カテゴリ:甲斐武田資料室
理慶比丘尼の武田勝頼滅亡記
『甲府市史』古代中世の文学 一部加筆
〔解説〕 武田勝頼が天正十年(一五八二)三月、織田信長郡に攻められ、諸方の守りを破られ、新府中の韮崎城内において事 評定の結果、小山田信茂の意見に従い、城を焼き、信茂のよる郡内岩殿山の城におもむく途中、信茂の謀反にあい、天目山に転進するに至った悲憤と困窮の状況を述べ、 終焉の日の勝頼父子・夫人・侍女のけなげな最期や、土屋兄弟をはじめ忠臣の勇敢な最期を、和歌をまじえて記し、その後に、勝頼主従の供養のために、名号歌を添え、筆者の晩年の生活にも言及している。 筆者の理慶尼は、武田信虎の弟勝沼信友の息女と言われ、雨宮家に嫁したが離縁され、大善寺に入って除髪し、庵を結んで桂樹庵理髪足と称し、晩年は相模中郡富岡に閑居し、慶長十六年(一六一一)八月十七日入寂した。
『理髪日記』の史料的価値は少ない。天保八年(一八三七)版の『理髪日記』跋文で、朝川善庵が「多数の和歌は一人の作である」と言い、これ皆誰かが理窟尼に擬作するところである」と言い、辻善之肋博士が「史学雑誌」で、「何者かが理髪尼に仮託した小説であり、史的記述としては価値の乏しい記録である」としている。
『理鹿尼の記』
此武田殿と申せしは、天喜元年、朱雀院の太子、後の冷泉院七十代の帝の御時、陸奥の国貞任・宗任誇り、十二年の戦あり。その時の大将軍伊予守頼義・御嫡子八幡太郎・二男賀茂二郎・三男新羅三郎馳せ給ひて、終に滅し給ふ。 彼の宗任・貞任と申せしは、面三尺四方、聲、百里聞ゆる者なり。斯かる悪事の者、失ひ給ふとて、武士といふ字を給はり、新羅三郎の御嫡子にてましませば、武田の太郎と申すなり。 勝頼迄は、三十一代にて渡らせ給ふと申し給えけるとかや。栄華を極め、世を保ち給ふ事、また類あり難く御痛はしや。きたの御遊には、青陽の朝には、花鳥に御心を染み、いろねを惜しみ、木の下を慕ひ、歌を詠み詩を作り、また夏末にければ、卯の花・牡丹、涼しき方をもとめ、松が根の磐井の水に、立寄り給ひて、立来る波に、言の葉を寄せ、秋は、さやけき月を友とし、琵琶・琴・和琴・笙・橐篥揃へ、思ひ思ひの夜楽の遊、爪音けだかく引鳴らし、天人も影向なすやとばかりなり。秋風・木嵐打過ぎて、雪の頃にもなりしかば、斯からん時のものまととて、木々の梢に積れるを、花待ちおそしと眺め給ふ。されども、勝頼は、武道のことを忘れ給はず、打臥し給ふにも、鎧の袖枕とし、起きさせ拾ふにも、其事のみ、厳冬・霜雪・風雨を厭はず、弓矢の方へと、赴き給ひしかども、時移り、運命尽き果て給ふにや。木曾殿、謀叛を起こし、尾張の國織田の上總介信長へちうし去る間、都の勢を引具し、木曾殿を先として、討って下り、天正十年壬午三月十一日に、田野の山辺の合戦に、打負け給ふう哀れなる。御痛はしやな。無下なくも、御内の人の変わらずば、仮令、天下勢来るとも、五年・十年の其内は、斯かる程にはましまさじ。
彼の勝頼と申せしは、心武田の家なれば、人には勝れてましませども、御内の侍、悉く心変わりを申されければ力に及ばせ給はず、然れども館を御枕と定めさせ給ひて、何方へも落ちさせ給ふべき御心は、夢程もましまさざりしに、爰に国人小山田と申せし人、母の尼公を、人質に取られ參らせ、それ返さんが計に、仰はさこそ候へども、御身をかたく守り給へ。自らが在所都留の郡岩殿山と申すは、凡そ天下が向き候とも、一時待つべき山にてあり。夫へ御越し、然るべきと申されければ、勝頼、聞召され、これは口惜しきいひごとや。