2020/11/27(金)03:03
甲州街道 御茶壷道中 甲州街道 台ケ原宿 田中大明神之社
甲州街道 御茶壷道中 甲州街道 台ケ原宿 田中大明神之社 田中神社は、『馬場美濃守の産土(うぶすな)神』であり、安産の神としても近郷まで知られていた。甲州道中は、宇治茶を江戸へ運搬する『茶(ちゃ)壺(つぼ)道中』として利用された。下諏訪から甲斐へ入った一行が一泊するのが当社拝殿であった。田中大明神之社は往還から三〇間ほど引込んで位置する。祭神は大己貴命。除地四畝余。馬場美濃守の産土神で安産の守り神ともいわれる。境内に虎石があるので、昔から獅子舞が村内に入るのを禁じているといい、正月一四日の道祖神の祭りにも虎舞と名づけられて、他村の獅子とはその形を異にしている。甲州街道 茶壺道中 幕府飲用の茶を調進させるために、寛永一〇年(一六三三)に制度化されたという。いわゆる茶壷道中は、宇治を発って東海道―中山道-甲州道中というコースを通った。一行の宿泊する宿駅として、甲斐に入ってまもない台ケ原宿では、この社の拝殿が毎年御茶壷の一宿する所であったので、修造料として金一〇両ずつ二度拝領したことがあった。慶安五年(一六五二)こ六月の立札の写しに、御茶壷毎年当社拝殿御一宿候間、拝殿並ニ御番所柱・板壁等落書一切仕間数候。惣而積穢敷数者並ニ乞食非人等昼夜不可集居候事とあったという。その後、茶壷の通行が停止されてからは、この拝殿も形ばかりのものとなってしまった。 江戸時代の初めから元文にかけて交通上やっかいなものに、御茶壷道中というものがあった。これは、将軍使用の宇治の茶を江戸に送るための旅で、家康の時から行なわれたが、特に盛んになったのは、寛永元年(1632)三代将軍家光の時からである。将軍の用いる茶を詰める壷には、福海御袖・日暮御壺・袖狭(そでばさ)御(み)壺・志賀御壺・旅衣御壺・寅(とら)申(さる)御壺・藤(ふじ)瘤(こぶ)御壺・埋木御壺・太郎五郎(たろごろう)御壺・虹御壷などの十畳があって、この中三壷ずつを毎年江戸から東海道を宇治へ送り、また別に日光御宮新壺・久能御営所壺・紅葉山御宮折壺・日光御霊屋折壺・御簾中折壺の五壺を将軍用の茶壷といっしょに宇治へ送った。その他宮中に献上のため折茶壷と本宮御選献新壺があって、これは宇治から直接朝廷に献上された。 毎年製茶の時期に先立って「御物御退出行これ無き内に新茶出すべからず」の高札を宇治橋の袂に掲げて、宮中に献上の御茶や将軍用の御茶が宇治から送り出される以前に新茶を他に移出することを固く禁じられていた。これらの新壺は全部陶器で、産地は呂宋産を第一とし、古瀬戸(愛知県)や信楽焼(愛知県)がこれに次いだ。将軍用の茶は三壷の中二壷には茶師の総支配格五百石取の上林六郎か三百石取の上林又兵衛が詰め、残りの一壷には御物茶師十一家から年番で詰めさせた。その他のものには御袋師という役があって詰めた。詰め方は、将軍川のものは濃茶を袋入れにして壷中におき、モのまわりには葉茶を詰め、将軍用以外の壷には薄茶を詰めて、詰め終ると壷を袋に入れて、その口を紅か紫の紐で結んだ結び方にも一定の方式があった。このように袋に入ったものを荷造役の井上和平が受取って荷造りを厳重にし、将軍用以外の壷は二個集めて罵龍のような構造に作り、長枠に納め、なおその上を備前畳表で包装して、前に何番御茶壷と立札をとりつける。出発に際しては行列の先頭に「茶御用」の白木綿の大きさ一幅(約三〇m)丈二尺(約六五cm)の小旗を立てるが、御用の二字に敬意というか恐れを持たされたものである。 