カテゴリ:著名人紹介
自動車時代の先駆者・豊田喜一郎
織機王の御曹子に生まれながらも、 自動車に取り馮かれた根っからの技術者の苦心惨胆談
中央公論『歴史と人物』昭和58年発行 10 特集 転換期をのりきった企業家の決断11 池田政次郎氏著(ジャーナリスト)
一部加筆 山梨県歴史文学館
御曹子と石田辺三
その男は‘‘御曹子‘‘の姿を認めるや「これはまずい」とあわてて物蔭に身を隠した。だが、時すでに遅く、あっと思ったときには御曹子の笑顔がそこにあった。 「なぜ逃げるのだ、石田君。それともなんか、ぼくに出くわすとまずいことでもあるんか」 「いや、それがその……」 石田と呼ばれた男は一瞬、口ごもり、後ずさったが、御曹子の追及は止まなかった。 「聞くところでは、きみはぼくの自動車にえらく反対しているようだね。兄貴たちをたきつけている連中は君だというもっぱらの噂だ。この際、きみの真意を聞かせてもらおうじやないか」
昭和十年の秋‘‘愛知県‘‘は刈谷市の豊田紡織工場の一角での光景である。 ‘‘御曹子‘‘こと豊田喜一郎は厳しい表情で、その男に詰め寄った。男の名は石田退三といい、喜一郎よりも五つほど年長で、当時、豊田紡織の支配人格を勤めていた。ちなみに豊田喜一郎は四十歳になったばかりの気鋭少壮のときであった。 石田退三もただの男ではない。思いがけぬ奇襲にためらったものの、すぐ態勢を立て直し、声高にまくしたてた。 「そうまでいわれれば、いいましょう。わしは別に自動車をやるのが悪いというとるのではない。ただ、いまはまだその時期ではない。紡織や織機もようやっと独り歩きしはじめたばかりだし、世の中もまだ国産車を受け入れるような状況ではない。だいいち、三井や三菱でもやれんような自動車をなんで豊田のような田舎会社がやらんならんのか、発明道楽は親父さん一人でたくさんだ。このまま無理押しするど、せっかく先代が築いた財産をすべて失うことになりかねん。番頭の一人として、わしは喜一郎さんにいましばらく隠忍自重してもらいたいと、これが本意ですわ」 言い訳まじりに反論するのを喜一郎は苦笑まじりに聞いていたが、やがて何を思ったのかこんなことをいった。 「だがな、石田君。今日はなんぼ儲かった、明日はこうなるやろとくだらぬソロバンに一喜一憂しているきみらにはわかるまい。まあ、みていろ、やがて車をやってよかったと思うときが必ずくるで。そうだ、車ができたら第一号車をきみにあげよう、さっそく運転を習っておくがよい」 呆っ気にとられる石田退三を尻目に、喜一郎はさっさと立ち去った。
御曹子の暴走
豊田喜一郎の暴走は当時の豊田グループにとって悩みのタネになりつつあった。創案者・長田佐吉の嫡男、それも一人息子であり、無学歴の父親と違って束大工学部(機械科)を出た二代目にはそれなりに存在感があった。 しかも扱いにくいのは喜一郎が言葉少ない男であったことである。田舎財閥とはいえ、誰はばからぬ豊田家の御曹子でありながら、彼は少年の頃から、無口でどこか醒めた一面を感じさせる人物であった。 父佐吉ゆずりの技術屋気質といえばそれまでである。が、喜一郎にはそれ以外に個人的な事情があった。まだ物心がつくかつかぬかの頃、突然、母親に捨て られたのである。母親、すなわち豊田佐吉の妻はあまりの貧困と亭主の発明狂い沙汰に耐えかねて家を出たのだった。 豊田住吉については多くの説明は要すまい。慶応三年(一八六七)、浜松に近い寒村の生まれ、生家が貧しく小学校すら出ずに終わった。 当時から遠州地方は織物業が盛んであり、ほとんどの良家が「バッタンはたご」による内職で生計を立てていた。佐吉の父・伊吉は学校大工を業としていたが、生来の器用者で、その血を受け継いだのが佐吉もやはり手先が器用であった。だが、学校大工を継がせようどいう父親の意に反して、佐吉はまったく遠う世界を志したのである。 毎晩、遅くまでハタを織る毎親の姿をみて佐吉は考えた。「バッタンはたご」は原始的な機械である。手を使い、足で踏み、それは女の力では無理とも思える重労働である。 なんとかもっと楽にハタを織る機械ができないものか、と佐吉は考えた。母親の苦労を少しでも減らしたい、という素朴な気持ちが、後年、彼をして‘‘世界の織機王‘‘に押し上げるバネとなったのである。
