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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年02月14日
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カテゴリ:著名人紹介

メディア時代の先行者・鳥井信治郎

 

中央公論『歴史と人物』昭和58年発行

10 特集 転換期をのりきった企業家の決断11

   杉森久英氏著 (作家)

 一部加筆 山梨県歴史文学館

 

来たるべき洋風化時代を見通して、

日本で初めて国産ウイスキーの製造に成功した企業家

   

薬品問屋での奉公‐

 

 鳥井信治郎は数え年十四のとき、大阪道修町の薬種問屋小西儀助商店へ丁稚奉公に入った。明治二十五年のことである。日清戦争の前々年だった。

 小西儀助商店は道修町でも大店である。寄らば大樹の陰というし、また大処には大きな風が吹くともいう。はじめ大きな店へ入ったことが、彼が大きく伸びるのに役立ったといえるだろう。

 この商店は薬種問屋だが、洋酒も売っていた。当時の常識では、洋酒は薬品の一種だった。葡萄酒、ブランデー、ウイスキーなどの洋酒は、ただ美味なだけでなく、食欲を増進し、根気を養い、体力を充実させる貴重薬と考えられた。だから、酒屋でなく、薬屋で売っていたのである。

 薬品は各種を調合ずることによって効能を倍加させる。洋酒も調合することによって効能を増し、さらに風味を増す。これをブレンドという。鳥井信治郎はこの店でブレンドの技術を身につけた。これが後年、彼がウイスキーを醸造し、売り出すときの有力な武器になった

 なお、小西儀助商店では、明治十七年からアサヒビールというものを造っていたが、何年か後に、権利を他へ売り渡した。これがのちに大阪ビールになり、今日の朝日ビールになった。つまりこの店は朝刊ビール誕生の地でもある。

鳥井信治郎はすでに小僧時代から、ビールというものを身近に見て、親しんでいたのである。後年彼がビールに挑戦する気になったのを、そのころの記憶が土壌となっていたといっていいだろう。海岸で育って、小さいころから舟を見ていた子供が舟乗りになり、山で育った子が猟師になるように、ビールを作っていた店で育った男が、ビール醸造を志すのは、きわめ

て自然な成り行きであった。

 鳥井信治郎が独立して自分の店、鳥井商店を待ったのは、数え年二十一のときだった。壮年の徒弟生活ののちである。

そのころの鳥井商店が扱った品は、葡萄酒と罐詰類だった。この頃の彼は、後年のように、自分の工場で醸造したのでなく、アルコールに砂糖、香料などを混合して、葡萄酒に近い風味を出していた。そのころの日本で、舶来の葡萄酒といって売られていたのは、多くこの種のものだった。

 この葡萄酒の得意先は、主として西区川口町の中国人商人だった。ちようど日清戦役直後の、対支貿易好転の時期に当り、注文が殺到して、応じきれなかった。

 商売は順調に発展した。南区安堂寺橋通り二丁目に、間口四間の店を持ち、店員も何人か使うようになったのは、創業以来三年目の明治三十五年だった。急速な発展ぶりである。

 信治郎が小西儀助商店に奉公していたころ、近所に荻野という紙屋があって、彼は仕事の暇なとき、よく遊びにいった。その荻野の姉が、神戸で洋酒の輸入商をやっているセレースというスペイン人の妻だったので、彼はその家へも遊びにゆき、親しくなった。彼はその家で本場の葡萄酒について、いろいろの知識を得、また西洋風のエチケットや、飲食物の嗜好を養うことができた。

 はじめ彼はセレースを通じて、スペインの優良葡萄酒を買い入れ、罐詰めにして売り出したが、あまり売れ行きがよくなかった。本場の物の風味に、日本人の舌がなじまないのである。彼はさまざまの甘味剤や香料を使って、どうやら日本人の好みに合った風味のものを作り出すと、これに「向獅子印」という名をつけて、新しく売り出した。今日サントリーの商標になっている。向いあった二匹のライオンの図案は、この時にはじまるのである。そして、店名も寿屋と改めた。

 

  「赤玉ポートワイン」の発売

 

