カテゴリ:山梨県俳句資料室
典型形成への過程 飯田蛇笏の大正期 丸山哲郎氏著
『俳句』昭和53年5月号』角川書店 大正秀句観賞 丸山哲郎氏著 一部加筆 山梨県歴史文学館
飯田蛇笏の大正期は、家庭的には長男の誕生、俳句的(俳壇的)には高浜虚子の俳壇復帰をもって始まった。 虚子の俳壇復帰は大正元年初夏のことであるが、このことを蛇笏が知ったのは、その年の 暮近く、長谷川零余子からの通報によってであった。マスコミの発達した現代の感覚からすれば、少々間のびのした感じがするが、大正初年という年代と、蛇笏が甲州の山中に逼塞していた事情を考え併せると無理からぬ事実と肯けよう。 新傾向俳句の瀰漫を望見しつつ切歯して雌伏に耐えていた蛇笏が、虚子の俳壇復帰を知っていかに強い衝撃をうけたか想像に難くないが、しばらく「ホトトギス」を離れていた間に、普羅、石鼎、鬼城といった未知の新人の台頭していたことも蛇笏の闘志を刺戟するに足るものであった。早速上京して虚子を訪ねた蛇笏の行動には心身の躍動が感じられる。
或る夜月に富士大形の寒さかな
蛇笏は大正二年から[ホトトギス]雑詠への投句を開始したが、几帳面な性格に似ず、この年休詠が多かったのは、その頃体調必ずしもすぐれず、わけて眼疾に悩んでいたからである。 大正二年十二月号に雑詠の次席を得ていた蛇笏は、翌三年三月号でついに巻頭を占めた。この句はその巻頭作の一つである。 地形的に境川村の山腹から富士は見えないので、甲府あたりからの帰り道での作とするのが常識的な一般の見方であり、私もこれに同調する。また甲州から眺める富士は裏富士であり、すでに新雪をかぶった富士が月光を逆光として聳える場合、まさに「大形」であるに違いない。生涯を通じて大景大観の描写に秀で、時にはカオス的表現をも試みた蛇笏作品の萌芽を、この「富士大形」という表現に窺うことが出来る。 故人角川源義氏は、この句を酔余帰還の作とみるのも一興とする見方を呈出しているが(桜楓社版『飯田蛇笏』鑑賞篇)、たしかに「富士大形」には若干のユーモアが感じられる。
芋の露連山影を正しうす
大正三年十一月から連続五回、大正三、四年にまたがる一年間に実に八回、「ホトトギス」の巻頭を蛇笏が占めたという事実は、唯々驚きと感歎以外の何ものでもない。当時全国を席巻する勢いであった新傾向俳句と対峙して、大正初期というのは、伝統俳句にとってまさに累卵の時代であり、しかもこの危機を強力に支えたものが、僅か七十余人に過ぎぬ「ホトトギス」雑詠の投句者達であったという事実を、吾々はしっかり脳裡に刻んでおくべきであろう。云ってみればそれは近代俳句の神話期とでも云うべきものであったように想像される。 この句は大正三年十一月の巻頭句であり、蛇笏初期の代表作としてゆるぎない貨録をもつ。すでに山本健吉氏ほか多くのすぐれた鑑賞文がある。不安定な前景を句首に据え、配するに、清浄澄明な秋気の中にたたなはる連山の遠景を以て構成された一句は、「正しうす」という強い作者の主観的な断定を以て、読者の感興を粛然と固定する。大景を叙しながら、劃然と截断された明晰な自然描写から、無類の格調が生れる。またこの句には、すでにはっきりと蛇笏調の確立が見られると共に、後年に於いて形成される、作品典型の原型をも匂わせている。
竈火赫つとたゞ秋風の妻を見る
