山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2020/12/02(水)18:55

山梨県 俳人 飯田 蛇笏 いいだ だこつ 小抹富司夫氏著

山梨の歴史資料室(467)

山梨県 俳人 飯田 蛇笏 いいだ だこつ 青少年のための山梨県民会議会 編   昭和49年刊 一部加筆 山梨歴史文学館 執筆者紹介小抹富司夫氏略歴 ◇ 大正六年(1917)、西八代郡六郷町岩間に生まれた。昭和十六年(1941)より中国・青島の青島新報社に勤務、戦後二十四年より山梨日日新聞社に勤務、主として文化関係を担当してきた。現在、同社論説委員・出版部長。詩、小説の文学団体に関係している。著書に詩集「きいろい炎」その他「甲州街道」等。 飯田蛇笏 略歴 ◇       明治十八年(1885)四月二十六日、東八代郡五成付(後に境川村となる)に父「宇作」、母「まきじ」の長男として生まれた。五歳で清澄尋常小学校、(後に境川小学校)に入学、九歳のとき「もつ花に落つる涙や墓まゐり」を作った。◇       明治三十一年(1898)に県立甲府中学校に入学、同三十五年、岡中学校を自発的に退学して東京に遊学、翌年、京北中学校の五学年に転入学してここで森川葵村らを知り、さらに岡三十七年、早稲田大学英文科に入学、若山牧水、北原白秋、吉井勇ら多くの友人を得、俳句ばかりでなくさかんに詩作し、小説私書いた。◇ [ホトトギス]の高浜虚子を知り、最年少者として、「俳讃散心」に参加したが、同四十二年、一切学術を捨てて帰郷、田園生活に入り、同四十四年、矢沢氏の長女菊乃と結婚した。◇ 大正三年(1914)虚子の俳壇復活を知り、さかんに作句活動を始め、同四年、愛知県から発行された「ヤフラ」の主選を担当、同六年、モの主幹となり、岡詰を、「雲母」と改めた。さらに岡十四年一月号より「雲母」を山梨に移して編集、発行。終生、その育戒につとめつつ境川村の出廬にあって俳句文学に専念、格調高い句境をもって数多く傑作を発表、俳壇の巨匠として重きをなした。◇ 昭和二十八年県文化功労者として表彰を受けた。◆ 昭和三十七年(1962)十月三日、自宅において死去。◇ 著書は「山嵐集」を始め「椿花集」に至る九句集のほか、評論、随筆等多い。門下知友によって三十八年十月、甲府・舞鶴城に「芋の露逓山影を正しうす」を刻んだ文学俳が建てられた。 俳句は十七文字の文学だ。季節感覚に敏感な日本人の詩心が生み、育て、国民文学としてますます幅広いひろがりを見せている。詩としての形は小さいが、その十七文字が詠み上げる文学の世界は、限りなく広く、深い。 蛇笏は生涯、郷土にあってその俳句文学に全力を尽した。昭和三十七年十月三日、峡東境川町の自宅(文学の人たちは(山盧……さんろ……と呼ぶ)で死去したが、俳聖松尾芭蕉の詩精神をそのまま受け継ぐ正統派俳句の巨匠として高い声価を得ている。その足跡はむろん日本文学史に大きな光輝として残るものであり、そのすぐれた数多くの俳句作品と生涯は、郷土の後輩に大きな勇気を与えるものだ。蛇笏は死んだが、残された芸術作品に寿命はない。  蛇笏は明治十八年(1885)四月二十六日に、東八代郡五成村(後に境川村となった)に生れた。本名は誠治(たけはる)、父宇作は同村清水家から養子入縁して飯田家を継ぎ、四男三女を生んだが、蛇笏はその長男である。 明治十八年といえば、まだ維新のあとで、国内は新しい時代をめざしての胎動で騒然とゆれ動いていた。自由民権を叫ぶ自由党、が全国各地に蜂起して政府との対立を深めているが、一方、全権公使井上馨による甲申事変(1884)に関する日韓善後約定の調印のあと、四月には全権大使伊藤博文が清国との天津条約に調印、そして十二月には初めて内閣制度が制定されて、第一次伊藤博文内開か発足している。社会問題としては借金党、小作党の暴動が山梨・静岡両県に拡大している。 