請役人クラス。 Ⅲ 寄子同心クラス。 W 地域的武士集団。である。武田の上級家臣は親族衆(I)であった。『甲斐国志』によれば、親族衆は「国主の兄弟令子出でて一家を立て、或は他姓を冒」したもので、ほかに「譜代家老」「旧き国人の苗裔と云ふ者」も武士隊将に含まれている。『松平家忠日記増補』ではこのグループを「武田親族衆」としているが、恵林寺蔵本壬午起請文では「侍大将」とし、「古は武田親族士大将之分、本領被下置も有之」と記している。これに対して、右の武士隊将に「付属する所の士の通称」が「与力同心」である。彼らの保身出世の一つの道は「子弟輩幼より旗本に勤仕し功を積み、本員に安堵するを先務と」するもので、これらが、武田直属家臣団の旗本クラスに属するもの(Ⅱ)であった。いま一つの道は「有縁の隊長に託し、無足にて軍役を稼ぐ者」であって、これが「寄親寄子」と称する戦国時代の特徴を示す制度をなし、これらの武士が、何某同心衆といわれる与力(寄騎・寄揆・寄子)同心クラス(Ⅲ)のものである。「父の本領を分つことは禁ずる所」であったので「兄弟衆き者は面々に勤功ありて禄を索」めたのである。さらにいま一つのグループは、地域的武士団(Ⅳ)であり、辺境の地域に多い。巨摩郡北山筋の御岳衆、同郡逸見筋の津金衆、同郡武川筋の武川衆、八代郡中郡筋の九一色衆などはその錚々(そうそう)たるものである。これら辺境地域武士集団は、同族や親類を契機として結束を強めており、小地下、山家衆であるが「武変は無類に能き武士衆」であった。壬午起請文に記載される者は、家康に服属したもののみであるから、武田氏家臣団の全体ではないが、この中で最も人数の多いのは何某同心衆と称せられるところの、在地の寄子クラスの士である。彼等は武田氏時代の武士隊将のもとに属したかたちで記されているのである。それらの隊将は、天正一〇年の戦闘の中で討死したものもあるが、『甲陽軍艦』品十七武田法性院信玄公御代惣人数之事の項で、御親類衆・御譜代家老の部に記されているもの、あるいはその子弟であるか、足軽大将衆の部に記されているものかである。『軍鑑』の寄騎同心の数はある程度割引しなければならないかも知れないが、信玄の最盛期の武田家臣団の様相を見ることができる。『軍鑑』の惣人数之事では、信玄がその勢力圏を拡張するに従って服属した、信州・上州・駿州などの武士を先方衆としてその地に配して警備せしめたことも明らかにされる。なお、天正一三年(一五八五)の史料であるが中尾之郷軍役衆名前帳によれば、中尾郷の人名三一名があげられ「合拾人ハ本村ノ郷士」であり、「廿壱人又被官」とされている。徳川家康の上田城真田昌幸攻撃の頃であるが、武田氏時代の与力同心クラスの士に相当する郷士給人は、その下に苗字なく、主人をとって軍役を稼ぐ百姓であった又被官を持っていたわけで、武田氏滅亡後三年のちの史料ではあるが、遡って武田時代の形勢を見ることができるのである。 〔服部 治則〕 参考文献 小林計一郎「甲陽軍鑑の武田家臣団編成表について」戦国大名論集10『武田氏の研究』吉川弘文館 一九八四服部治則「武田家臣団組織と親分子分慣行」『農村社会の研究』 御茶の水書房 一九八〇早川春仁「中尾之郷軍役衆雑考㈠㈡㈢㈣」『甲斐路』三二、四〇、四四、六〇号 一九七八~八七