カテゴリ:北杜市歴史文学資料室
西鶴作品はどこまで絞れるか
山梨英和短期大学教授 白倉一田(しらくら・かずよし)
『国文學』解釈と教材の研究 「古典文学の謎」第22巻 9月号 學燈社 昭和52年9月号 一部加筆 山梨歴史文学館
西鶴文芸を研究する基本的問題として、西鶴の作品であるか否かを見極めることと作品の成立時期の究明は太切なことである。 戦後三十年間の西鶴研究は多面的詳細に亙って行われるようになったが、研究の新展はこの基礎的問題についての疑問の提示であった。 『日本永代蔵』の成立について暉峻康隆氏は「日本永代蔵の成立をめぐって」・(文学・昭和三十五年十一月)において、日本永代蔵の初校は貞享二年(1685)下半期から貞享三年春までに成立したとの推定説を提示された。これは序文によって貞享三年六月に初校が成立し、貞享四年三月に刊行された「野良立役舞白大鏡」の藤田皆之丞の記事の一部に <西鶴法師がかける永代蔵の教にもそむき、先祖相伝の財宝おのづから皆之丞と消うせしもむかしく。>とある文章によってであった。なお初稿は巻一~巻四であり、巻五・巻六は貞享四年末刊行に際して大急ぎで書き足した草稿である(日本永代蔵解説・角川文庫)と考えられた。
谷脇理史氏はこの博士の説を日本家代蔵の内容の詳細な検討究明により「日本永代蔵成立への一試論」 (国文学研究)、「日本永代最初校の問題」(国文学)において肯定された。しかし初稿は暉竣康隆氏とは異なり巻五・巻六とされている。刊行時に全部書かれたのではなく二回に分けて書かれ、初稿はすでに京阪の文人仲間の目にふれていたというこの説は現在定説として承認して良いと思う。「野良立役舞台大鏡」の記事、巻一~巻四と巻五・巻六との外面的、内面的の相違、題材拡散的当時(貞享三年)の西鵜の執筆意図によって説明される。但し初稿はいずれであるかは見極め難く、筆者はかつて「日本永代蔵の成立」 (日本文芸論集)において論じておいたが今後の研究にまたなければならない。
西鶴文芸を考える時、西鶴・非西鸚が問題になり、現在学界を賑わせている言葉に「西鶴工房」がある。西鶴の助作者の存在である。一時期に多作を刊行していることへの疑問と遺稿の出版に際しての原稿の取り扱い時の書肆のあり方の問題で、共に当時の出版ジャーナリズムの問題である。西鶴文芸研究においては当時の出版情況は念順におかなければならない問題である。 貞享三、四、五年に刊行されたものを列記すると、 貞享三年二月好色五人女、六月好色一代女、十一月本朝二十不孝、 この年日本永代蔵初稿(万の文反古約半数式稿)、 貞享四年正月男色大鑑、三月懐硯、四月武道伝来記、 貞享五年正月日本永代蔵、二月武家義理物語、三月嵐無常物語、 六月色里三所世帯、九月以前好色盛衰記、十一月新可笑記が刊行されている。
このような膨大な量と題材の拡散現象は特筆すべきことで、なおそれらは殆どが一定の主題によって題材がまとめられ、一定の方法に従って統一的に書かれた短篇集である。これを一人の作者によって執筆されたのかとの疑問が生じ、題材の提供者又は代作者の存在が考えられるのではないかと学界で問題視されている。 この時期の西鶴の執筆情況を具体的に貞享三年についてみることにする。 この年好色一代女・本朝二十不孝・男色大鑑・懐硯・日本永代蔵の初稿・万の文反古の約半数・武道伝来記(四年にかかっているかも知れぬ)を書いていると考えられる。 西鶴は谷脇理史氏によると好色一代男において広い世界の<人のこころ>を描く(好色一代男論序説一・近世文芸研究と評論)原理的な一つの視点があって、それ以後の作品の根底を流れており、西鶴の作家的成長といった従来の常識を再考する必要がある(西鶴・シンポジウム日本文学)と主張されるが一考の価値あるものである。しかし人間は成長する存在であり、特に現実意識に富む西鶴は一作ごとに問題意識は鮮明になり、深められ又転回・拡散がなされていくことが考えられ、書くことによる成長、新しい展開を考えるべきだと思う。 貞享三年期には多くの作品を書いているが、執筆動機を探ってみると具体的に論証することができる。作品研究に文体・語法は大切であるが、執筆意図と構想は作品成立の基本的な問題である。 好色一代女は好色物の系譜において究極的に考えられる発想であり、現実意識において女性のある一面を業として表現したものであり、それが現代人の悪の業へと展開していった時本朝二十不孝となり、現実意識と業は男色大鑑の後半の発想へと続くのである。暉竣康隆氏は遊仙窟・九相詩の用語例から男色大鑑は本朝二十不孝の前に書かれた(井原西鶴集二解説・小学館)とされるが、発想においては共に好色一代女に通じ、男色大鑑の前半四巻は後半四巻の後、統合的な男色いわゆる男色大鑑として書かれていったのであると思われる。 男色大鑑の前半は武士の男色であるが、それは必然的に武士の世界へと連なり、従来の否定的人間観照の絶望は反動的に唯美主義的人間把握を誘発し、現実意識とあいまって武道伝来記の発想を促したのである。懐硯は西鵜諸国はなしの延長であり、人間に興味と関心を示した人事に関する奇談集となっている。懐硯の奇談的面白さは、当時寺子屋の教科書として使用されていた往来物の形式の面白さとあいまって万の文反古の約半数のものとなっている。多面的に題材を求めて書いている時期に身近な町人の経済生活に目をむけないでいるわけがなく、長者教の構想を借りて新時代の町人生活の有り方……新長者教を書いていったのが日本永代蔵の初稿である。