父宇作は、長男である蛇笏が将来、政治家になることを期待したが、その背景には、新時代を迎えた日本のこうした生々しい動きがあった。だ、が、親の意向には沿わなかったものの、蛇笏が一生の文学のなかでつらぬき通した男らしい気骨と、折り目の正しい精神には、やはり「明治」の気概がバック・ボーンとなっている。それはまた文学の上でも、死ぬまで緊張を持ち続けさせたものであり、よい意味での、美しい明治人の典型であった。いま甲府・舞鶴城に立っている蛇笏文学碑(蛇笏の意思を尊重して、郷土山梨のこの碑以外は今後、全国のどこにも蛇笏の句碑はたてられないはずである)に刻んでいる「芋の露連山影を正しうす」、が示しているような、格調高い人生観をもって生涯を生き通した。 日清戦争の始まったのは明治二十七年(1894)だが、その年九歳の蛇笏は、「もつ花に落つる涙や墓まゐり」という句を作っている。これは昭和七年になって初めて蛇笏が出した有名句集「山嵐集」に大事に収められている。 清澄尋常小学校へ五歳で入学しているので、五年生のときの句である。小学校といってもまだ寺小屋時代で、当時の教育は、そんな小さな生旋たちに「大学」とか「中庸」というようなむずかしい勉強をさせている。 その寺小屋式の小学校で、蛇笏は学校友だちの米山金作とか、のちの雨宮雨石、米山柳煙らとさかんに俳句を作り合った。放課後、日課のようにして教室の大火鉢のまわりに集まって暗くなるまで作った。 山梨は江戸時代から俳句の盛んなところで、境川近辺でも句会がよく聞かれた。まして父の生家清水家の長屋門の右、左がしばしば会場として使われたので、つまり門前の小僧として自然に俳句の雰囲気と魅力にひかれていったものと思われる。のちに大人になってから書いた随筆などを読むと、少年時代の蛇笏は、相当、気性の張った腕白少年だ、が、そうして自由活発に付近の山野を飛び回る半面、やはり将来、それに心魂を傾けるだけの深いつながりが芽生えていたのだろう。俳句に関しては目を輝やかして夢中になる少年だった。 ◇ やがて、山梨中学校(甲府中学校。現在の甲府第一高等学校である)へ進学してからは、急速に文学にたいする目を開いていくが、その下地は、すでに小学生のころにつくられていたというべきだろう。彼はたちまち「即興詩人」を読みふけり、そして松尾芭蕉に心酔するようになる。◇ 明治三十四年(1901)、四年生のとき同中学校寄宿舎の学友だちと一緒に写した記念写真がある。これは最近飯田家で発見された珍しいものだが、その写真の蛇笏は、ふっくらとして頬の豊かなまさに紅顔の美少年である。ぐっと左肩を張り、表情は汗ばんでいるような多感さと、理想に対して積極的な闘魂(つらだましい)を見せている。そして、この写真のどこかには、後に内閣総理大臣になった石橋湛山や、建築学の権威・いま早稲田大学の名誉教授内藤多仲などもいるはずである。 蛇笏はそのころさかんにアントニオの放浪の旅や、族の詩人松尾芭蕉にあこがれて、いくども旅に出ることを企てている。が、この写真を写してあと間もなく、学校に騒ぎが持ち上り、一種のストライキに発展した。持ち前の正義感と熱血をもって、彼はその中心となって活躍する。もちろん学校側と対抗しているわけだが、生徒側にストライキをする理由のあることだったので、その行動を咎(とが)めることも処分することも出来ない。 しかし、蛇笏はその事件を機会にして自発的に退学した。その決断には平常抱いていた旅への意図、あこがれがかなり作用していたと思われる。文学と人生にたいして多感なほとばしりがそこにある。◇ 彼は家出をして鰍沢に行き、そこから舟で富士川を下ろうとする。(中央線の開通はその翌年である) その計画は追って来た伯父に引き止められて実現しなかった。が、結局、家族との話し合いの結果、東京へ出て勉強することになった。順調に甲府中学にいたとしても、二年後には上京したはずである、か、この一件で一足早く東京に行くことになったのである。