山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/02/25(木)16:32

一茶の生涯 江戸の生活~帰郷 島崎藤村著

小林一茶の部屋(8)

一茶の生涯 江戸の生活~帰郷 島崎藤村著   一部加筆 山梨県歴史文学館 古大家の生涯に就いて考へて見ても、晩年にして達した人がいつの時代にもさう沢山にあったとは思はれない。 一茶はその稀な人の一人だ。その人の特って居るあらゆるものが隈なく熟するやうになり、長い独身の生活からも解放さ妻を恵まれ、子を恵まれ、豊かな詩の収穫を恵まれるまでに、五十年の月日を要したやうなのが一茶の生涯だ。この老年は尊い。私達が一条に就いて知りたいと思ふことも、いかにしてその豊かな老年に達し得たかであって、一茶の旅日記の深い興味を覚えさせるのもそこにある。   寝る外に分別はなし花木槿   夕燕我には翌のあてはなきな何いふ窮迫だらう。遊民遊民とかしこき人に叱られても、今更せんすべなく」いふやうな言葉が、これらの句の一つの前書きにも見える。鍋買、米買、暮の二十九日の「雨、味噌」などとしるしてある僅かな断片的な言葉を通しても想像されるやうに、本所五ツ目あたりでの一茶の生活はいかに佗しいものだったらう。こゝには「貧しさをも富めりとする」といふやうな超越は味はれない。在るものは、赤裸々な貧乏と、それを耐へ忍ぼうとする人の現実の苦しみと「貧じて分を知らざれば病を受く」との反省と「米高値なるが故に、薪高値なるが故に、玉をかしき、根を焚く」としてあるやうなユウモアとである。この窮迫の中で、一茶が一度故郷の柏原に帰って行くくだりは、日記の中でも最も私達の心を動かす頁の一つだ。故郷とは、人の少年時代の記憶のあるところに外ならい。「国に行かんとして心すゝまず」 と書いた一茶は柏原の農夫を父とし、三歳の時に迎へた一婦人を欄母としたといふ、その少年時代の記憶のあるところへ帰って行かうとした。 彼は腹ちがひの母子の苦い争闘を深刻に経験した人の一人だ。日記で見ると、あの時の一茶は江戸から大宮へと取り、深谷、安中を経て峠に二日を賢し、軽井沢から、上田、善光寺へと出て、都合九日もかかって柏原に入ったとある。   雪の日や古郷人偲ぶあしらひ  夢寝にも忘れなかった故郷の方で彼を待って居たものは、こんな不機嫌なものであった。心から信濃の雪に降られても これらの句を読むと、一茶その人の慟哭を聞く思ひをする。同時に彼の一生を支配したと言ってもいゝほどの少年時代の深い影響を思はせられる。 一茶の句にあらはれた「ひがみ」の多い性癖が継子としての彼の生ひ立に基くとは、多くの人の一致するところである。彼の小心、彼の遠慮深さ、「人の心は山川よりも険しく天よりも知り難し、天には春夏秋冬日暮れの機あり」と嘆息してあるやうな彼の不断の心づかひ…‥これらは皆、不和な家庭の裡に知らす識らず養ひ来った少年時代からの深い影響に相違なからう。彼の小心と遠慮深さとは、日記にもあらはれて居るやうに痛々しいほどのものだ。しかし、彼が多年の放浪生活の間にあって、一筋に自己の道を踏んで行ったといふのも、多くの時代の誘惑から自己を護り得たといふのも、その小心と遠慮深さとからではたかったらうか。詩人としての一茶を考へて見るものに取っては、彼と同時代に戯作者としての三馬、一九のやうな人があり、浮世絵師としての歌麿のやうな人があり、戯作者としての鶴屋南北のやうな人があり、歌人としての千蔭のやうな人のあったことを忘れてはなるまい。一茶が旅日記をつけた頃は、江戸時代の文化が爛熟の絶頂に達したと言はるゝ所謂文化文政の初期にあたる。その空気の中に私達は信濃の水内地方から出て来たやうな一茶を置いて想像して見たい。日記を読んで行くうちに、私達は涙をさへ誘はれるやうな気のして来るのは、ただ彼が極度の窮乏に耐へ忍んで居たからといふばかりではない。