最初の発明となる木製人力織機が完成したのは、明治二十三年(二十三歳)。その間の苦闘ぶりについては省略するが、要するに周囲から、「伊吉さの気違い息子よ」と終始、白眼視され、佐吉は佐吉で織機の発明以外は目に入らぬ、と、いう‘‘青春一本道‘‘をひたすら駆けたのである。自宅の隅の納屋に閉じ龍ったまま、何日も出てこなかったり、怒る父親から逃れて横浜の親類の家を頼ったり、その他友人、知人の家を転々としつつ「発明考案の場」を求め続けた。 おそらく当時の若者の生き方としては、誰がみても破天荒なものに見えたにちがいない。ついでにいうと、彼が技術者としてのアイデンティティーを確立したのは、六年後の明治二十九年、難題の木製動力織を完成したときである。
破天荒な青春 破天荒といえば、息子の喜一郎の青春も型破りそのものであった。自動車に進出するきっかけをつくったのは他ならぬ父の佐吉であった。大正末期、豊田佐吉は三井物産の世話ではじめて欧米を視察した。そのとき大きな衝撃を受けたのはニューョークでみた「道路をアリのようそのときのショックを佐吉は事あるごとに息子に語った。そして、「できればおまえが自動車づくりをやってくれ」とうっかりもらした一言が、喜一郎をして父同様の苦渋をなめさせることになったのである。 石田退三を工場で引っつかまえた頃の豊田喜一郎は、事実、さまざまな障害と雑音に悩まされていた。なかでも彼を苦しめたのは、本来味方たるべき身内(社内)に強硬な反対論者か存在したことである。その筆頭はなんと義兄の豊田利三郎であった。 喜一郎は親譲りの典型的な技術者(研究者)である。自身、技術者と経営者の落差に悩まされた豊田佐吉は、自分にそっくりな一息子の将来に不安を覚えたのだろう。佐吉は親しい児玉一造に頼み込み、たまたま独身を守っていた利三郎をもらい受けたのである。 利三郎は豊田グループの実質的な二代日となった。佐吉はこのムコ養子に経営全般を任せ、喜一郎が気楽に研究開発に打ち込める環境づくりを目論んだようである。
昭和六年、豊田佐吉逝去。利三郎は自動的に公式な後継者になる。この時点の豊田グループは、豊田紡織、豊田自動織機の二本柱を核に、いくつかの関連会社を擁する地方財閥に成り上がっていた。 その二代目社長の座に就いたのは、実子の喜一郎ではなく、児玉家から乗り込んだ利三郎であったのである。 それでなくとも、二人は本来的に『水と油』であった。ムコ養子と実子という大きな違いのうえに、なによりもその肌合いが対照的であり、一方は時代の先端をいくエリート商社マン、他方は東大工学部を出たとはいえ、奇人と呼ばれた父以上の発明研究狂である。また、それなればこそ、豊田佐吉は自らの轍を踏ますまいと、近代感覚をもつビジネスマン(利三郎)を二代目に据えたのであろう。 喜一郎と利三郎は日常ほとんど口を利くことがなかった。利三郎はもっぱら刈谷市の豊田紡織社長室にあり、喜一郎はといえば隣接する自動織機の工場で研究三昧に明け暮れていた。佐吉の存命中はまだよかったが、大元締がいなくなってからの二人は、まったく違った道を歩き出したかのようにみえた。 「なんということをする、皆の同意も得なんで、勝手に工場用地を買うてしまうとは、だいいちカネを出すのは、このわしなんだぞ」 二人の対立が決定的になったのは、喜一郎が独断で挙母ハ現在の豊田市)の広大な荒地を買収したときである。それまでの喜一郎は、わずかなスタッフを使って刈谷の機械工場の一隅で細々と自動車づくりの研究をしていた。それに関しては利三郎も大目に見、「親譲りの男だから仕方ないやろ」と割り切って、資金的な面倒も一応はみていた。 だが、喜一郎は心中ひそかに、旗揚げの時を狙っていたのだ。「なんとしてもオレは国産自動車をつくるのだ」いつか喜一郎の胸の底には研究者としての生涯目標が根付いていたのだった。