この句も前句と同じ号の巻頭作の一つである。すでに近代俳句の古典化しつつある、これら一連の作品を眺めていると、作者も作者ならば、選者も選者という啐啄の見事さに打たれる。虚子という人はやはり偉大な作家であると同時に偉大な選者であったことをつくづく思わせられる。しかも前述の如き当時の俳壇の状況を想い併せ るとき、「進行べき俳句の道」を掲げ、客観を根底とする主観句の昂揚を以て、新傾向俳句に立ち向った虚子の心底が瞭らかに観取出来る。しかも虚子を支持した蛇笏をはじめ、石鼎、普羅等いずれもそれぞれに多情多感の作家達であっか。 この頃蛇笏の作品には妻を詠んだものが散見する。
埋火に妻や花月の情にぶし 妻織れどぐるはしき眼や花柘榴 妻激して口蒼し枇杷の花にたつ
新婚の妻を見る蛇笏の眼は円満と温情を欠き、自然主義的ですらある。当時飯旧家は蛇笏の両親が健在であり、多くの弟妹が同居して大家族であった。しかも名字帯刀の名残をのこす男尊の家系であってみれば、おのずから家庭における若妻の位置は著しく限定されざるを得ない。この複雑な事実を作者の自註の一文が物語る。
山郷の晩景。「農となって郷国ひろし柿の秋」と詠じ、その実、 真の農たり得ない夫の心境は、つれそう妻をさえ秋風の中に一片 の落葉か何ぞのように眺めやった。生活の中に躬みづからをおと した表現。(「自註五十句抄」)
とはっきり記している。句は冒頭いきなり烈しい火色を直写して作者の心裡をもほのめかせ乍ら、ただ秋風裡の妻の姿態と冷徹にこれを見る作者を描くのみ。愛怨、愛憎も、憐愗、嫌厭も一切の感情を省いて読者の想像に委ねるものの、何やらただならぬ夫婦の交情を暗示せしめる。そしてそこから、おそらく作者の意図とは裏腹に、この句の浪漫性が泉のごとく流露している。
山国の虚空日わたる冬至かな
大正期の蛇笏の作品には、例えば
山寺の扉に雲あそぶ彼岸かな 一鷹を生む山風や蕨のぶ 八山風にながれてとほき雲雀かな
の如き洵に長閑な山村風景を詠んだものが見られる反面、この句はまた、きりきりと引きしぼられた弦の如き緊張感を漂わせている。これは枯草の上に寝転んで眺めた風景ではなく、作者は羽織袴で端坐するか直立して郷土の自然と向き合っている。少なくとも私にはそう感じられる。長閑な句はあくまでも長閑に、厳粛な句はあくまでも厳粛に、徹底した対極的な作句姿勢というのが蛇笏の青春俳句の一つの特徴と云えないだろうか。 緊密に語句を配置して、朝夕見馴れた郷土の山河を、これまで荘重に詠い上げるというのは、やはり非凡な俳人の業に違いない。
雪晴れてわが冬帽の蒼さかな
「富士大形」の句が甲府から山腹へ向けての帰路途上の作ならば、この句はおそらく山腹から甲府あるいは東京方面へ出かける出立の句であろうと思われる。雪後の好晴、光線の乱反射は人の心を明るく拡散せしめる働きがある。蛇笏も人間、例外ではない。この句にはそうした蛇笏の心理を映発する弾みがある。 山村生活では、近傍を散歩するにしても、村の集会に出かけるにしても、居常そうそう無雑作に帽子を被ることはまず考えられない。私には、「さあ、いまから出かけるぞ」とやや気負った蛇笏が、境川村の坂道を閑歩して降る姿勢が想像されてならない。蛇笏は元来お洒落であったようだ。戦後何度か関西の地を踏んだが、空路西下の場合など、仕立おろしのような駱駝色のオーバーの裾をひるがえして、颯爽と飛行機のタラップをおりて来るのが常であり、気骨の風貌と相僕って、まさにベストドレッサーの概があった。 わが冬帽を蒼しと、感じた鋭い感覚とともにこの句には容易に古ぶことなき若さと新鮮さがある。 大正四年一月号の巻頭作品で、句柄 はむしろ単純と云えようが感覚の新しさから云えば、当時の豊羅、石鼎よりも一歩も二歩もぬきんでていたことが納得できる。
