カテゴリ:著名人紹介
山梨県の著名人 日向方齊氏(西八代郡久那土村車田出身) 今、故郷のために尽くす 関西経済連合会名誉会長 住友金属(株)名誉会長 (『ザ山梨 武田信玄と甲斐路』読売新聞社編 昭和62年 一部加筆) 地元の尋常高等小学校を卒業後、すぐ横須賀の海軍工廠で働くために山梨を離れたのは十四歳の時である。もう、三分の二世紀も前のことになる。 郷里は西八代郡久那土村車田で、現在は武田信玄の隠し湯で有名な下部温泉のある下部町に編入されている。車田は峡南と呼ばれる地域で、山梨県を南に流れる富士川の峡谷地帯で四方を山に囲まれている。平地が少ないうえに寒暖の差が激しい、 いわゆる寒村である。 当時は、私の村から甲府に出るには三里程歩して富士川を渡り、鰍沢からは鉄道馬車で二時間ぐらいかけて行かなければならなかった。身延――甲府間に鉄道が開通したのは私が東京大学に入学したころである。 遠出といってもせいぜい日帰りの修学旅行で下部温泉や鰍沢に出かけたくらいである。思い出に残る景色といえば、四尾連湖。遠足で一度行ったきりだが、御坂山地が富士川に落ちる西端、蛾ヶ岳の山懐に抱かれたその神秘的な姿に深い感銘を覚えた。 子供のころの食べ物はふだんの主食が麦飯、米のご飯は祝日だけ、たまに町から買ってきてもらう塩鮭が何よりのごちそうだった。また、冬、炉端でつつく″ほうとう″は母の味であり、飽の″煮貝〃も好物であった。 こんな不便な車田の集落には、七、八十戸が身を寄せ合うように立ち並んでいた。今からみると、いかにも貧しい生活と思われるが、当時の車田ではみな似たようなもので、これといって苦労したという記憶はない。家計の足しにと、休日にはよく裏山の木を切り出してまきをつくり、隣村まで売りに出かけたものだが、これも校庭の二宮金次郎の銅像を気取ったりしてむしろ楽しい思い出であった。 村は豊かとは言えなかったが、教育、文化には熱心だったと思う。大人同士で短歌の会をつくったり、子供の間でも車田文芸会などと称し、月一回作文、習字、絵などを書き、それを先生に添削指導をしてもらっていた。 小学校は久那土尋常高等小学校。同級生は男二十五人、女二十人で一学年一学級の小さな学校であった。私はここで生涯の教えを得ることになる。 校長先生は古明地文吉先生で、まだ二十歳そこそこであったと思うが、非常に卓見に富んだ人格者であった。毎週一回の朝礼で、「日本は日露戦争に勝ったけれども、たくさんのお金を外国から借りている。これを百円札にして積み上げてみる と、富士山の何倍にもなり、横につなぐと地球を何回もまわれる。だから、みなさんは大きくなったら、このお金を返せるよう、お国のために一生懸命働いてください」と、 いつも同じお話を繰り返された。″お国のために尽くす″という教えは、のちに私が大学卒業後に就職した住友の″事業を通じて国家社会に貢献する″という理念と同じであった。 最近、私が関西経済連合会会長として、全力を尽くして実現にこぎつけた関西新空港の建設や、関西文化学術研究都市など二十一世紀に向けて日本の繁栄の基盤となる国家的大事業の推進にあたっても、この教えは大きな励ましとなった。 「三つ子の魂百までも」というが、″お国のために尽くす″という小学校の校長先生から受けた教えは、長年にわたる事業や財界活動を通じて、いつまでも心の支えとして私の中で生き続けている。 私は郷里に帰るたびに校長先生のお墓に参り、「先生、少しはお国のためにがんばっています」と心の中で報告している。 このような精神的支えとともに、山梨県から受けた奨学金も終生忘れられない。私は横須賀に出た後、働きながら高等学校の入学資格試験に合格し、東京高校、東大へと進んだ。その間、経済的に最も苦しかった高校から大学にかけての四年間、山梨県からいただいた年間三百円の奨学金は私にとって天の助けであった。 今日、私がまがりなりにも国家、社会のためにお役に立つことができるのも、このような郷里、山梨県から受けた物心両面にわたる支えがあったからである。私は知事の望月さんとも懇意にさせていただいている。時々、県の経済政策などについて相談にあずかったりしており、昭和五十四年には県から県政特別功労者に推挙していただいた。これから少しでも山梨県にご恩をお返しするために、県の発展に微力ながら尽くしていきたいと思う。
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最終更新日
2020年12月29日 19時41分09秒
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