無器用で、・正直で、狭量で、多分の野性に富んで居て、彼自身の言葉を借りて言へば『江戸じまぬ』人の放浪生活が、常時にあっていかに不調和なものであったかは、想像するに難くないやうな気がする。同じ徳川時代とは言っても、一茶がわが国で十九世紀初期の詩人であると考へて見る処に、また別様趣が生じて来る。全ての物に近代の燭光の輝きがあり、人の精紳が発揚し、學問も芸術も一斉に歩調を揃へて進んだかと見えるわが国での十七世紀に、詩の燈火を高く掲げたやうなのが芭蕉だ。それに比べると、一茶の時代は飲食の刺戟からして異って居たと思ふ。一方には武士的新人としてしての頼山陽のやうな人が日本外史の稿を起しはじめて居る。歌麿の浮世絵を見ても知らるゝやうな、デカダンスの傾向はその間に濃く漂ひ流れて居る。何志に精紳の統一が求められたらうと思はれるやうな時だ。こんな激しい時代の動揺と、爛熟し頽廢した飲食の空気とは、むしろ一個の多感な野蛮人を必要としたかと思ふ。またその野性なしに、一茶があれほど独自の詩境を開拓することも困難であったらうと思ふ。一茶は詩歌の上で極度まで自己を打ち建てゝ行った詩人だ。彼ほど自己を中心として、「我」とか「己」とかの言葉を憚らず使用した人は俳諧の世界にもめづらしい。およそ詩歌の集で詩人の心の歴史でないものははない筈であるが一茶の書き侵しかもoでは殊にそれが目立って見える。旅日記にあるかすかすの句は、詩歌の形式によって書かれた自叙傳とも言ひたいものである。そこに詩人の強い執着が見える。一茶は自然詩人であろうか、ある人は芭蕉すら人間本位の詩人であると言って、純粋な意味から言へば、一茶はもとより自然詩人とは呼びがたい。彼が創造した苦笑は、飽くまでも自己を中心としたもので、その底には一種の飲食苦とも言ふべきものをすら済ませて居る。旅日記の随所に散見する盗難、殺人、出火、男女の身投げなどの記事は、所謂花鳥風月を友とする俳諧師の手帳には不釣合なもので、おそらくその點で読者に奇異な思ひを抱かせるであらう。けれども、詩人としての一菜の眼が絶えずさういふ社會的の事象にそゝがれて居たと想像するところに、私は特別の興味を覚える。そこに解を得ることも多い。一荼の俳句に見逃しがたいと思ふことは、物の不釣り合いなところに寄せてある滑稽だ。  そこから度外れた感じを喚起する。これは英語でいふ、grotespueに近いものだらうか。芭蕉の心の深さをみせたやうなユウモアを味わった後で、この一茶の滑稽に接すると、ちょっとまごつくやうな心地をさへ起させる。これは一茶の創造した特有の美であり、他の持たないものを持って居た証拠だと解すべきあらう。    うつらうつら紙衣仲間に入りにけり   家もはや捨てたくなりぬ春霞   木つつきの死ぬとて敲く桂かな薮の蜂来ん世も我にあやかるな これほどの深い嘆息が日記の中に泄してある。しかし、日記は終りの方に近づけば近づくほど、詩人としての心の澄んで行った跡が見えて、それを辿って見るのも楽しい。日記などを読んで見ても、吾国の早い伝統ともいふべき微細な寫實主義のいかに根深いものであるかを思ふ。一茶のやうな強い個性なもった詩人なればこそその繊細な寫實主義を突過することが出末たのだとも思ふ。   屏や憎まれ草も仲支度旅日記一巻はこの憎まれ草の仲支度だ。萬苦を経て後に述したやうな人の長い準備の記録だ。ある人も言ったやうに、一菜は芭蕉のやうな大きな詩人ではないかも知れない。あの芭蕉に見るやうな純粋な心はあるひは一茶には見出されないかも知れない。けれども、私達の煩悩を代表して居るやうな一茶の強い執着は、自己の欲するところを芸術にも生活にも実現せすには措かなかった。その心は晩年に到るまですこしも衰へなかった。芭蕉や蕪村に比べたら、一茶はずっと私たちの時代に近い人だ。 五十にして冬籠りさへならぬなり と一茶は正直に、冷たい涙を見せて居る。  一茶の生涯 江戸時代の一茶 川島つゆ 一部加筆 山梨県歴史文学館 江戸時代の一茶いへば広義に聞こえるが、私は其の中特に江戸本所について小見を述べたく思ふ。