郷里を離れたいというのは、時代がどうあろうとも、少年が一度は描く特有の夢であろうか。◇ 京北中学校は小石川区原町の鶏声ケ窪にあった。蛇笏はその五学年へ転入学した。その中学でたちまち森川葵村、斉勝己水、近藤荻声、高村周豊、樋口登(日夏耿之介)らと親しくなり、日夜、彼らと文学を語り、文学書を読みふけるようになる。家郷を遠く離れ、気持の上でも大海へ泳ぎ出たような自由感を味わった。文学への情熱は燃え上るばかりである。あるとき、誰いうとなく新入学の飯田武治の話が出た。彼は学校の構内にあった寄宿舎にいたが、終始黙々として校庭の一隅にたたずみ、どこか禅味のある風貌の持ち主たった。同気相求めるというか、私等は飯田を俳句の連坐(俳句を作りあう会)に誘った」と、最初の親友森川葵村は、そのころの蛇笏を振り返る。その時、葵村はたずねた。すると蛇笏は、「蛇の骨とてもしておきましょう」と答えている。 雅号は、だいたい花鳥風月から選んだものが多かった。例えば、花袋、桂月、白鳥、藤村、鏡花、酔花、柳虹といった按配である。やがて彼は早稲田大学時代になると、モリモリと主観的な作風の俳句をつくり出すのだが、すでにこのころ、雅号の選び方にも蛇笏的な個性を見せている。 「剽逸というか洒脱というか、私たちには捉えどころがないように思えた」と葵村はそのとき、すでに一目おいている。  京北中学時代は、その誰もが、我こそはと文学に気負って巣立ちした少年時代の夢に満たされていた。欲も得もなくひたむきなその憧れの時代だった。そして葵村は証言する。「ひとり飯田だけは焦らず、倦まず、着々と自分の道を歩いていた。……」 明治三十七年(1904)に蛇笏は、早稲田大学の英文科へ進んだ。 この年には、日本海と満州の野を血で染めた日露戦争が勃発している。近代日本が国運をかけた、たちまち突入した二つの大きな戦争を、感じやすい時代に蛇笏は続け様に体験する。そしてさらに大正の第一次大戦、昭和へ入ってからの満州事変、上海事変。やがて日華事変から太平洋戦争。明治、大正、昭和の三代を生きた蛇笏は、そのたびたびの戦争がひき起こす惨苦をすべて目撃しなければならない。日本を敗戦にみちびいた第二次大戦では、愛児二人を戦場で死なして、血涙をしぼるほどの犠牲を強いられている。 だが、早稲田大学へ入った蛇笏は、その初めての夏休みに、一ツ橋に入学した葵村を連れて境川村へ帰省し、一緒に富士山へ登山した。そして、毎日、飽きる事なく詩について、文学について語り合い、また議論をかわした。 葵村は猛烈に詩を書いていた。二、三年後には彼は「夜の葉」という詩集を出していて、麒麟児的存在になるのだが、その友人への共感もあって、蛇笏自身も当時はさかんに詩を書き、白蛇幻骨その他のペンネームで「文庫」や「新声」などという文学雑誌へ次々に油ののり切った詩作品を発表している。 後に作家となった長田幹彦もやはり英文科の学生だったが、「彼は羽織の紐に、いつもインク瓶をぶら下げて教室へ入って来た」となつかしく語るが、そのころはまだ早稲田の角帽もない時代で、つまり制服も制帽もない時代で、みな鳥打ち帽子(ハンチング)にかすりの着物で通学していたのである。羽織の紐にインク瓶をつるした蛇笏。文学青年ではあったが、しかし決して青白い学生ではなかった。その風采、挙措動作には一つの気概があった。めめしいことは大嫌いな青年だった。 「芳水詩集」を世に送って、いまでいうベストセラー、若い人たちの胸をわき立たせた詩人有本芳水も語っている。 「彼はこんなことをいった。詩の世界は広い。花鳥風月だけが詩の対象ではない、道ばたにころがった馬の糞にも、濁ったドブ川にも詩、がある、おれはこの方面に心を向けて詩を作りたい。……六十年をへた今日でも蛇笏のこの言葉は忘れられない」  早稲田時代は、彼の詩心、文学への才能がさかんにその可能性をためし、開花していく時期だ。