宇治を出発して京都に出て、中山道を通り、甲府から笹子峠を越え訪宿まで来て、甲州街道に移り、上諏訪・金沢・蔦木を通り、甲府から笹子峠を越えて大月から都留市(谷村)に運ばれ、秋元侯の居城であった城山の三棟の御茶壺蔵に納められた。 護送人は江戸に帰り、秋の乾燥期になって再び江戸に運ばれた。 この御茶壷道中は実に大名行列よりも面倒なものであった。通行の数日前に飛脚によって次のような御触書が回された。 一、殿様御茶壷御迎えのこと一、宿々掃除のこと 一、辻々袴を着け弐人ずつさしおき往還の儀は一切通行致させまじきこと 一、狼籍不作法これ無き様に仕るべく候こと 一、男女子供に至るまで見物無用御茶壷御通りの節、その町内殊に子供までも入れ申すまじき由仰せられ候 と、元禄二年(1689)五月の書類があるが、街道は露払いが道案内となり、宿の棒鼻には送迎宿村名主・年寄が麻(あさ)裃(かみしも)を着用し土下座したものである。 延宝八年(1680)の行列は七右衛門・利斉を宰領とし、奉行十六人、茶壷十九荷、枠六荷、長持三棹、乗物二挺、乗懸四十駄、付荷三十二駄、軽尻十二匹、分持十五、その他宿篤龍敬十という大げさのもので、伝馬人足百十人・馬十七匹のうえ藩ではさらに御馳走として人足四十六人・馬三十三匹を求められ、その上六十余人の警護を出して甲州境まで見送った。宿泊や御小休の時は上段の間に置かれるのが普通であり、行列に対しては大名も道をよけて敬意を払ったものである。今でも宇治の茶摘歌に「御代は治まる御物は詰まる、尚も上様米繁昌」と唄われている。 御茶壷を谷村に運ぶことを廃止しだのは元文三年(1738)で以後東海道を江戸城内富士見櫓の上櫓に納められたといわれているが、諏訪の資料にはそれより十年後の延享五年(1848)のものがあるから同年にもまだ御茶壷は中山道を通行していたことが明らかである。 茅野市宮川田沢区有文書の中に、 延享五年六月十四目下ノ諏訪町にて御茶坪御やど遺稿作り、御とまり夜御奉行渡(辺)惣吉様。同十六日ばん御茶壷は神楽やへ入れおき候。御請取役ニノ先様、神楽やの廻りの番人は七十人百姓仕り候。火の元兼々堅く仰せ付けられ候。たばこ吹う事なり申さず候ところに払沢新田人足たばこすい候て安間五左衛門様に御吟味にあい町屋(牢へ入れられること)と仰せ付けられ侯 とあって、本陣に泊らずに下社の神楽殿に泊ったことがわかる。 茶壷の通った後にずいずいずっころばしごまみそずい 茶壷に追われてとっぴんしゃん ぬけたらどんどこしょ という童謡が残っているが、茶壷の通行には、子どもたちは外へ出されず家の中に閉じこめられて 「ずいずいずっころばし」 と「茶壷に追われて」 家の中に入れられ、「とっぴんしゃん」と戸をたてられ、御茶壷が通り「ぬけたらどんどこしょ」 と跳び回って遊ぼうという意味で、いかに子どもにまできゅうくつの思いをさせたかが察せられる。もちろん御茶壷道中によって将軍の威光を諸侯に示すため大名の行列をよけさせたり、本陣に同宿の場合は茶壷を上段の間に置いたりしたものらしい。ある時池田侯の家臣があやまって道の真中で御茶壷につき当って、それがために殿様に切腹させよ、との命が下って大騒ぎが持ち上ったが、ようやく御詫びが叶ったとの話もある。 江戸末期には、東海道を直接江戸に運ぶようになって、諏訪は大助りであった。東海道で三十八荷の茶壷通行の記事があるから、その一行はたいしたものであったろう。以上のように長い間通り筋の人たちは茶壷道中のためになやまされたものであった。