霜どけのささやきをきく猟夫かな
この句は地味な作品で、従来余り注目されなかったように思う。 しかし一句に龍られ繊細微妙な情感は読者をしてともに心耳を澄ましめずには措かない。実際に霜どけのささやきを聴いたのは作者その人であったろうが、これを猟夫と置き替えたために、この句には一種複雑な屈折が生れた。山野に獣類を追う殺伐非情の猟夫がふと足を停めて、林間にかすかにひびき合う霜どけのささやきに、一瞬耳を傾けた姿を眼ざとい作者は見逃さなかった。玄微な自然の摂理とその対極にある人間との対照から生れた、一つの美的真実とでも云おうか。
死病得て爪うつくしき火桶かな
大正初期の蛇笏の作品には劇的な内容のものが多い。これは蛇笏の青春俳句の一つの特徴といえるだろう。小説家として立つ志すらもったことがあり、事実幾つかの短篇小説をものこしており、随筆のたぐいにも小説的な内容のものが多い。人事の機微を衡きながら妖艶な美的世界の構成に関心があったことは否めない。虚構の中に美的真実を探ろうとした志向は、歴然たる日常の現実をも劇的に観劇的に構えようとする傾向を示した。この二つの著しい傾向の粉淆から生れた珠玉の作品も一、二にとどまらない。この「死病得て」の句のごときはその代表作のひとつと云えよう。 芥川龍之介が激賞したというこの句、現実離叛のした艶麗さの中に、たにやら虚構の脆さを蔵しないではないものの、その脆さを支えるものは、「死病得て」の哀感よりも、更に濃密に一句を覆う「爪うつくしき」の美感美意識に他ならない。 芥川は蛇笏のこの幻境を剽窃して「郷翫の頬美しや冬帽子」と詠つたが、爪といい、頬といい、部分を示して全体の美を彷彿せしめる俳句的表現が、過剰な情感を適度に抑制した蛇笏の知的な操作と相まつて一層この句の完成度が高められたと云えるだろう。
落葉踏んで人道念を全うす
この句、蛇笏初期の代表作の一つであるが、問題がない訳でもない。他でもない、それは「人」が蛇笏その人を意味するか否かといらこと。例えば角川原義説は蛇笏その人の説であって、
つぶらなる汝が眼吻はなん露の秋
といった蛇笏は、この句では想念の世界に苦悩している。愛すべからざる人への愛の執念 を断ち得ずにいるか、或いは人間の行為として許しがたきことを企てることへの反省に苦しんでいる。おそらくは前者であろうが、それが激しい行動性をおびようとする自分をもてあましているのだ。 落ち葉の山林を踏み歩いて……(以下略)(「桜楓社版『飯田蛇笏』鑑賞編」と作品の前提に重きを置いてはっきり断定しているものの、「この句、人とあるが、他人であっても、自分であってもいい。とにかく人間蛇笏の告白になっている、」と曖昧になっている。 また、例えば飯田龍太(子息)説はこうだ。
「人」という言葉から蛇笏その人のような印象を受けて、今までこの作品を鑑賞してきたわけです。しかし果してそれで正しい かどうかということになると、ちょっと問題があるんではないか。蛇笏はその当時三十幾つかですから全うするわけではない。また全うせねばならんという強い裏付けが、この表現の中にあるとは言い切れない。成程「人」は、自分を含めての人という解釈も成り立ちますが、恐らくこの作品を作った時は、かなり素材的な要 素が強かったんではなかったか。兎も角「われ道念を全うす」というのと「人道念を全うす」とが、まるっきり同じだという鑑賞の仕方には、一寸食い違いがあるんではないか……(以下略)(実業之日本社版『龍太俳句作法』)
大事なところなので引用が長くなったが、これははっきり後者の説。
これを要するに、