勝頼刹なる間も、今生にあらん程、敵に後を見すべきか。是にて待ち合わんと、大きに御腹立たせ給ふに、小山田重ねて申されけるは、恐れながら申すなり。命を全う待つ亀は、必ず蓬莱に逢ふと伝へ聞く。彼の山に龍り給はば世に出でさせ給ふ事、程はあらじと、申されけれども、御返事のなかりければ、小山田、涙を流し申されけるは、御大将は、さこそましますとも、御臺所未だ莟みて、春待ち給ふ梢の花の我が君様、彼と申是といふ。余りに御心強くも、折に寄りしものをと、かき口説き申しければ、勝頼、げにもと思召し、御館、韮崎を出でさせ給ふ、痛はしやな。御䑓所の、舘へ移らせ給ふ御移の時は、金銀・珠玉を鏤めたる輿車、あたりも輝く計りにて、御供の衆、数知らず、政府より新府のその間、三百余丁と申せしを、よびつる、さしつる移らせ給ふ。
頃は十二月廿四日なりしに、明くる弥生三日には、斯くならせ給ふとて、御名残借しくや思召す。御床に倒れ臥し、涙を流したまふやう、只此處にありし事は、春の夜の夢ほどもなしと、仰ありて、斯くこそ詠じ給ひけれ。
** うつゝには思ほえがたき此の所 あだにさめぬる春の夜の夢 **
と遊ばして、出でさせ給ふ時は、輿車にも及ばせ給はず、召しも習はぬ御馬に召され、出でさせ給ふが、御名残借しとや思召す。遥に御覧じ、返し、かくこそ詠じ給ひけれ。
** 春霞立ちいづれどもいくたびか跡をかへしてみかづぎの窓 **
弥生三日なれば、斯く詠じ行かせ給ふが、人々の気色変わりて見えければ、勝頼を案じ奉り、御馬も進めず立たせ給ひてのたまふやう、など遲なはり給ふぞ。法華経五の巻に、変成男子と云ふ事あり、形こそ、女人に生るゝといふとも、心は男子に劣らめや。勝頼すはと申すなら、先づ我れ先にと思召し、御守刀に、御心を懸けさせ給ひて、落ちさせ給ふ道すがら、昔源平両家の落ちあしと申すとも、是にはいかで勝るべき。 其の日も暮方になりければ柏尾と申す所へ着かせ給ふ。御䑓所仰せけるやうは、此寺の御本尊は、薬師如来と承はる。今夜是に通夜し、後の世を祈らばやと思ふなり。南無薬師瑠瑞光如来、自ら最後既に近づきぬると覚えてあり。後の世には、一つ蓮の䑓の縁となし給へと。柏尾は、韮埼より東なれば、東方浄瑠璃世界を、心懸け給ひて、斯くこそ詠じ給ひけれ。
* 東へ行きてのちの世の 宿かしわをと頼む御ほとけ *
夜もすがら祈らせ給ふ所に、ちとりどうの者共、自ら家に火を懸けて、御心を騒がしけるに、其の火の光に驚き、たまたま召連れし人も、妻子の事思ひ軽ぜけんか、其為めに、忍びくに落ち行きぬ。稍ありて、勝頼、誰れかあると宣へども、頓には御返事もなす者心なし。重ねて如何にと宜へば、土屋某、候と申す。誰彼はと尋ねさ給へば、誰は何時の頃より見えず、之は加持より見えずと申しければ、何れも御心細くや思召す。既にその夜も明けければ、「駒飼石見が宿」へ出でさせ給ふ。痛はしやな。女房達、昨日は馬に乗りしをさへ、世に憂き事と思はれしが、其馬人も、落行きぬれば、徒歩や裸足で歩みける。御䑓所御覧じて、げに哀にぞ思召す。御供の人も、猶僅かなれば、御心細くや思召しける、路次にて斯くこそはべり給ひけれ。
* ゆくさき心頼みぞ薄きいとどしく 心よは身がやどりきくから