このように各作品の構想においてその成立は論証することができる。しかし研究は絶えず疑問をもたねばならなく、異なった題材による多量の作品の執筆は個人の問題と同時に当時の出版事情を加味して考える必要があるように思う。資料の提供者、更に創作活動にたずさわった代作者の存在への疑問をも考えるべきで、特に懐硯などは疑問をもつべき作品のように思う。 この作品について浅野晃氏(本朝二十不孝から日本永代蔵へ・西結論叢)は他作混入が相当あるとされているが、今後研究していかなければならないと思う。 西鶴・非西鶴を考える時、問題になるのが西鶴没後に刊行された遺稿集である。西鶴縁留は西鶴没後元禄七年四月刊行されたものであるが、近年元禄通行本の他に原割木が刊行されている,ことが明らかになった(木村三四吾・西結縁留詰腹考・ビブリヤ)。この二種類の刊行は遺稿出版時の書肆と団水との関係から生まれたと考えられる。 成立意図は団水序に<日本永代蔵・本朝町人鑑、世の人心これを三部の書と名づく>とある文章を信じてよいと思われる。本朝町人鑑(巻一・巻二)は日本永代蔵巻末の次号出版予告の甚忍記の中途放棄・変形したものであり、巻二の一の冒頭に<本朝は、天照大神元年より今元禄二年の初春まで>とあり多分元禄二年正月売出しを考えて書かれたものと思われる。 甚忍記の執筆動機は日本永代蔵脱稿時における西鶴の現実意識によるものであり、日本永代蔵で町人の理想をかかげて大福新長者教としてその抱負を書くのであるが、現実の社会の実態を知るにつけ、現実を書かずにはいられない西鶴にとっては変質していかざるを得なくなり、<是皆町人の中の町人の鑑といへり。>(巻二の一)とあるように、改めて新しい町人のあり方を問題にしたのである。 甚忍記を題号とした小説を書こうとしたのは、浅井了意の堪忍記が出ており、この内容を念頭において書いていったことが考えられ(野間光沢・西鶴と『堪忍記』・国語国文)、日本永代蔵後主我的態度に疑問をもった結果、自己の考えを改めざるを得なくなり、当時の一般的な考えに傾斜していき、仁・義・礼・智・信総括して<堪忍>という構想になったのである。 本朝町人鑑は仁・義・礼・智・信の儒教の徳目によって書こうとしており、それが随処に散見されている(松浦一六・西鶴織留新注、野間光辰・西飾と『堪忍記』、野田寿雄・校注西飾織留)。 しかし各徳目が十分生かされずに終っている姿を諸処に指摘することができる。西鶴は五常五倫の一般的教訓の五常を主題として教訓しようとしたのであるが、徳目的教訓は仮想的な内容をとらなければならなく、現実を離れて書くことのできない西鶴は現実を重視すればする程甚忍記の徳目的構想はぼやけ、書いていくうちに仁・義・礼・智・信の小説……仮想の小説……は書けなく、甚忍記の構想を放棄してしまったのだと思われる(筆者・本朝町人経論・山梨英和短大紀要)。 この作家のいき詰りを良く知っていたのが団水ではないかと思う。だからあえて西鶴職留を二つに区 分し、前二巻に副題として本朝町人鑑とつけたものと思われる。 本朝町人鑑の教訓は日本永代蔵の延長、変化の様相を示している。教訓の推移は西飾の対象の認識の相違によるものであり、作家の流動的姿をみることができる。観念的な人道を教訓するようになるのであったが、現実の<望姓持たぬ商人は、随分才覚に取廻しても、利金にかきあげ、皆人奉になりぬ。>(巻一の二)の社会ではこれは二面的解決を求めるようになる。一つは既成のモラル・宗教への逃避であり、他はモラル・宗教の否定である。 金銀により解体される町人を考え没我的に五常の世界に入っていった西鶴は、再び現実の生活に帰って来ざるを得なくなり、作品中に論理の矛盾を露呈してくる。この矛盾・不統一は好い加減さではなく、いかに教訓すべきかを真剣に考えた所より生まれたのである。構成の長短という外面的のことの他、内容の破綻は思慮による乱れであり、その悩み・考えは人間を深く凝視することをさせ、純客観的態度での人間観照を豊かなものにしている。当時の一般道徳概念とその矛盾、深い人間の観察が本朝町人鑑に共存し交錯して作品を構成している。この人間把握の延長、深化、表示が世の人心である。 所飾職留の序文に<是を世の人心と名づけ>とあるが、この世の人心は所飾が長年いだいてきた問題でもあり、西鶴の晩年の大きな関心事はこの世の人心の問題であった。