一体、一茶逝いて僅に百年を閲するのみであるが、其間世相の変遷甚しかりし爲か、彼の江戸時代、殊に年代を遡って所謂無名俳人時代の記録は仝々これを訣くと云ってよいのである。彼の遺稿「父終焉記」其他に頼り、十四歳(安永五)出府説は殆ど斯を容れぬ事実であるが、其後二十五歳(天明七)當時葛飾派の二六庵竹阿の許にあり「圮橋」と號するに至ったその間の消息は査として居る。越えて寛政二年、一茶二十八歳にして師の竹阿没し、翌春一茶坊と名乗って行脚に志してより後の十年間は多く行旅にあり、此開諸國の俳人と交遊し、世相人情に通じ、後年の彼の吟腸を養ったことは勿論であるが、それとても寛政七年の紀行以外には、断片的記録を残すのみである。扨、一茶既既に三十九歳(享和元)頭髪早くも霜を交へて猶漂泊止まず、偶々同年初夏、郷里柏原に帰省の折、血縁深くも父の発病に逢ひ、約一ケ月日夜看護の努をとり終にその臨終に侍した。この一ケ月間の日誌が有名なる「父終焉記」で稀に見る悲涙の文字である。一茶は爰に於て初めて全人的にその性格及び悲惨なる境遇を吾々の前に披瀝して居る。父亡き後の一茶は、誠に天涯孤独といふべき人であつた。親もなく妻子なき彼は、例えば荒野を行く旅人の如く忽然として消え失せても誰一人哭いてくれる人もないやうな淋しい生涯であった。同時に、其の後の彼の生活こそ、真実の彼自身のために活きようとする人間の力強い一歩々々であったとも云ひ得る。 父没後、異母弟継母等との論争をあとに再び故山を捨てた一茶は、暫く江戸市中を流遇して居たらしく、やがて本所の五つ目に住したことは、翌々年の『享和三年句帳』に依りて明らかである。   江戸本所五ツ目大島   愛宕山別当 一茶園雲外 猶、翌文化元年より同五年に至る遺稿旅日記(勝峰晋鳳氏校訂)の扉にも同じく「本所五ツ目愛宕山別当一茶」と記入されて居る。この二遺稿はこの後に来る『七番日記』と共に元一茶自らの備忘と句帳を兼ねたもので、従って傳記を極める上には甚だ不満足なものであるが、然も彼の生活芸術を考察するに當って無二の好資料たるを失はぬ。私は先づ一作家…‥一俳家の特色とか圓熟境とか云ふ語について思及ぼしたい。 特色とは要するに、個性の解放であつて、一作家が或點に到着する迄の歩み方、歩み癖とも名づけ得る。従つて其處には作家自身無意識ながら或る帰着點が暗示されて居る譯である。また円熟境とは、既にある水平にまで達し得た境地であつて、其の處には湖の明澄と静けさはあるが、既に怒濤は形をひそめて居る。其處には僅しか進歩がない。明るい淋しさはあっても苦悩の喘ぎは聞かれない。どうかするを倦怠さへ覚えさせられるのである。それを私達は一茶の「おらが春」以降の作品について感ぜさせられないだらうか。然してその特色も未だ出切らす、しかも迷ひつゝ猶覆ひ難い個性の閃きを見るのが一茶の本所時代の作品である。其處には未だ有餘る一茶の精力が、迷となり努力となり、悲鳴となり慷慨となって交錯して居る。一茶の作品をして近代的或は人間味云々の故を以て珍重するなれば、實に江戸時代の彼の作品彼の生活こそ其意味に於て最も研究の價値あるものと思ふ。然してまづ江戸時代の一茶はいかにして生活して居たか、それこそ吾々の第一に知りたがることで、また知らねければならぬことで、然も今日まで諸家の最も知るに苦しんできた問題である。一条の師二六庵竹阿歿後、二六庵を襲ぎ「菊明」と號したといふ説は勝峯氏考に依り全々人違ひとして覆されて居る。即ち一茶には立机の形跡なく従いて點料を以って衣食の資に充てたとは思へないのである。長い漂白の間、一茶は一個の遊俳として、俳諧修行者――芸術乞食の扱いを受けて国から国へ彷徨うたものと考察するより他はない。然して本所時代に於ける宿所附けの「愛宕山別当」は何を意味するのであろうか、勿論別当は寺家の職名で、一寺の長官を指し、転じて諸社の別当職の名があるが、また、ごく普通に「社務所」位の意にも用ゐられるさうである。私は先づ大島を探ねた。