と遊ばし、弥生四日には、「駒飼石見が宿」へ着き給ふ。 小山田、心変わりに思ひけるやうは、能き時刻もなし。母諸共に、都留の村へ行かばやと思ひし所に、敵見えけると、申し来りければ、六日の暮方に、土屋を奏者と致し、是に御入り政事、覚悟の外にて候なり。彼の都留の郡岩殿山へ御越し、然るべきなりと、御申し頼み奉り候。また付いては、自ら母の御暇の事、能き様に頼み入るなり、尤の仰せならば、御先へ罷越し、御臺所の御座の間をもしつらひ、御題に參るべしと申しければ、その由、土屋申上げられけるに、聞召し、いやいやと思召しけれども、彼の者の心を損ねじと思召し、兎も角もと仰せければ、母諸共に、七日の夜半に紛れ行きて、御迎えに參るかと、待ちさせ給へど、其の儘見えざりければ、此方より御迎えを越され給ふ所に、笹子の峠に、数多の武士陣取って、防ぎ都留の郡へ入れざりければ、御使罷帰り、此由申上ぐる。勝頼聞召し、彼の者に誑られし事の口借しさよと、天に上り地に沈み、御腹立たせ給へど叶はず。小山田心変わりの由を傳へ聞き、御陣、俄に驚き立ち、あたりの家に火を懸くれば、あるにあられぬ有様、目も当てられぬ気色なり。げに了簡のなき余りに、天目山へ御越しなされ、一待石たばやと思召し、既に駒飼を出でさせ給ふ。小屋中の者共等、此方へ御越しなされん事、思も寄らずとて数多の兵、轡を揃へ防ぎ奉れば、此処彼処に立たせ給ひて、籠の中の鳥とかや。網代の中の魚とかや。洩れて行かせ給はん方ぞなき。爰に僅かなる田野と申す所に、御馬を寄せ給ひて、息らひ給へば、御臺所の仰せける様は、斯かる野原の有様、思も寄らずや。斯くあるべしと知るならば、韮崎にて、如何にもなるべき身の、此迄来りて、屍の上の口借しさよと、御涙を流し仰せければ、勝頼聞召し、自らもさこそ思ひつれども、彼の者に謀られと申すとも、御身痛はしきと、思ひ參らせし故なり。事は如何にと申すに、彼の都留の郡と申すは、相模近き所なれば、如何なる風の便にも、御身、故郷相模へ送り參らせ、我が身如何にもならむと思ひし故なりと宣へば、御臺所聞召し、此は如何なる仰ぞや。譬へば、人許し輿車にて、故郷相模へ送るとも、帰らん事思も寄らずや。一つ蓮の毫の縁と、思ひ染めたる紫の雲の上まで、変らじと契を結ぶ玉の緒の、有らん限は、本よりも絶えての後も別れめやと宣へば、勝頼聞召し、いしうも仰せけるものかな。御身の御心、またきより斯くこそ見奉れとて、只此在所、見苦しとの仰なるや。或る文に曰く、三界無安唯如火宅、又十方空と観ずれば、河底をあると定むべき。只妄想の戯なりと宣へば、御第所聞召し、誠に左様にて侍ると宣ひて、斯くこそ詠じ給ひけれ。 * 野辺の露くさばのほかにきえてのち たいあらはこそたき所入 *
もんちんじ宣へば、勝頼聞召し、悦びては嘆き、嘆きては悦び、宣ふ所へ人来り、敵ははや、善光寺邊迄参りたると申しければ、最後の御盃と申しければ、奉りしに、御第所取上げ給ひて、勝頼にさし給ふ。又御臺所へさし御来所の御盃を、御子信勝へさし給ふ。信勝の御盃、土屋に下さる大夫より後は、心々の思ひざし、しゆも半の事なるに、土屋は顔近つけ、酌たてなほし申すやう、斯く野原の御有様見奉れば、心も乱れ気も消えて、眼も暗む計りなり。斯くならせ給ふは、如何にと申すに、御内の人々の心変わりの上なれば、さこそは此方をも、御心や置かせ給ふらんと、朝夕気遣ひ致すなり。さもあらざりし印を、御目に懸けんとて、五つになりし若に向つて、いひけるは、汝は幼少なれば、人の道には歩み難し。御先へ罷越し、六道の街にて、君待ち奉れ。父も御供申すべき。西へ向つて手を合せ、念佛申せといひければ、父が子にてある間、承ると申して、楓の様なる手を 合せ、念彿三遍申しければ、腰の刀を引技いて、心もとに押當て、かしこへがばと投げ捨つる。勝頼、此由御覧じて、あまりあへなき事を、致しけるものや。最後の言葉をも懸けやうずるものをと宣ひて、御涙を流しのたまへば、御前なる人々まで、皆小手の鎖をぬらしける。御臺所、このよしを聞召し、何に土屋が若を害しつるか、哀れなると宣ひて、御衣の袂を顔に当て當て給ひて、しばしば起きも上り給はず。やゝありて、御臺所仰せける、かんろの母の心の内の不憫さよと宣ひて、若が事を遊ばし、母の方へおくり給ふ。