詩人富田酔花や川路柳虹とも親しくつき合い、やはり早稲田大学へ進んだ目夏耿之介とも京北中学以来の交友である。大学ではさらに多くの文学上の友人を得て、蛇笏の文学への気持はいっそう刺激され、触発された。同じ英文科には詩人北原白秋がおり、歌人古井勇がおり、作家葛西善蔵、坪内士行、長田幹彦らがいた。科は違う、が、広津和郎、土岐哀果、若山牧水もおり、上級生の秋田雨雀(劇作家)とも親しかった。 小説「少年行」を発表して一躍、学生作家として世に躍り出た中村星湖は南都留郡河口湖町の出身である。 甲府中学校でも互いに名前は知っていたが、学年か一年違っていた関係で当時は深い関連を持っていない。大正の初め、蛇笏が所属していた「ホトトギス」へ星湖も小説「わか者連」(大正三年)を書いているが、親交は、戦争のため星湖が郷里の河口湖畔へ帰ってからに持ち越されている。 敗戦直後、旧河口村の道端にころがっていて、通行人の下駄の雪を落す役目をしていた石を、星湖が注意深く見たことがその端緒だ。「芭蕉の句碑ではないか?」と驚いた星湖は蛇笏に連絡をとって鑑定を頼んだのである。 二人して、その句碑を調べた。 いつのころか、「川口連中」が建てたものである。「芭蕉翁」と碑石の中央に大きく彫り、そして、「雲霧にしばし百景をつくしけり」と、一句刻んである。「尊重すべき句碑だ。いかに世が乱れているとはいえ道端で蹴飛ばされているとは情ない」 蛇笏は手の平で、その碑を撫でて、しみじみとつぶやいた。 ◇ 芭蕉は天和二年(1682)十二月の駒込大円寺を火元とした大火で芭蕉庵を焼かれ、身をもって江戸を逃れて五ヵ月間、郡内で疎開生活をしている。その折、谷村や初狩にばかりじっとしていた訳ではあるまい。そしてその三年後の貞享二年(1685)四月、「野晒(のざらし)紀行」の途中、木曾路から諏訪を経て、甲州道中信州路を東に向って再び入峡している。決して甲州に縁のない俳人ではない。無論、星湖は村の人たちに呼びかけて、その泥まみれの句碑を洗って、産屋ケ埼の美しい環境へ移して再建した。河口湖のすぐそばで、富士山の全容を真向いにした絶景の場所である。  以来二人は折にふれて会い、文通し、郷土文化界の先輩として後進の人たちの指標となってきた。 ◇ 早稲田大学に入ってからは、さらに蛇笏は文学の道へ強く踏み出したのだが、郷里の父宇作はそれを黙認した。政治家になることに父親として、ひとたびは一つの夢を托したのだったが、そのころは独自の力で将来へ向って歩き始めた蛇笏を、遠くからみつめている。母、まきじは、すでに愛児の希望を理解して、暖かい言葉を寄せていた。 ◇ 二十一歳のときであった。蛇笏は学友四方呉檜にすすめられて、俳句の早稲田吟社に参加した。なんとなく詩作が間遠くなっていた。メンバーには白石実三、上山草人、中塚一碧楼などがいた。 彼は次第に句作に励み始める。何時とはなく早稲田吟社の中心人物となったが、内面にはほとばしるものを持っている。作品の発表にさかんな意欲をみせて、虚子、が選をしていた「国民俳壇」へ投句したり、「ホトトギス」俳句会へ顔を出すようになった。そして、はっとさせるような作品を矢つぎ早に発表して周囲の注目を浴びた。やがて新しい世界が開けて来る。 俳壇のチャンピオンであった高浜虚子とはじめて面識をもったのは明治四十一年(1908)、二十三歳の時だった。そして、自然に虚子の下に入門の形になり、その八月には虚子を中心とする俳句鍛練の場である「俳諧散心」に最年少者として参加することになった。彼がいかに虚子とその周囲から注目されたかがわかる。むろん、情熱はいっそう燃え上がった。 その夏、彼は暑中休暇にも帰省しないで、毎日、富士見町遊就館裏通りにあった虚子庵に通いつめて、年長者にまじって作句に集注した。「俳諧散心」は毎日正午から始まる。東京の炎暑の中を、汗をふきふき一日もかかさず通いつめた。苦しくはあった、が、それを吹き飛ばすだけのこころの高まりがあった。 