幸にして愛宕神社は大島町二丁目六〇七、八番地に二百坪の敷地と千戸の氏子を擁して現存して居た。但、現在の場所には震災前に移転したもので、以前は現在の地より約二丁西北に當る六六番地、堅川と小名木川を繋ぐ茶屋掘のほとりに鎮座していた。古い社はは災大の飛火のために焼失したさうで借しいことであつた。猶昔時の模様を追究したく、私は神社の世話人を歴訪したが、古老は逝き、まして常時著名でもなかった一茶の消息については何等得なかったが、同所山田氏の談により引績き「中之郷カラタチ寺()成就寺」任職を度々煩はしことに依て、常時の大島の大體を知り、引いては一茶の生活状態にまで一耬の想像の糸を繋ぐのであった。同地は以前中ノ郷出村と称した。その所以は、愛宕神社は泥中ノ郷カラタチ寺の寺城、現今のサッポロビール内に祀られてあった。愛宕御社も恐らく其の邊が牛島と呼ばれた昔より鎮座して居て、中ノ郷五ケ町の鎮守となって居たが、徳川四代(?)将軍折同地に佐竹家下屋敷の営まれるに付き、民家十戸と共に大島に移転させられたのであった。この問の経緯は、當柳沢家が大名に列したについては佐竹家が預って力あったさうで、下屋敷は柳沢家よりのコンミツションだとか云はれて居る。その口碑に従へば、神社及民家の珍物費も全部柳沢家から支出されたものらしい。現今でいへば買収されたのである。大島の地所は八百貳坪、檀家某の所有であったが化政度に至り某より寺へ寄進されたさうである。その内神社の敷地は約百五十坪であった。神社と共に珍物した民家十戸の中、宇田川本家(現御社前)の如きは現今十七代に及んで繁栄して居る。右の事情で愛宕は寺と分離したが、前々よりの関係上、毎年三月二十三四日の祭典には寺から拝みに行ったさうである。さういふ譯で、紳主も居らす、無論別当職といふやうなものはなかった。ただ畑と藪に囲まれた淋しい社であったのだ。大島町の発展はごく近年のことで、十数年前までは小松川等の田合よりも淋しく、藪には狐狸が棲み、少しく高處に立てば利根川まで見通せたほどであって、御社のあたりも到底人の住めさうもなく荒果て居たが、しかし、山田氏等の幽かな記憶に拠れば神社に附属する道具小屋、間口二間、奥行五六間の小屋は、どうやら人の住めそうな、また住んだらしい建物であつたという。叉神社より少しく誰れた掘際の宇目川家米蔵の番小屋のやうなところには住人があって、不思議に神社の祭典用の面類が蔵されて居たと云ふが、私も一も二もなくその道具小屋こそ曾て一茶が独り淋しく住みなした跡であつたらうと思ふ。そして、前後の事情から押して「爰宕別当」は梢々自嘲を含む一茶の自称であったかと考へられる。ただ、爰に文化元年四月九日の日記に「螢順法印迁化」同士五日には「柴順法印迁式」翌月二日には「院代来ル什物改」とあって、是等の記事と愛宕とを何か関連させて考へたいのであるが、成就寺住職の言によるも同所に法印(修験道或に一寺の住職の尊称)など住したとは考へられず、叉「什物改」の如き形式は寺格を備へぬところには存しないさうである。但、日記の宿所附以外に、別の断片遺稿に「アタゴ山住寺」といふ書入れもあるさうで、加之、文化三年の金町参詣記(中村本)に「同行も同じく優姥寒にて云々」とあるので、常時の一茶は専門の僧侶(可笑し尨言葉であるが)でなくとも、法體ではあったらしく思はれる。交友にも僧徒も多く、日記中にも経文及寺社に関する記入が頗る多い。出府以末寺家と因縁深く、何れかの寺にあつて勉學したらしくも考へられる。然しながら僧形であったその一茶を養ったとも一概に考へられないのである。果して法體で、お留守居格で愛宕に住み込んだとしても、常時大島の戸数は三十二三戸より外なく、その三十二三戸も月々氏子の禮を取ったやうな話も聞かないので、愛宕としての収入は考へられない。或は、神社と宇田川本家との闘係上(現在神社の敷地に宇田川家の寄進であり、従来祭典等の費用も牛ば同家に於て負担される由)同家より幾分米塩をみつがれでもしたか? これは私の話を聞かれて山田氏等の推測であった。