* 残りなく散るべき春のくれなれば 梢の花のさきだつはうき
と侍りて、坦らせ給へば、女房辨なくて居たりしが、御詠歌の出を承り、少し心を立直し、三度戴き、浜の隙々に見て、恐れながらも御返し中さんとて、斯くこそ詠 じ參らせけり。
* かひあらじつぼめる花はさきだちて 空しき枝のはは残るとも
其のち、土屋、女房に向ひていひけるは、若が妹二歳になりしをぞ、汝に取らするなり。何方へも連れ行き、若しながらへてあるならば、足にもなして、父母が遺児とも、見るべしといひければ、女房聞いて、うたての人のいひ事や。彼の若に離れ、御身に捨てられ、又世に存命へんとは思はず。同じ道にと思ふなりと、掻き口説き恨みければ、土屋、重ねていふ様は、女の分けなきとぱ、此とかや。あのみどり子を養育し、父兄が草の蔭を訪はせんは、いくばくの忠たるべきといひけれども、更に了承せざりければ、土屋、頼もしき被官を近づけ、いひける様は、彼の女親子連れて、何處へも忍び置き、尼にもなして、自らが草の蔭を訪はせよと、いひければ、彼の男申すやう、此は口惜しき仰かな。何方へも行きては、何時の用に立つべきぞ。思いも寄らずといひければ、自ら馬に鞍を置き、女房を抱き寄せて、押へて男に水口取らせ、馬の三頭に鞭をあてて、十町計り追出してぞ帰りける。
其後御臺所、御最後も近つきぬれば、御心細くや思召しける。ふるさと相模へ斯くならせ給ふ言の葉を、如何なる雁の使にも、言傳てばやと思召して、斯くこそ詠じ給ひける。
* 帰る雁頼むぞかくの言の葉を もちて相模のこふにおとせよ
また如何にもならせ給はん後、御兄弟の御歎かせ給はん事を思召して、
* ねにたてゝさぞなをしまむ散るはなの 色をつらぬる枝の鶯
と侍りければ、御前なりし女房達、 御最後の御供申さんとて、斯くこそ侍りけれ。 * 咲く時は数にもいらぬ花なれど 故るにはもれぬ春の暮かな
斯くて敵、間近く来りたる由申しければ、法華経五の巻、奉れと召されて、御心静かに遊ばし給ふ。既に御経も過ぎければ、勝頼、土屋を召され、御臺所の御最後の御介錯と仰せければ、承ると申して、お前に出てけれども、初めて見奉るに、御年の頃、二十歳の内と見えさせ給ひて、色々の装束召され、容顔美麗の有様は、昔の楊貴妃・衣通姫・吉祥天女と申すとも、斯程艶めいたる形はましまさじ。何処へ剣を立て參らせんと、呆れ果てゝ居たりしに、御自ら御守刀を抜かせ給ひ、御口に含ませ給ひて、俯きに伏し給ふ。勝頼、此由御覧じて、急ぎ立寄り、御介錯を奉り、御死骸に抱付き、暫しはものを言わず。 土屋兄弟三人は、御供の女房達の介錯、取りどりに致しける。 さんの乱したる有様にて、たとゑん方はなけれども、晋平治元年三月十五日に、待賢門の戦の時、平家は十八萬騎、源氏は凡そ三百余騎に、討ちなされさせ給ひし時、御子千寿の前、竹の小御所を忍び出で、父義則の御前にて、仰せける様は、両家を見奉るに、平家は出づる日、咲く花なり。源氏はいづる日散る花なり。義朝如何にもならせ給はん後、如河なる田者の手に、懸らんも口惜しや。