カテゴリ:甲斐駒ケ岳資料室
南アルブスの先縦者 明治・大正時代 百瀬舜太郎『現在登山全集』「北岳 甲斐駒 赤石」 昭和36年 創元新社刊 一部加筆 山梨 山口素堂資料室
明治の新思潮は、単独でも実行しうる、極めて自由な運動として登山の気風を発生させた。 日本におけるいわゆる西欧風な登山は、いうまでもなく英人牧師ウォルター・ウェストン氏によってもたらされたが、その前にふれておきたいのは、明治二年に芦安村の名取直江氏が官許をえて同四年に独力で白根登山道をひらき、甲斐ガ根神社の本宮、中宮、前官を建立したが、登山者がなく間もなく荒廃したということと、明治一九年敬神講の先達堀本丈吉という人が、赤石、荒川、悪沢の三山に大河原から道をひらいて(荒川開闢記)同三四、五年ころまで講中が相当に登山したということである。 これらに対して明治一二年には赤石岳に内務省地理局が測量柱を建て、一五年には横山又次郎博士の地質調査隊が信州戸台から入って野呂川を下って奈良田に出ており、一七年には同隊の中島謙造氏が御座石から鳳凰山に登り、さらに雨畑から小河内へ越し赤石岳から大井川へ降りてさらに千頭から遠山郷にでている。 陸地測量部が赤石岳と駒ガ岳に一等三角点をもうけたのは明治二二年であった。 この明治の中頃からしだいに探換や学術研究の登山の時代に進んで来たのだが、「日本アルプスの登山と探検」や「極東のプレイグラウンド」を著したウェストン師は明治二五年大河原より赤石に登り、同三五年芦安村から枚立峠、広河原をへて北岳へ、三六年には台ガ原から駒ガ岳へ、三七年には芦安から鳳凰山、広河原をへて北岳、間ノ岳を往復し、野呂川を遡行して大仙丈沢より仙丈岳、戸台のコースをとった。このとき地蔵仏岩の初登攀を行なったのは有名であるが、これと前後して甲府市三吉町にあった天主教公会の牧師仏人ドルワルド氏が毎夏、白根大樺池畔の小屋で昆虫採集をしていたことは余り知られていない。 日本山岳会が創立されたのは、明治三八年、南アルプスが登山のための登山をこころみる人びとの洗礼をうけたのもこの前後である。 これ以降幾多の記録がこの会の発起人や初期の会員である、 小島鳥水、 高頭仁兵衛、 辻本清丸、 荻原音丸、 武田久吉、 梅沢親光、 鳥山悌成、 倉橋藤次郎、 岡野金次郎、 高野鷹蔵、 鵜殿正雄、 中村清太郎、 茨木猪之吉 等の諸氏によってはじめられていったことは会誌「山岳」にくわしくのせられており、地元店人では石塚末書氏が植物採集の目的をもって北岳を往復したのが三九年、白根三山の縦走をこころみたのが四〇年である。大正に入るとたんなる登山でなく、縦走から渓谷探検となって冠松次郎氏の名前も見え、山岳にたいする観点も思想的に変遷して一般にも山岳会の誕生をみるようになり、特に大学山岳部は積雪期の登山や岩登りなどの記録的登山を行なうようになってきた。
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最終更新日
2020年12月31日 20時05分21秒
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