兎に角一茶の貧しかったことだけは事實である。三寸ばかりの蚊記の切り持て紙帳の窓となすことにうれしく(文化元年四月十九日 日記)  貧して分を知らざれば盗みか、おとろへて分を知らざれば病をうく       (文化元年四月二十日記) これ等の文字を辿っても常時の一茶の佗しい生活心境が窺へる。そして一茶は殆ど毎月房総方面を行脚(俳諧)して居た。然し一茶はどの期間を愛宕に住したかと云ふに、確かなことは一茶四十一、二歳の享和三年と翌文化元冗年中であって、同年末期には既に他に引移って居る形跡がある。 文化二年二月日記中。 廿日 晴 曇 米買 アラク金八来ルこのアラクは大島即ち中ノ郷出村一帯の通称であって、現今愛宕神社前の道路にアラク通りの称が残って居る、アラクは愛宕に住んで居た一茶なれば「アフク金八来ル」とは書かない筈である。然して文化三年九月の日記には「おのれ住める相生町五丁目云々」の記事があり、遡って元年九月廿六日記には「祗兵と共に相生町見に行かへるさ両國茶店にて」と前書ある句が載ってて居る。祗兵は一茶と入魂にして居た流山邊の俳人である。察するにこの祗兵と共に空家を見に行って、間もなく引越したものであらう。翌月、即ち十月廿八七両日、三十日、障子張の記事がある。元年師走の句、    選富し庵に寝ても師走哉   ふるは雪隣りも同じ手鍋也   前の人も春を持しか古畳 師走四日に机を買って居ることもこの間の消息を物語って居るやうである。節餅は俳友心可及富次郎といふ人から貰っている。然しこの頃一茶は頻りと「人心険山川難知天」といふやうな書入をして居る。或は愛宕引佛ひについては周園と感情上の葛藤でもあったのだらうか。それにつけても同年の「榮順法印迁化」以下の記事は何等か一茶の身邊と糸を引いて居るらしく感ぜられるが、考察の端緒を得ぬことは遺憾である。相生町居住後も生活の方便としては矢張り房総行脚と隨斎成美の庇護位しか考へられない。「米高直なるが故に、薪高直なるが故に、玉をかしき桂をたくと、生活苦を訴へて居るのも文化二年の正月である。翌文化三年は、   遊民々々とかしこき人に叱られても  今更せんすべくもなく   又ことし婆婆塞ぞよ草の家   隣へよばれて   君が世やよその膳にて花の春 右様の有様であった。然して文化四年四月十六日心文瀧耕舜を悼む記(中村本)に吹風の跡方もなき讒(そしり)にあひて武門を放たれ、再び君に仕ふるも傭しとや思ひけん、堅川の邊りに假そめの栖を結び(中略)我又此川近く住居して僅に三百歩を隔て云々も、相生町五丁目として考へる事が出来る。相生町五丁目は二之橋近辺である。猶、文化五年十二月十七日の草庵を失ふ記(中村本)中「葛飾の古巣」とあるのは、多分江東の古名に従ったものであろう。故東松露香氏その他の深川八丁堀居住説は如何なる材料に拠られたか知らないが、私の狭い見聞に於ては、深川に八丁堀といふ地名は存しないやうである。これは恐らく、本所時代の前後に京橋八丁場の小路に住んで居たことのあるのと、文化二三年の日記に「富津より深川油堀に入」叉「双樹と深川に入」等の記事とに依って混じたものではなからうか。何れも房総行脚よりの帰途の記入である。扨、二つの遺稿句・日記を通して、更に一茶の作風及び内面生活に立入って見よう。先づ当時の江戸俳壇の風潮は如何にと云ふに、芭蕉の遺詠既に遠く、安永天明中興の後を受けて、蓼太・白雄二系の勢力最も盛んな時代であった。蓼太門にして雪中庵四世を襲いだ完来、吐月、壮丹、宣麦、午心、沙羅。白雄門の道彦、巣兆、保吉、葛三、冥々、碩布等就中完来・道彦・巣兆等は大家としてそれぐ門戸を張って居た。一方一茶の出た葛飾派は三世素丸牛耳を執り、野逸、白芹、我泉、蛙水等の徒を擁して宛然群雄蜂起の體を呈したが、實は何れもどんぐりの背比べであって雪門、春秋庵(白雄)系、葛飾派を総じて特筆する程の人物もなく、大體蓼太の平易通俗な俗調に化せられたと称しても敢て過言ではあるまい。