しかし、向獅子印の売れ行きも、それほどではなかった。彼はもう一種、新しい製品を売り出して、運を試そうとした。

そのころ日本の葡萄酒で一番売れていたのは、東京の蜂印香竄(こうざん)葡萄酒だった。

鳥井信治郎はこれに対抗意識を燃やし、なんとかして追い抜こうと、知恵を絞った。                   

ある日、披はフランスから輸入された香水を一個買った。その瓶のラベルの隅っこに、小さな赤丸がっいているのが、彼の目を射た。

 ・…・これや!・…・

 日本は太陽の国である。日露戦争に勝って、意気盛んな日本人にとって、真赤な日の丸ほど、勇ましく、なつかしく、誇らしい物はない。そこで彼は葡萄酒の名前を「赤玉ポートワイン」とし、赤い丸を商標にして華々しい宣伝戦に乗り出した。

 そのころの日本は、宣伝については未開国であった。商品は実質で売るもので、内容の乏しいものを宣伝で売るのは邪道だという観念が強かった。しかし、信治郎にとって、宣伝はこれから厳しい競争に勝ち抜くための有力な武器であった。彼かはじめて新聞広告を試みたのは、明治四十一年のことだったが、そこにはただ、店名のほかに、

 「洋酒問屋」

 「自家醸遺品は特に割引仕候」。

 とあるだけで、宣伝文句らしいものは全くなかった。それでも同業の者が、「たかが葡萄酒を売り出すくらいで、新聞広告などしていたら、店がつぶれてしまうがな」

 と嘲笑った。

 しかし、彼はこれから宣伝の時代だと見通しをつけていた。彼は毎年正月、得意先へ配るカレンダーを作るにも、自分で額縁屋へいって、泰西名画の風景画を一枚選ぶだけの熱心さを持っていた。

 彼は朝日、毎日、読売はもちろん、地方新聞三十紙くらいには必ず目を通し、特に広告面に注意した。

 明治四十三年の初夏のある夕方、大阪安楽寺通りの寿屋の前に、赤と黒で「赤玉ポートワイン」と書いた五尺ばかりの角アンドン(行燈)が三十個ばかり並んだ。やがてそれに灯が入ると、「寿屋」と染め抜いたハッピの若者が、一本ずつかついで、夕涼みの町へ繰り出した。アンドン(行燈)のサンドイッチマンというところで、後には珍しくなくなったが、はじめは目新らしい試みだった。

 

口コミの利用

 

火事も宣伝に絶好の機会だった。ジャンと半鐘が鳴ると、彼は飛び起きて、若い社員に赤玉の印を染めた提灯を持たせ、現場へ急いだ。どこの火事場でも赤玉の提灯が一番早く着くというので大評判になった。

 バーやカフェーが盛んになる前は、花柳界が人の集まるところだった。鳥井信治郎もこの世界のことは隅々まで知っている方である。芸者たちの間では、月のさわりのことを「日の丸」という隠語で呼ぶ習慣があった。あるとき、信治郎は姐さん株を呼び集めると、莫大なチップをはずんで、

「こんどから、赤玉と言うとくれやす」

 と頼んだ。この言葉はまもなく大阪じゆうの花柳界に弘まった。

 広告の天才といわれた片岡敏郎が寿屋へ入社したのは、大正八年だった。彼はそれまで森永ミルクキャラメルの宣伝部長として、新鮮な感覚で世間の注目を集めていたが、寿屋に引き抜かれたのである。彼はそれまで百五十円の月給を取っていたが、寿屋は一躍倍の三百円出した。百円の月給取りが高給取りとして、人に羨まれたころの三百円である。

 片岡は入社に当って、条件をつけた。

それは、事広告に関しては、社長といえども干渉することを許さない。ということだった。傲慢なやり方だが、ふだん社内で独裁的に振舞っていた鳥井信治郎が、ふしぎにこの申し入れだけは、無条件に受入れた。

 片岡の前に、井上木它(もくだ)という男が宣伝を担当していた。井上は図案家で、片岡

は文案を作る方である。井上の方が先輩ないのだけれど、まもなく片岡が追い越して、井上をアゴで使った。広告を作るときは、まず井上が画を描き、片岡がそれに讃をつけるような形で、文案を練った。

 片岡は時々、人の意表を衝くような広告を作った。あるとき彼は、古くなった新聞の社会欄を一ページ丸ごと印刷して、その上へ子供がいたずら書きでもしたかのように、へたくそな宇で、墨くろぐろと、「赤玉ポートワイン」とぬたくらせた。新聞記事を地模様に使ったのである。世間は彼の奇想に驚き、広告としての効果は上ったが、新聞社の内部から苦情が出て、一回だけでやめになった。