そうしながらも半面、蛇笏は小説の筆もとって習作を続けていた。当時は花やかな自然主義文学の興隆期で、それが文壇の新風であった。尊敬する虎子も句作と併行して小説も書いていた。蛇笏の才能は躍動し、鮮やかな開花を見せつつあった。 ◇ だが、この「俳諧散心」のあと、虚子は突然、俳壇引退を声明して、国民新聞社に入社することになる。この変動は、「よし、やるぞ」と気負い立っていた蛇笏にとっては、非常なショックだった。うつぼつと燃え上がっていた意欲、か、ポキンと出鼻をくじかれた。といってもよい。が、さかんな作句熟をさますわけにはいかない。 彼は若山牧水が主宰していた雑誌「創作」に拠って、そこに気ままな俳壇を設けて作品の発表を続けた。とにかく青春の魂は熱っぽい。多くの文学仲間と肌をすり合わすようにして文学を論じ、人生を語り、学問を論じて尽きなかった。 そのころの東京には、飲み屋はあったが、喫茶店はもとより酒場などはまだ出現していない。潔癖な蛇笏は、学業と文学の余暇を寄席に求めて、しきりに寄席めぐりをした。ことに神楽坂の牛込亭が近かったので一番足繁く通っていた。 有本芳水も長田幹彦もその点を異口同音に語っている。「ある夜、一緒に散歩しているとき、蛇笏が急に浪曲を唄い出した。それは実に堂に入ったものだった」と、芳水はそんなエピソード伝えている。 ◇ だが、やがて蛇笏に二度目の一身上の転機が訪れる。二十四歳の明治四十二年、一切の学術を捨て所蔵の書籍全部を売り払って、突然、境川村に引き揚げて来る。 この郷里への引き上げの理由について、舵笏自身は一言も語っていない。それだけに蛇笏研究にはいくつかの推測が見られるが、やはり体が丈夫でなかったことと、家庭への責任感、家族の要請………が大きな理由に違いない。それに大きな衝撃だった虚子の俳壇引退と、青春の一種の厭世観がからみ合って、急に彼自身に田園生活へ帰ることを決断させたと思われる。 蛇笏が山峡の村へ帰るのは、たしかに宿命ではあった。苗字帯刀の家系の旧家を守るべき責任感は深く潜在していた。 それにしても当時、選ばれた者として学識を身につけ、文化の中心の空気を体一杯に吸収した青年が、学業を中途で捨てて草深い郷里へ帰る決意は、並みたいていのことではなかったろう。飯田橋を離れるときは、悲愴な心情だった。親友の若山牧水は「山の中でうずもれるのか。東京で頑張れ」と最後まで引き止めたが、彼は、手を握りしめてその好意に応えはしたが、やはり振り切って帰郷した。 蛇笏は意志の強い人である。この経緯については、ついに何事も語らなかった。その「年譜」の明治四十二年の頃に二行、そのことをしごく簡略に記しているだけだ。そして、終生、一片の愚痴ももらさなかった。 やがて、落葉踏んで人道念を完うす大江戸の町は綿々草枯るゝ などの句が、境川村小黒坂の実家で朝夕を過すことになった蛇笏の句帳に書き込まれるようになる。 現在、富国生命社員の森武臣は、蛇笏の実弟であるが、十七歳年下の彼にとって「親父がわりだった」という。この兄弟は実にしっくりと理解し合い、心の支えになり合った。が、蛇笏が東京から帰って来たころ、武臣はまだ小学生だった。                           ‘ 「兄貴は表の蔵の二階を書斎にして、そこでほとんど本を読んでいて、甲府や東京へ出るというようなことはあまりしなかった。やはり兄貴をしばったのは、土へ帰るべきだという考えだったと思う。嫂(あによめ、菊乃夫人)をもらってからは養蚕に熱心になり、ぼくらも命じられて桑を撒いたり、蚕の掃除をしたことがある」  と回想する。そして、 「私が十歳になったころのことだったか、朝顔型の蓄音機を東京から買って来た。野良仕事から帰って夜、家へ聴きに来る近所の人たちに雲右衛門の浪曲とか、呂升の義太夫、二三吉の端唄などを聴かせて喜ばせていた」 という。 二十四歳から二十七、八歳ごろへかけての、若い蛇笏の小黒坂生活が目に見えるようである。