義朝御手にかゝり、助からばやと思ひ、最後の装束たて參りたりと、仰せければ、義朝聞召し、いしうも申しける子寿かな。自らもさこそ思ひつれどもとて御涙を流し仰せける。ややありて、義朝の乳人の鎌田はいずくにぞ、政清参れと召されつつ南表の左近の桜の基に敷き皮を敷き、千寿の前御移し奉り、おふせけるやうは、我が子なれどもいつくしき物や。畏れながらも、満月の山の端いづる、その影もこれにはいかでまさるべき。たけなる翡翠の簪巻揚たもふ。義朝さしよりたまひて、仰せけるは、汝いかなる因果に、義朝が子となりて、かかる憂き目お見するなり。今度には、いかなる賤男、賤女か、胎内にも宿り、百余年齢をたもてと、のたまひて、電光のうちに、剣おふらせたもふとみえしかば、花のやうなる千寿の御くび、「吾」前にぞ落ちたりける。義朝御首に抱き付き、しばし消え入りたもふとなり。 又元暦元年二月七日、一の谷のおちあし、おなじき十八日に、讃岐の屋島のおちあしに、いかばかりの人うせさせたもふと、申せども、これにはいかで優るべき。やうやう勝頼御死骸にはかれたまい、の賜うふやう、いかに土屋、自ら最後おも、おなじ時刻と思へども、敵将合わんと思ふなり。自から太刀おふる事は、家に叛ける事なれど、所存の余り、これなれは、苦しからじと思ふなりと、仰せければ、土屋承り、仰せ、誠に御ことわなりとて、申しける。又御子信勝に向わせ給いて、自らは、一栄一落、これ春秋たるが、汝無惨なれ、いまだ齢たらざれば、武田の家にも直らずして、たたかくなることは、いまだ蕾める花の、春にもあはずして、嵐に揉まれ、落つがごとし。無念なりとのたまへは、信勝きこしめし、にっこと笑わせ賜いて、いやこれは苦しからす、ここに例への候なり。しうじうのせんねん、ついに朽ちぬ。槿花の一日は、おのづから栄おなす。疾も遅くも残らめや、とのたまひて、かくこそ詠じたまひけれ。 まだきちる花とおしむなおそくとも ついにあらしのはるのゆふぐれ とあそばしければ、勝頼きこしめし感じたまひ、おとなしや、いかなる心さまかなと、おほしめしいりたまいて、深き御涙に咽びたまひて、御返事の弁えずして、おわします所え、敵来たりければ、いづれもうち物ぬきもちて出でたまひ、散散に戦いたもふ。 土屋兄弟三人も、同じく戦いければ、先へと進むつは物お、悉く滅したまえば、あとなる勢はこれを見て、つつゑていたりければ、よき時刻ぞと思し召し、いかに土屋、敷皮おなおせ、御腹召さるべしと仰せければ、承ると申して、御敷皮奉り、御介錯参る。なおらせたまゑて、御世辞とおぼしくて、かくこそ詠じたまひけれ。 おけろなる月もほのかにくもかすみ はれてゆくゑのにしの山のは あそばしければ、土屋とりあへず、かくこそ申し参らせけれ。 おもかけのみおしはなれぬ月なれば いづるもいるもおなじ山のは
そののち毎自作是念、以何分衆生、得人無上道、即成就仏心と、この文の唱えさせたまいて、御年三十七と申すには、田野の草葉の露ときえさせたもふ。土屋御死骸に抱きつき、やがて御とも申べしとて、深く涙にしづみける。また信勝の御介錯に、弟の土屋参る。これもなほらせたまひて、御世辞と覚しくて、かくこそえいじたまいける。 あたに見よたれもあらしのさくら花 さきちるはとははるのよのゆめ 弟の土屋、承り、とりあへずかくこそ詠じ参らせける。 ゆめとみるほどもおくれて世の中に あらしのさくらちりはのこらし とぞ申ける。