 片岡の着想で成功したものに、遊廓看板がある。白地の遊廓引きの軒吊り看板で、左肩に赤玉の模様を入れ、その下に「美味、滋養、葡萄酒、赤玉ポートワイン」、と黒く横に入れたもので、遊廓の艶々した地肌に、赤と黒との対照が鮮かだった。寿屋はこれを四万枚作ると、日本じゆうの小売店の軒に吊らせた。

 そのために、サイドカーを四台買い入れ、軍服に似た服装に革ゲートルの社員を乗り込ませて、全国へ派遣し、一軒一軒打ちつけさせた。なかなか賑やかなやり方で、それだけで人目を惹いた。

 最初は片岡敏郎自身もこの服装で、サイドカーに乗り、打ちつけて歩いたが、ただ乗り回すだけでもつまらないと、赤玉の宣伝ビラを刷り、走りながらバラまいた。その中へは赤玉ポートワインの引換券を混ぜておいた。

 そのうち、巡回の場所を選ぶようになり、神社仏閣の祭礼とか、縁日、行事など人の多く集まる日時と場所を調べて狙い打ちした。

   

赤玉楽劇団のプリマ・ドンナ

 

寿屋の宣伝のうち、一番風変りなのは、赤玉楽劇団であろう。第一次世界大戦のあと、日本中を風扉した平和ムードの中に、オペラが流行し、清水金太郎、田谷力三などの歌手が人気者になった。関西でも小林一三が宝塚で少女歌劇をはじめて、評判になったので、寿屋で

もひとつ、宣伝のために歌劇団を持とうという話か持ち上がった。ハイカラ趣味の鳥井信治郎や、変ったことの好きな片岡敏郎らしい思い付きである。

 たまたま、上野の音楽学校長某の息子が喜劇役者曾我廼家(そがのや)五九郎の愛人花園百合子と恋に陥り、大阪へ逃避行をきめこんで、寿屋の秘書の児玉基治を頼って来たのを機会に、二人を中心にして、赤玉の宣伝劇団を作る話が具体化した。

 劇団は杉寛、花園百合子、秋月正夫、松島美栄子、河合澄子など、当時の人気俳優を集めて作られ、東京の有楽座で華華しく旗揚げ興行をしたのち、全国を打って回って、赤玉の販売店主や顧客を招待した。

 この劇団の評判はなかなかよくて、商業劇団としても成り立ちそうな勢を見せたが、おきまりの内部の勢力争いなどのごたごたが起きて、解散することになった。鳥井信治郎はこの劇団に愛着を待って、なんとか存続できるようにと、骨を折ったが、大勢に抗することができず、とうとう手放した。

 鳥井信治郎はのちにこう言っている。

 「葡萄酒にしろ、ウイスキーにしろ、もともと外国から来たもので、日本人に好かれるには、異国情緒といった雰囲気を漂わせていなければならない。その点、オペラとかオペレッタとかいうものは、日本人のハイカラ趣味に合致して、将来性があるから、これを赤玉の宣伝に使うと、感覚的にピッタリだと思ったのです」

 企業家はいつも、時代の動きと人心の向うところに注目を怠ってはならないが、わけても酒という浮動性の多い、気まぐれな商品を扱うときは、世間の好尚に対する鋭い感覚が必要である。鳥井信治郎という人は、そういう点では酒商人になるために生まれて来たような人であった。

 

   画期的なポスター

 

赤玉楽劇団には思わぬ副産物があった。劇団のプリマ・ドンナ松島美栄子は初々しく、汚れのない、清純そのものといった印象の少女だったが、片岡敏郎が彼女に目をつけて、ヌード写真のポスターに起用したのである。ヌードといったって、今日から見れば他愛ないもので、上半身どころか、乳房も出さず、ただふっくらした胸と、首筋と、肩のあたりを出しただけで、赤玉のグラスを手にして、にっこり笑っているという写真だが、その無垢な、初々しい微笑がほのかなエロチシズムを漂わせて、全国の若者の心をとらえた。

 このポスターは、当時としては画期的なものだった。これ以上肉体を露出すれば、風俗取締りに触れる。といって、隠してしまえばポスターとして意味がなくなる。その中間のスレスレの所にあって、誰からも非難されず、あらゆる人を魅惑したのは、モデルになった彼女の無邪気な、純真な人柄のせいだった。