「人」は蛇笏その人をさすという説(1)。 「人」は一般人をさすという説(2)。 「人」は蛇笏を含めて一般人をさすという説(3)。
の三つに分けることが出来る。 私は最初から漠然と(2)の説からこの句に親しんで来たけれども、蛇笏自身が何等かの思索的な体験を踏まえて「人」という一般的な措辞を用いたのではないかという思いが強い。 ともあれ、歩くということは思索を深め思索を整えるもの。西田幾太郎は京都大学で哲学を講ずるとき、常に教壇の上を「ゆきつもどりつ」して訥々と一語また一語、説きがたきを説き、語りがたきを語ったという。 私はこの句を読むたびに、思想的な内容は異なるけれども、碧巌録の次の一句を想起する。
始めに芳草に従って去り また落花を逐うて遣る 帑栗の色にうたれし四方のけしき哉
前述した「霜どけ」の句と同様にこの句も従来余り評釈や鑑賞の俎上にのぼることはなかった。罌粟の花色の放つ一種の妖気にうたれて、周辺の風物が常とは異状に眺められると感じ取った鋭敏な感覚は蛇笏独特のもので、凡に見すごしてはならぬ一作と考える。 問題はこの花の色を何色と考えるかである。安東次男氏は紫か白を適当とし、絞りや紅を排しているのも肯ける。いずれにせよこの場合色は単色でなければならず、時間は、空気にまだ幾らかしめりの残る午前と考えたい。
三伏の月の穢れに鳴く荒鵜かな
もし仮に、大正期の蛇笏作品の中より、最高の一句を呈示せよと求められるとすれば、私は躊躇なくこの句を選ぶ。私個人の好尚を強調することは慎みたいが、従来この句が余り高く評価されず、鑑賞されないことに私は永く不満を感じ続けて来た。 私が面を冒してこの句を賞揚して止まない理由は簡単である。それは表現の完璧さにある。しかもこの一句の内包している世界はそうそう単純透明なものではない。やりきれぬ極暑の宵、天象人文ともに濁りよどんだ中で、声をしぼって鳴きやまぬ荒鵜のすさまじさ。 「三伏の」とおほらかな発想をうけて、「月の穢れ」とうけた僅か四音三字の絶妙の表現。ここに呈示された天地を包むカオスの世界は、原始混沌の量感を蔵して不気味でさえある。 因に、安東次男氏の言葉を借りよう。「月の機」とは絶妙である。古今を通じてこの作者にしかいい えない表現であろう。(中公文庫『日本の詩歌』19) 研ぎすまされた語感の持主のみがよくする表現、俳句描写の極致を示すものと云えば、この際過褒に失するであろうか。 数多い蛇笏全作を通じても、五指を屈するに足る秀作であることを私は断言して憚らない。大正六年の作である。 このあと大正後半期の蛇笏の作品には前半期のごとき華麗さがなくなり、膛目すべき秀作も減っている。年齢的にも三十代の半ばにかかり、作品の青春性が薄れ、劇的な素材が影をひそめる。主観的主詩的に人事人文へ向けられた関心が自然実相への参入を志向しはじめるのである。 かくて、外面的には低迷沈滞とも見える約十年の後、蛇笏の作品は昭和初年に至ってついに一つの典型を形成する。大正初年に「ホトトギス」雑詠を独占して蛇笏調を確立して以来、風霜を経ること十五年。作品は時に神韻をおびて自在の天地を展開する。
をりとりてはらりとおもきすすきかな 秋たつや川瀬にまじる風のおと くろがねの秋の風鈴鳴りにけり
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最終更新日
2021年01月20日 01時15分17秒
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