トヨタ自工の発足
二年後の昭和十二年九月二十八日。ついに「トヨタ自動車工業株式会社」が発足した。本社は愛知県挙母町論地ケ原。現在の豊田市トヨタ町一番地である。 名古屋市内のホテルで聞かれた新会社発足記念パーティは賑やかだった。ほぼ七百人も集まっただろうか。中京財界の主だった筋はほとんど出席し、東京からもマスコミ関係や商工省、陸軍省などの自動車関係者が列席していた
不思議なものである。その光景をみてあれほど自動車に反対であった利三郎社長の態度がコロッと変わったのだ。傍らに控える岡本藤次郎(当時の番頭格)に彼は上機嫌で語りかけたものである。 「しかし、えらい景気だね、資本金二百万円か、本家本元の自動織機の二倍じやないか、それに人員も三千人……岡本君、時の勢いというものは、ほんま、おそろしいものだねえ」 利三郎が感に堪えぬように岡本に話しかけた。 「同感です。ほんのこないだまでは、豊田は、自動車をやる前に潰れてしまうんではないか、そんなことがいわれておったし、資金調達の一端を担った私としては、自分のことのようにうれしいです」 「その気持ちはよく解るよ、なにしろ佐田、豊田と入れ込んで、出資者の一部は、きみが口説いたんだからなあ。それにしても千二百万の資本はたいしたものだ。中京財界広しといえども、これだけの規模の会社はそうざらにはない」。 「それどころか、銀行その他から別に二千万円の借入を調達してるのですからね。これだけの金があれば当分は大丈夫でしょう。あとは喜一郎さん以下の技術陣が頑張って、外車に負けぬ車をつくることです」 「うむ、大陸で戦争も始まっておるし、当面、軍用車の需要はますます増えるじやろ。いま思えばよい時期に豊田は自動車を始めたものだ」
中央のステージでは、主催、来賓の挨拶が終わり、きれいどころが派手な余興を踊っている。立食スタイルのこのようなパーティは、当時としてはまだ物珍しい。 この時点では、たしかに豊田喜一郎の読みは当たっていた。だが、それはあくまでも国家の要請によるものであり、彼自身がめざした大衆向け乗用車の開発構想にはほど遠い。月産二千台という当時としては画期的な生産ラインを造ったといっても、それは結局、軍用のトラック向けにずぎないのである。 そんな環境とは知らずに、真一郎は一人、得意の絶頂にあった。政府から補助金は出るし、東京の日産、いすゞに負けぬ規模ができたと自負していた。 ちょうど株式の公開ブームが訪れたこともあって、彼のもとにはいろんな証券マンが出入りしていた。そのなかの有力者の一人とこんな会話を交わした記録が残っている。
信じられるものの発見
「この間、挙母の工場をみてくれたそうですねえ、どんな感じを受けましたか」 それが唯一の道楽である酒をあおって喜一郎はさっそくに聞いた。 「はあ、私は技術屋でないので専門的なことはいえませんが、あの広さには驚かされました。刈谷の試作工場とは、ほんま、えらい違いですね」 その証券マンがいうと、喜一郎は満足気にうなずき、 「そうでしょう、刈谷あたりと比べると雲泥の差がある。挙母はとりあえず六十万坪手当てしたが、将来は百万坪でも足らんようになるでしょうな、実際、アメリカの自動車工場はどこでも何百万坪と いう広さですからねえ」 わが意を得たというふうにいった。 「そうすると、近い将来、あの敷地のすべてをお使いになる計画ですか」 「もちろんだよ、いまはまだ造りに、かかったばかりで、バラックの粗末なものに過ぎないが、少なくとも半年後には月産二千台のラインを完成しなければならない、その青写真はぼくが作ってもう渡してあるし、資金面の手当てもついている。見ていてごらんなさい、この秋にはびっくりするような近代工場があの荒れ地に出現するから」 「しかし、副社長のお考えになることは、ほんま、われわれ俗人には想像も及ばんですよ、そういう大きな仕事ができるというのは、男として羨ましいかぎりです」