なお竹の林の花のみな散れは 世は鴬のねおぞなきつる 紫の雲に月かけ入りしより 心はやみの夜にぞまよゑる あはれなり有明ならて浮雲の かかれはともにいさよいの月 水底の心は清きかわ竹の世に 濁りある事そかなしき 誰ゆきてとはぬ御はかの秋風に 恨みやふかき田野の葛原 ふりぬ共わきてやとはんあとたへし 田野の山辺のこけのした道 罪もみなあるとわなにおいとはまし よくよく見れはくうの海原
此名号うたのはじめに、 竹のはやしとは、武田の御親子さまの御事、 花とは常の事、 ちるとは暮れさせたもふ事、みなとは御一門の事なり。 五文宇になお竹のとは、人々多く死すと、申せども、 おふやさまなけ御痛はしとゆふ事なり。 下の句のかみに、世は鴬とゆふ事は、 それにつけても、世の申憂とゆふ事なり。 叉たけの節なるべし、いづれも歌の真品々あるべし。
其後滝川、勝頼さまの御くびおもちて、信長の前にきたりければ、御首にむかひたまひて、いろいろの事申されければ、御気にあわずとや思召す。面悪阻向け、御後ろへ向かせたもふ。信長、城の介どの、此よしお見奉り、仰せけるやうは、御道理にて候なり、弓取の習にて人おかくし、久我かくならんもしれぬなり。御晴させたまへ。そのじやうには、今度心がかりいたしける人々お、皆失しなはんと申されければ、御前に向かせたもふ。 信長、城の助どのと仰せけるやうは、むかし頼朝、義経、御不介に上り、奥州の秀平お頼み、高館と申所に、御所おだて御いり候所へ、鎌倉よりもおしかけ御申ありしとき、頼朝への御うらみおかきたまひいて、その文お口のうちに納め、御腹めされぬ。御乳人の兼房、みづから腹をさき、御首おをしいれ、御家形に火をかけ、死したりさいに、焰鎮まりければ、鎌倉の人々乱れ入り、やけたる首のうちにて、義経の御首お見付け奉り、孝養申さんと、畠山殿見給へば、御くちの内より彼の文をおふき出したまふとなり。それより後は、これにてましますなりとて、お入り参らせ、七段に段を築、七重に注連おはへ、其の内に納め給ふ。 その後約束の如く、御心かわり申ける人々、悉く絶されける。また尾張よりむかいたてまつりし人々も、信長、城の肋をはじめとし、七十五日の内に、みなみな絶られければ、武事東都へかくれなくして申すやう、唐土の虎は毛お惜しみ、日本の弓とりは、名お惜しむと申すたとへの候が、この武田どのは、御合かわらせたまひて、天下に御名お披露目、御代に楊させたもふ物かなと、申さぬ人ぞなかりける。 又このよのあらましとりあつめし物は、柏尾にて、一夜御宿参らせしものなり。世を観じ見るに、人間五十年、流転の内お例ふれば、電光、朝露、石の火、夢幻の如くなるに、世の営にうち迷い、末の闇路おいかがせん。ま事の道にいらばやと思い、その比貴き人、慶紹と申せしの御弟子となり、元結きり、墨染のころもに身おなして、室の扇の明暮に、念仏申経よみ、心意お清して、その暁おまつところに、武田の御一門、落人とならせたまひて来たり、コ僕の御やどとおふせければ、たてまつりしに、其まま世に出させたまわず、ついにはかな くならせたまへば、御いたわしき事かぎりなし。いとせめて御名ばかりおも、留まいらせ、草葉の露のきゑぬまの、忘形見にも、見事らはやと、おもひてかく記置まいらせけるとかや。さきの名号歌よみて、たてまつりしものの尼なり。
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最終更新日
2021年02月20日 20時36分29秒
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