 このポスターは間もなく、ドイツのポスターコンクールで一等に入賞した。

 鳥井信治郎は、赤玉という名を広めるためには、何でもやった。一人でも多くの人に、振り向いてもらうこと、おぼえてもらうことが念願だった。

 

   着想の良さと好奇心

 

彼はまた製品の包装や縁の意匠に気をくばった。酒類は気分のものである。瓶の形や、函の色、模様によって、顧客の心理が微妙に影響を受けることを知っていた。彼は東京へ出張すると、銀座あたりの高級雑貸店を小まめに回って、香水を買い集めた。その瓶の形からヒントを得て、洋酒の瓶を作り上げたこともあった。「赤玉」の発想も香水からだった。

 また彼は丸善から外国の雑誌を買い入れて自分で目を通したあとは、社内の関係部課へ回覧させた。

 あるとき彼は人力車で中之島公会堂の前を通った。ふと見上げた彼の目に、公会堂の正面の柱の上の装飾彫刻が焼きついた。彼は会社へ帰ると、さっそくデザイナーを公会堂へ走らせ、彫刻の写生をさせた。そして、何かの商品に使うために、大事にしてまっておくようにと命じた。

 グリコの吉武副社長が欧米旅行に出かけるとき、鳥井信治郎は、

「吉武さん、お土産頼んまっせ」

といった。

「何だすねん。あんたのことやさかい、また何かむずかしい注文だっしやろ」。

 「いえ、簡単なことだす。外国のタバコをいろいろ買うて来ておくれやす。中身はいりまへん。喫うてくれはっても結構だす。箱だけ、できるだけ沢山頼んます。空き箱は畳むと小そうなりますさかい、荷物にもなりまへんやろ」

 

これは彼が商品の包装のデザインの参考にするためであった。

 彼の次男の佐治敬三(現サントリー社長)は言う、

 「父は万事ハイカラだったらしい。父の住居の一部、″洋館″と私たちが呼んでいた部屋は、当時としては随分ハイカラな、しかも本格的な洋風建築であったと思う。その洋館のベランダで、母が、これも当時としてはトップモードだったろうと思われる洋装姿で写った写真が残っているが、母のこのハイカラも、恐らく父の影響だったのではあるまいか」

 こうして赤玉ポートワインは、蜂葡萄酒を追い抜き、念願の業界第一位になることができた。

 明治から大正へかけて、日本は西洋文化の輸入国で、舶来のものといえば高級品を意味していた。たとえ日本国内で生産したものでも、できるだけ西洋風の、いわゆるハイカラな、バタ臭い外装をまとって売り出されることが、成功の秘訣であった。鳥井信治郎は、小西儀助商店での徒弟生活以来の永年にわたる経験によって、そのへんのコツを呑み込んでいたようである。       

 

   ウイスキー国産化の夢

 

鳥井信治郎は大きな夢をひとつ抱いていた。それは、日本ではじめて、ウイスキーを造ろうという夢である。

 それまで、ウイスキーはスコットランドのものときまっていた。日本酒が日本で造られ、ウオッカがロシアで造られ、ビールがドイツで造られるように、ウイスキーがスコットランドで造られるのは、神代の昔からきまっていることで、これをよその国で造ろうなど、飛んでもないことである。ニセ物造りもいいところである。ルール違反といっていい、というのが、そのころの常識だった。

 どこの国でも造ろうとしないから、スコットランドは世界の市場を独占し、政府は非常識な関税をかけるので、町の酒場へ出るころは、目の玉の飛び出るほど高価な飲み物になった。そのころ銀座のパーでウイスキーをガブ呑みできるのは、大会社の重役か、政府高官か、金持ちの道楽息子かに限られていて、一般市民には手の届かぬものだった。

これを日本国内で生産し、誰にでも気軽に呑める大衆飲み物にしよう、ついでに自分も企

業家として天下に覇を唱えようというのが、鳥井信治郎の壮大な夢であった。

 当然、社内には反対の声が揚がった。 第一に、ウイスキーは危険が多いということである。この酒は、短い時間では結果がわからない。今年できたものが、今年すぐ商品にはならないのである。何年も倉の中に貯蔵し、じっと寝かせているうちに、だんだん熟成して、風味が出てくる。風味が出て来ればいいが、出て来ないかも知れない。風味が出るか出ないかわからない物をアテにしながら、何年も待たなければならない。その間、収入はどこに求めるか? 幸い、赤玉ポートワインの成功で、一定の利潤が保証され、経営は安定したといっていいが、そこへ、こんな金ばかり食って、もうかるかどうかわからない厄介物をかかえこんだら、どういうことになるか?