「わが敬愛する友よ」という感動的な書き出しで、昭治四十三年八月二十二日に東京市牛込柳町から若山牧水は、蛇笏あてに長い手紙を寄せている。 旅へのあこがれを書き、近く旅に出ることを予告し、そのとき境川を訪ねたい、君に逢いたいと詩のような内容の手紙である。 やがて九月初旬、辻々に山はせまりて甲斐の国 甲府の町はさびし夏の日」 ………牧水は甲府経由で境川の産廬を訪ねて来た。そして十日間、蔵二階の書斎へ泊り込んで、さらに「東京へ出ろ、文壇へ出ろ」と強硬に説得を続けた。蛇笏が俳句といわず、詩においても、また小説を書いても必らず頭角を現わす人物であることを信じての友情だった。 しかし、蛇笏はその友情にはうたれながらも、牧水の人生観に同調できず、意思を替えない。結局、牧水はむなしく帰るのだが、恋愛問題で悩みをかかえていた彼は、そのまま信州へ向い、やがて例の『幾山河越えさりゆかば 寂しさのはてなむ国ぞ けふも旅ゆく」の旅へ出ていく、蛇笏は坂の上から暗然と見送るのだが、牧水との青春の出合いは、憂いを含み、汗ばむようなロマンチシズムに彩られている。 ◇       牧水の滞在中から母屋で重態を続けていた祖母は、その三日後、「一家にいてくれ、家を守っておくれ」と、蛇笏にその手を預けながら息をひきとる。むろん家へ帰って来るときからそのつもりだ。……蛇笏の文学と生活をつらぬいている道念と人温か、そこにある。蛇笏は常にゆるぎない精神をもって生きようとした人だ。それを詩の世界で昇華させるとき、格調の高い調べを奏でる名吟佳吟となった。 ◇ 後年、蛇笏が満を持して第一句集「山廬集」を世に送り出しだのは昭和七年(1932)であったが、その時すでに若山牧水は世を去っていた。 その句集出版祝賀会の席上、あいさつに立った蛇笏は、会を催してくれた多数の詩友に謝辞をのべたが、心の中では、そこに見えない牧水の霊に対して、しみじみと陳謝した。「私の人生でもっとも悲しい涙だった」と述懐した。 ◇       「出廬集」は、むろん蛇笏文学の確立を示し、俳壇に対して声価を決定的にしたものだった。しかし、「四十七歳にして出すとは、遅かった」ことが悔やまれた。二十余年前あれほど「こんな草深いところで埋もれるのか、文壇をめざせ!」と、牧水はすすめてやまなかった、が……、彼にこそ真っ先に見てもらいたい句集だった。…… その蛇笏の涙には、東京文壇から孤立しながら、山中でひとりひたすら文学にすがり、孤独に耐えてきたわが身の苦難に対する労わりもこめられている。                                                              ◇ とにかくそうして郷里で鳴かず飛ばずの沈潜した日々を過していたが、明治四十四年(1911)、塩山の矢沢氏の長女菊乃と結婚、大正元年には長男聡一郎が生れた。そして大正三年、「ホトトギス」の仲間・長谷川零余子らから、「蛇笏が俳壇に復帰した」と、中央の消息を伝えてきた。東京を去って五年の年月が過ぎていた。早速「ホトトギス」を取り寄せてみると、同誌は俳句に重点をおき、その雑詠欄では未知の新人が活躍を始めている。 燃えかけていた作句熱が、勃然と燃えあがった。蛇笏は、虎子の例の「春風や闘志抱きて丘に立つ」に眉を上げて呼応していく。力強く足を踏み出して行く。 ◇ こうして「ホトトギス」の再興をきっかけとして、大正俳句界は新しい息吹をもって絢爛と開幕した。新傾向派に対立して立てた虚子の旗幟の下、蛇笏をはじめ渡辺水巴、前田普羅、村上鬼城、原石鼎等々、主観派が羽ばたき始める。殊に蛇笏は颯爽と、堰を切ったように独得の重厚な調べをもって充実した世界を押し拡げた。「ホトトギス・標註」の巻頭、次席を月々飾り、これから昭和七年の句集「山盧集」へかけて終生ゆるがぬ蛇笏文学は、格調高く着々と形成されたのである。