感に堪えぬように証券マンがいうと、 「それが、責重な資本を提供してくれた世の中に応える責務です。資本だけではない、人材もなにもかも含めて、われわれは国家の要請に応えねばならない、世の中が必要としないものであれば、自動車であれなんであれ、所詮これだけの支持は集まらんでしょう。あなた、仕事というものは自分の為にやるものではない、死んだ父親もいっも言っておったが、天下国家のためにやる仕事は辛くとも必ず報われる、おのれ個人のためにやる仕事は、しょせん大した見返りは与えられん、と。この頃つくづくそう思いますよ、世間では豊田の二代目が自動車に狂ったと、いや、社内の者でさえもそういっていた。しかし、どうですか、大陸では戦争が始まり、一刻も早く、そして一台でも多くトラックを欲しがっている。われわれがやらんで誰かやるというのです、歴史はどんどん流れているのだから」
凛とした口調で喜一郎はいった。その表情には、信じられるものを発見した男に共通する強さがうかがわれた。父・豊田佐吉もその精神を唯一の心の支えとして生き抜いたのであったにちがいない。
不思議な人の世の因縁
人の世の因縁とは不思議としかいいようがない。冒頭に紹介した豊田喜一郎と石田退三との逸話がそれを物語る。 石田は明治四十五年、旧制彦根中学を出た後、小学校の代用教員をはじめとして生々流転、幾多の辛酸を経てトヨタ入りしたのは実に三十八歳のときであった。人生五十年といわれた当時の感覚でいえば満三十八というのはビジネスマンとしてトウが立ったもよいところで。ある。 だが、後にトヨタ中興の祖といわれるこの男の神経は並み外れて図太く、そしてしたたかだった。 喜一郎が自動車に進出したとき、利三郎社長をはじめ、ほとんどの番頭幹部は反対論者であった。が、誰一人として面と向かって意見を述べる者はいない。そんな中で石田は一人、堂々と反対論を述べた。 それはともかく、戦中までのトヨタ自動車はなんとか生きていくことができた。喜一郎念願の乗用車はつくれなかったが、軍関係からの特賞によって工場は常に多忙だった。喜一郎自身、「これで足場はできた、戦争が終われば本格的な大衆乗用車をつくってみせよう……」 と、の自信は深まるばかりであった。 終戦。それはトヨタ自工にかぎらず、日本の産業界のすべてをドン底に落とし込む。悪性のインフレ、失業に伴なう労働争議の頻発、占領軍指令によるドッジ・フインの断行など、日本の経済は最悪の状態にあった。 トヨタもついに行き詰まった。昭和二十五年の初頭になると、累積赤字は資本金の二十倍にも達し、やむなく踏みきった人員整理策に反対した労組が長期ストに突入するなど、もはや誰の目にもトヨ自動車の倒産は時間の問題にみえた。 その危難を救ったのは皮肉にも石田退三である。財閥解体令を避けるため、オーナーの利三郎・喜一郎兄弟はグループ各社の経営から離れ、新興のトヨタ自工一社の会長と社長になっていた。だが、その最後の砦も戦後の不景気の前にあっけなく潰えたのである。 石田退三はそのとき、豊田グループの本家ともいうべき豊田自動織機の社長になっていた。さいわい、自動織機は戦後処理をうまく乗りきり、その時点ではグループ唯一の黒字会社であった。 銀行筋としても肥大したトヨタ自工をいまさら潰すわけにはいかない。そこで目をつけたのが石田辺三の経営手腕である。最終的な融資の見返りに、銀行団は石田のトヨタ自工社長就任を要請、やむなく石田は再建役を引参受けて、二十五年七月十八日、思いがけず豊田喜一郎の後を襲う。
悲運な男