 社内で、重役全部が反対したばかりでなく取引先、友人なども考え直すことを求めた。味の素創業当時の社長鈴木三郎助は、信治郎の親友で、夜更かしで話し合う仲だったが、

「ウイスキーは、製造をはじめてから、金になるまで七年もかかるということだ。そんなものに手を出して、どうする?」

 といったが、信治郎は、

「わては洋酒に命を賭けてますのや。着物を質に置いても、やり遂げますわ」

 と、初志を曲げようとしない。彼には赤玉ポートワインという米の飯があって、最悪の湯合でも何とかやってゆけることは事実であった。みんな安全な道を選ぶことを勧めるが、彼はここで、もうひと踏ん張りして、大バクチを打とうと思った。

 大バクチというけれど、彼にはまったく成算がないでもなかった。コツコツやっているうちに、かならずウイスキーの時代が来るという自信が、彼にはあった。

 なんといっても、これまでウイスキー

は高価すぎた。一般庶民にとって高嶺の花である。それだけに、ウイスキーに対するあこがれが強い。ここで安く手に入るようになれば、みんなワッと押し寄せるだろう。彼にはその風景が目に見えるような気がした。幸運が目の前に転がっているのに。手を出さないという法があるものか。

 あるとき、こんなことがあった。出来の悪いアルコールを葡萄酒の古樽につめて、倉庫の臭に置いたまま、忘れていた。何年かたって、ふと、取り出してみると、良質のものに変化していた。これを原料にして、彼は「トリス」という名のウイスキーを売り出したところ、好評だった。しかし、原酒が偶然の産物だったから、原酒がなくなると共に消滅した。

しかし、鳥井信治郎にはその時のことが忘れられない。あれが夢でなかったら、いまの自分の考えていることも、夢でないのではないか・……

 

  欠番となった年

 

 彼がウイスキー作りに取りかかったのは、大正十三年だった。大阪と京都の中間、山崎の古戦場に工場を建て、二十人の杜氏と二人の職員で仕込みにかかった。二人の職員の一人は工場長の竹鶴政孝で、彼はウイスキーの醸造技術を習得するために、わざわざ英国まで留学して、帰ったばかりだった。

 しかし、ウイスキーはなかなかモノにならなかった。昭和四年、最初の製品にサントリーウイスキーと名をつけて売り出したけれど、匂いが悪くて、売り物にならなかった。ウイスキーを造るには、その途中でピート(草炭)を燃やして、煙をしみ込ませる。それが独特のウイスキーらしい香りになるのだが、素人がはじめて造る悲しさには、勝手がわからず、ピートを燃やし過ぎたため、焦げ臭いものにしてしまったのである。それでも毎年、造らない遣らないわけにゆかない。造って、じっと寝かせておかなければならない。金は一文も入らず、出るばかりである。経理担当者が信治郎に、

 「大将、資金があと六ヵ月しか続きまへん」

と、訴えた。昭和六年には、ウイスキーの仕込みを中止せねばならなくなった。

上述の通り、ウイスキーは古いものほどよいとされているので、毎年作ったものを樽に入れ、上にその年を白い塗料で書き入れて、貯蔵するのだが、1931()という年号の樽だけは見当らない。資金繰りがつかなくて、原料の大麦が買えなかったのである。

 寿屋のウイスキーが急に売れだしたのは、日米戦争のあとであった。

 原因はいろいろ数えられるだろう。戦時中、日本軍兵士がアジアの各地に転戦して、洋酒味になじんだこと、日本人が洋風の簡易な生活を喜び、燗をしなければ飲めない日本酒から遠ざかったこと、戦前からウイスキーというものは高級なものという観念が浸透していたところへ、それが安価に手に入るようになったため、爆発的な人気を呼んだこと、などであろう。

 いずれにしろ、いまにウイスキーの時代が来る、という鳥井信治郎の確信は、たしかに現実ものとなったわけである。彼のハイカラ趣味は、単なる趣味に止まらず、時代の流れを的確に把握していたといっていいだろう。

 ウイスキーの成功ののち、彼はさらにビールに挑戦した。しかし、この戦いの成果は息子の二代目社長佐治敬三の手に委ねられている。彼はそれを見ないで亡くなった。

昭和三十七年二月、八十三歳だった。






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最終更新日  2021年02月14日 08時12分23秒
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