繊細な感受性、濁りのない視点、山嶽のようなしっかりした姿勢をもって、後世に残る作品が、次々と生み出される。  芋の露連山影を正しうす  籠火赫っとただ秋風の妻を見る  落葉踏んで人道念を完うす  葬り入歯あらはに泣くや曼珠沙華  死病得て爪美しき火桶かな  たましひのしづかにうつる菊見かな その当初からして完ぺきな句風をもって、すぐれた句の数々、がどっと吐き出されていった。 ◇ 俳句を単に花鳥諷詠にとどめず、自然主義的、あるいは小説的材料を大胆にもちこんで、ユニークな美しさを発揮する、彼は「地方」に居る不利を撥ね飛ばして、一歩も退かなかった。◇ 大正七年(1918)、芥川竜之助は「癆(ろう)咳(せき)の頬美し今冬帽子」という句を作ったが、これは蛇笏の「死病得て……」からヒントを得たものである。そのことは竜之介の「飯田蛇笏氏」という文章でも明らかで、彼が、いかに蛇笏に傾倒していたかがわかるが、大正十二年(1923)十二月の蛇笏あての手紙の中でもそのことを芥川自身書いている。手紙による二人の交友は大正五年ごろからだったが、やがて、昭和二年(1927)の夏、蛇笏は新聞のニュースで竜之介の突然の死・自殺を知る。竜之介と蛇笏は会って話し合ったことはなかったが、親密な文通を続けていた。会おうと思えばいつでも会える……という気持ちがお互いにあった。その死は、まったく思いがけないことだった。どれほど芥川の才能を借しんだかしれない。  たましひのたとへば秋のほたるかな は、そのときの悲しみを詠ったものだ。 ◇ そのころ、「ホトトギス」は毎号、小説をのせた。虚子も書き、蛇笏も「二十目前後」「石を砕くにほひ」その他を書いているが、小宮豊隆、守山草平、近松秋江、正宗白鳥、徳田秋声、田山花袋、野上弥生子、中村星湖ら、が花々しく小説作品を寄せている。 つまり、蛇笏は小説にも詩にも、それを続ければ続けられるゆたかな才能のすべてをかけて、結局、もっとも短い文学形式・俳句によってそれを表現し、定着させようとしたのである。 そして、くろがねの秋の風鈴鴫りにけり秋風やみだれてうすき実の端おりとりてはらりとおもきすすきかな秋たつや川瀬にまじる風の音 絶唱といわれる傑作を次つぎと、中年期に生み出していく。 ◇ 山梨県境川村の蛇笏は、次第に日本俳壇の高い峰としてかくれもない存在になった。ところで、蛇笏、が生涯、心をこめて編集し、指導してきた句誌「雲母」について触れなければならない。「雲母」は、もと「キララ」という誌名で愛知県家武村で大正四年に創刊されたが、蛇笏は当初から『主選者』としてその指導に当たっている。その「キララ」の編集者長谷竜北、岡安一松等の懇請で大正七年に主幹として迎えられ「雲母」と改題、さらに大正十四年から発行所を山梨に移すようになって、「雲母」はいよいよ充実した発展を見せた。門下は全国に拡がり、雲のようにすぐれた俳人を輩出した。 第二次大戦の昭和十九年七月、甲府が空襲をうけて焼け野原となり、印刷を担当していた又新社も焼失したので休刊。敗戦後の翌年三月、東京から復刊するまでの八ヵ月間は休んだが、戦後はさらに大きな飛躍期を迎えた。 ◇ 昭和二十四年にはその四百号記念大会、昭和二十九年には創刊四十周年記念の催しを東京、大阪、甲府でそれぞれ盛大に開き、同三十四年には五百号記念俳句大会を開いた。 その間、蛇笏は「山盧集」をはじめ「霊芝」「山響集」「白嶽」「心像」「春蘭」「雲峡」の七句集を出し、「穢穢土寂光」「土の饗宴」「美と田園」「旅ゆく颯詠」その他の随単集、[俳句文学の楽園]「俳句文学の秋」「現代俳句秀作の鑑賞」その他多くの評論を出している。そして全集収載、文庫本などは一々あげきれない。その風格、重量感は常に堂々として、俳壇の指標となり、山中の境川・山盧は調べ高い正統派俳句のメッカとして昭和俳壇聳えた。しかも、そのおびただしい名句佳吟の作品群は、松尾芭蕉にじかに連なる大きな『蛇笏山脈』を形成したのである。 