現実主義作家西鶴の創作過程は常に変遷していくのであるが、その過程においてしだいに世の人心の把握へと傾斜していき遂に世の人心の主題と成っていったのである。西鶴が世の人心の執筆動機をもったことは作家としての内面的必然性によるものであり、日本永代蔵・本朝町人鑑と書き続けてきた所飾の延長線上にとらえるべきである。 世の人心への関心をもっていた西鶴がこの主題で書こうとした直接的の要因は、日本永代蔵・本朝町人鑑執筆の現実認識における作家意識の挫折感・閉塞感と考えられる。 西鶴文芸の一端は教訓性によって形成されているが、世の人心のそれは日本永代蔵・本朝町人鑑的のものではなくなっている。家業のことなど以前と同様の教訓もあるが、医者の事、乳母の事、子供に対する言葉使いなど家庭的、身辺的のことになってしる。 西鶴の視線の変化がみられ、小説を創作しようというよりはじっと見詰めようと内省的になっており、人々の生活を観察し、その人心を観照していこうとしており、それは必然的に自己の告白に連なっていくのである。医者の事、子供の事など西鶴の現在の心境を書きつけているのであろうと思われる。 西鶴書留には他の草稿が挿入されていることを認めることができる。巻五の三は日本家代蔵巻三の三と世間胸算用の巻三の三に類似しており、なお挿絵についても巻五の二の挿絵は世間胸算用 ・本朝桜陰比事・色里三所世帯などに使用されている一部を寄せ集めて完成したものである(檜谷昭彦・西鶴織留と出版書肆・西鶴論叢)。又巻五の三、巻六の二、巻六の三などには編集に際しての不備がみられる。これ等のことは遺稿を他者がまとめたのでこのようになっているのであり、このような未完成さがかえって西鶴の未発表の未定稿を集めた遺稿集の姿を示していると思う。西鶴織留は編集者などによる大幅な変更増補・加筆はなく、西鶴の原稿が殆どそのまま編集されていると思う(筆者・世の人心論・山梨英和短大紀要)。 西鶴は元禄二年後半期から世間胸算用刊行までの二年半位浮世草子を出版していないのは病気をしていたのであり、世の人心には病中の自己の心境が語られている。西鶴と作品がよく一致しており、西鶴工房が大きな存在であったなら、この時期に多くの題材をもったいくつかの作品が刊行されていたと思われる。 万の文反古について板坂元氏は北条団水の色道大鼓との比較から団水補説(西鶴文反古団水防次偽作説の一資料・文学)を考えたが、更に詳しくこの作品を研究したのが中村幸彦氏であった。 「万の文反古の諸問題」(西鶴研究と資料)において版下は西鶴自筆のものではなく、大部分は西鶴作だが一部団水の混入していることを証明された。 谷脇理史氏はその後「万の文反古の二系列-二つの草稿の存在とその成立時期について-」(国文学研究)を発表され、全部が西鶴の作品であり、二回に執筆されたものであり、<A系列の草稿は永代蔵成立以前の貞享三年下半期頃、B系列の草稿は従末文反古の成立時期と考えられて来た元禄二・三年の頃だ>と推定された。万の文反古の執筆動機を考察すると、約半数は奇談として、書簡体という内外面的興味によろうとするものであり、他の約半数は町人の経済生活を扱っており、日本永代蔵から世の人心を経由してきた作者でなければ書けないものであり、世の人心における人間把握を序文にあるごとく近代小説的発想によって書こうとした時生まれたものである。「『万の文反古』切継考」(西鶴論叢)で信多純一氏は万の文反古の現存の刊本は原四巻本版下を五巻に直したものであり、その版下は西鸚の原稿の元の姿をかなり忠実に生かし、編集者や補筆の介在を認めないと論じている。万の文反古は西嶋の構想が顕著であり、全部が西嶋作であると認めて良いと思う。なお字数の関係で省くが、元禄八年刊の西鶴俗つれづれなど検討しなければならない作品である。 西鶴・非西鶴は基礎的な問題であると同時に大きな問題である。文献学的、書誌学的にこれを究明しなければならないが、多くは研究者の精読の主観にたよらざるを得ない。西鶴の作品は精読すれば文体等各章各作違いを感ずるところがある。一定期間の題材の多彩多岐さ、創作量の問題なども併せて西鶴工房は存在の根拠のあるようにもとれるが、各作品の全体的構想においては西鶴である。非西鶴なるものが混入されていても、西鶴の一定の構想の中でそれが編集・増補・加筆されていることは確かである。原話に対する選択・加筆・編集に西鶴らしさを認められるならば西鶴論を可能にするという「編集者西鶴の一面」 (中村幸彦・西鶴論叢)の見解を念頭におきつつ西嶋研究に進むべきだと思う。
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最終更新日
2020年11月17日 15時53分52秒
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