新首脳部を発表する臨時株主総会で、石田退三は、この男には珍しく感傷的な挨拶をした。豊田喜一郎の退陣は、敗戦に伴う時代の急変が第一の因だと強調し、「不肖石田退三、もしも運よく再建を果たし得た暁には、再び豊田喜一郎氏を社長としてお迎えすることをこの席上で約束いたします」 とまで断言したのである。 資本金の十数倍もの赤字を抱え、もはや誰がやっても命運は尽きたとみられた当時のトヨタ自工。大株主や金融筋の強い要請があったといえ、すでに還暦を迎えた石田にとって、それは拾いたくもない火中の栗であったにちがいない。 会場には豊田喜一郎も、そして利三郎も姿をみせていなかった。戦後の財閥解体を逃れるため、この兄弟はグループ各社の役職を辞し、新興トヨタ自工の会長、社長として″水と油″同士が思わぬコンビを組んでいたのである。傷心の兄弟にとって敗残の姿を衆目にさらすことは、その誇り高き衿持が許さなかったのであろう。 二十七年になってトヨタ自工はなんとか持ち直した。朝鮮動乱の僥倖にも恵まれガメツイ石田番頭は特需景気に便乗して、彼自身いうところの「儲けに儲けてやった」。そして彼は約束どおり、豊田喜一郎への『大政奉還』を企てたのである。 だが、運命は皮肉である。社長復帰を決意した喜一部は、二十七年三月二十一日突然倒れた。彼は東京・築地の割烹旅館の一室で畳の上に車の設計図を広げたまま意識を失っていた。医師の話では高血圧による脳出血の疑いが濃厚で、容体はきわめて深刻であるという。` 世田谷の自宅からは二十子(はたこ)夫人が長男の章一郎(現トヨタ自工社長)を連れて飛んできた。急を聞いてトヨタ関係者や知己、友人の類が次々に駆けつけてくる。 そのため割烹旅館は臨時休業の措置をとらざるをえなかった。 意識不明のまま世田谷の自宅に移送された喜一報は、同二十七日早朝、ついに帰らぬ人となる。静かに眠り続け一言の遺言もなく、五十七歳の若さで彼は逝った。 喜一郎の正式社長復帰は同年七月末に決まっていた。残すところわずかに四ヵ月たらずである。運命の皮肉というか、とにかくこれほど無情な話もめずらしい。 一方、おおいにとまどったのは石田退三である。根っからの糸へん人だけに自動車を引き受けるときも「わしはハタ屋だで、いまさら鍛冶屋のマネはしとうない、さっさと(再建を)片付けて住み馴れた織機へ帰らせてもらうわ」といってはばからなかった。 だが肝心の豊田喜一郎が逝ったいま、そんなことはいっていられない。技術面で喜一郎を輔けた豊田英二(現会長)はまだ若く、喜一郎の嫡男・章一郎は会社に入らず、名古屋でプレコン建設の研究に没頭していた。 石田は章一郎を説得し会社に呼び戻したが、まさか二十代の嫡男を後継にするわけにはいかない。やむなく社長に留任し、「これも天命だで、とにかくトヨタを一流の会社にしてやる」と腹をくくった。そして結果はそのとおりになった。 その石田も五十四年九月に逝き、後継の豊田英二の後を受けて昨年、三代目の章一郎が新生トヨタ自動車の社長に就任した。 もしもあのとき石田が策した大政奉還が実現していたならば、今日のトヨタの姿はどうなっていただろうか。 石田退三は生前(筆者に対して)くりかえしこういったものだった。 「わしのような商売人には、しょせん技術屋の気持ちはようわからん。佐吉翁も喜一郎さんもカネ勘定は無縁の人だで、ずいぶん泣かされたものだ。だが、こうしてふり返ってみると、あのような無茶苦茶な人がおったればこそ今日のトヨタがある。それにしても喜一郎さんは悲運の人だわね、しかし、あの人のおかげでわしも相当疲れさせてもらいましたよ」
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最終更新日
2021年02月14日 08時49分56秒
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