その俳句の強固な美しさは、しかし結局、蛇笏の風土、山梨の自然があってのことだ。 「山嶺を詠うことにおいて俳壇で私の右に出る者はない、出獄―文学。もはや身についた宿命的なものだ」……郷土にあくまで土着して生き、一歩もたじろがず、その恩恵を高々と文学に生かした確信の言葉である。そして蛇笏俳句もまた山獄のように四季のすばらしさを持って、どっしりと動かない大業績となった。 ◇ 蛇笏は終戦前後、手痛い精神的な打撃を受けた。昭和十六年六月・二男病歿、同十一月・母死去、十八年一月・父死去、十九年十二月・長男は比島レイテで戦死、二十一年には三男が外蒙で戦病死。 ……三代を生き、その最後の戦争でしたたか不幸に見舞われている。一連の愛息追悼の作品は測々(そうそう)として悲傷を伝えてやまないが、しかし、蛇笏はひとことも口に出して、その嘆きを語らなかった。頑として無言で、それに耐え続けた。精神に、みごとな節度が光っている。 すぐれた作家は剛直である。蛇笏もその稀有の一人だが、その剛直さは、ふっと匂うようだ。そしてほのぼのとしたあたたかさを持っている。 ◇ 昭和三十一年 炎天を槍のごとくに涼気過ぐ おく霜を照る目静かに忘れけり 等の傑作を収録した句集「家郷の霧」を出した、が、そのころから時々健康の不調を自覚するようになり、ついに昭和三十六年(1963)四月末から腹部大動脈瘤併発のため病床についた。 昭和三十七年、一年余の病床生活ですでに体力は極度に衰えていた、が、大きな発作に襲われ昏睡におちいる二日前の七月一日、子息龍太に背中を支えられ、体を斜めに起して色紙をしたためた。  いち早く目暮るゝ蝉の鳴きにけり はからずもこの句が、筆書きの絶筆となった。 死を予想し、静かに死をみつめている「いち早く……」にこめられた万感、巨匠の七十今年の年月とて一瞬の出来事だったに違いない。 やがて小康をとり戻すと、枕もとの句帳へ鉛筆を走らせる、文字はクチャクチャで判読に苦しむほどであっても、なお蛇笏は俳句を手許に引寄せようとする。日常の生活でもそうであったが、蛇笏は他所見のできない人であった。少しでも自然とこころのそよぎを自分の詩型に練り込もうと、全身の力をこめて心魂を煩ける。俳句に志して以来の心の姿勢が絶えずそうであったが、死の床においてもその執念は少しも衰えなかった。最後の最後まで、柔軟な感性と格調をもち続けて、絶唱を続けた。  竹落葉午後の日幽みそめにげり  藪高木鴉(からす)がとびて山に月  ゆく水に紅葉をいそぐ山祠  金扇の雲浮かしたる冬の翳(かげ) そして、次の句で七十年間、そのためにこそ生まれてきたように、吐露され続けた蛇笏の句作はピリオドを打つ。その句境は、宗教的世界にまで高められている。  誰彼もあらず一天自尊の秋 しかし、深い昏睡状態の中でも、巨匠の手は宙をまさぐり、ちょっと手首を筆持つあんばいに曲げて、なおかつ、何かを書き止めようとする仕草をやめなかった。…… 昭和三十七年十月三日午後九時十三分。蛇笏は、家郷・境川村小黒板の山盧で静かに永眠した。七十七歳。流れていく水のように静かな、大往生であった。うたかたの肩書きなどは一切不用、俳句十七文字ひとすじに執念して、生き抜いた生涯であった。同月六日の自宅での葬儀には全国から多くの俳壇、雲母の人々、そして井伏鱒二、三好達治、中村星湖、木俣修ら多くの知友も参列し、山盧を菊の香りで埋め尽した。 故人は晩年、ことに椿を好んだ。戒名は、 真観院悟道椿花蛇笏居士 死の一カ月半ばかり前、近づく死を承知した蛇笏は「真観院悟道椿花蛇笏居士」と戒名の下の半分を自分で決めて実弟・森武臣に示し、上の方は憎職に委ねておいた。 翌年三十八年十月三日、全国の俳人、知友によって甲府市・舞鶴城跡の山梨の山々がそのまま見渡せる場所に、芋の露連山影を正しうすの句を刻んだ文学俳が立てられた。

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