然し一茶が若しも俳人として世間的成功を翼なれば、是非とも素丸門に参ぜねばならぬ筈であったが、少しも素丸を頼った形跡のないのは、強ち彼の所謂人馴染み悪い正確に依るばかりでなく、常時の俳壇に対して一個の識見を有して居たのであったらう。少くとも、勿体振った宗匠として、實は幤間俳人として門戸を張るが如きは野性的な一茶の性に合はねことであつたらしい。然して一茶は俳壇の閥外にある夏目成美(隨齋)とも親しく交遊寧ろ兄事して、成美によりて絶えず庇護も受けて居たらしく推察される。隨皆成美は涛草蔵前の札差。その父宗成は祗空等の所謂法師風の俳風を傳へて居るが、成美は誰に師事するともかく全く常時の何派ににも属して居なかった。然も門閥の殊に喧しく云はれる常時にあって毅然と頭角を期して居たことは、決してその富力に依るのみではなく、洗練されたる都会趣味と、更に温雅なる人格と、尋常俳諧者流を抜く学識との致すところであった。一茶は故郷に隠棲後まで、成美に點を乞ひなどして居る。年齢も一茶より十余年の長であった。然し一茶を後年の洒脱飄逸なる作風により皮相の観察を下して、彼を無学者なりと解することは大なる過である。正規の學こそ踏まなかったが、彼の性格の執拗とまで云はれる粘り強さを以て、永年刻苦、句作と勉學に余年なかったらしい彼の作品には年を逐うてそれ等の影響と進歩の跡をまざまざと認め得る。誠に本所時代より約十年を隔つる寛政紀行を見るに   里かすみぬ里人は我を霞と見なん哉  将ところどころ何思出て餅の音  山やく山火となりて日の募るゝ哉  起て見れば春雨はれず日も暮るゝ哉  かくあらば衣売るまじを春の霜 当時の俳調は概ね葛飾派の祖、山口素堂初期の作風と似たるものである。例せば、  とくとくの水まねかぱ来ませ初茶の湯      素 堂  浮葉巻紫此蓮風情過たらん            同  和布刈遠し王子の狐見に行かん          同 猶、同紀行中には万葉張りの長歌なども見える。常時の俳人にして万葉に心を寄せるさへ既に珍しいことである。享和文化の作は寛政時代の拉屈な調からは全々脱して居る。享和三年句帖(愛宕時代)四月には「詩経諾講譯出席」の記事があって、同年中の句作は殆ど詩経の章句に拠って居る。それに依ると、同年末まで、詩経中巻半ばまで順序よく聴講したやうである。何れに講義があったか知り難いが、米鹽乏しく、地は葛飾の邊鄙たるにも拘らず、その勉強振りには驚かれる。それ等の作品について見るも、何れもかりそめならず味解し得て居るやうである。講義出席の故か、其頃の行脚日数は極めて短期間であったやうに思はれる。   揚之水  さし汐や茄子の馬の流れよる    羔■  かつしかに知人いくら梅の花   防有鵲巣  揚土に何を種とて麥一穂   簡兮  梅咲くや門をならべし昔好   燕々  木がらしの吹行うしろ姿哉   江有氾  朝火済てむら雨過て不二の山 「かつしかに」「栴咲くや」の二句の如きは、詩意を含んで圭角稜々たる一茶の内憤を感ぜしめられる。「揚土に」「朝火済て」の比喩の巧妙さ。「木がらしの」は衛壮姜送帰妾記中の詩句に拘泥せずよく別離の情を汲んで居る。「さし汐や」至っては、「揚之水不流束楚」の詩句を一蹴して生の一茶が顔を出して居る。一茶はまた易にも精しかったらしく「卦」を前言等に用ゐて居るゐで、専門の智識を持たずば難解である。其他支那語なども書付けてある。然し、文化元年正月には心中何事か期するところあるらしく、日記の冒頭に「今歳称革命年、倩四十二年他国送星霜」とある。そして、享和句帖の漢詩趣味をサラリと捨てゝ、   我庵の貧乏梅の咲にけりあの藪に人の住めばぞ薺打 の如く梢特色を見せて居るが、然し一茶とても大體常時の風潮になづんで居たのである。   春立や見古したれど築波山   洒ありと壁に張りけり春の雨 等好例である。叉、特に成美の影響の認められるものがある。   白けしやあかるい雨が二日ふる   成美   みそ萩や水につければ風が吹く   一茶   なま壁に人住みそめて春の月    成美   浚川や鍋すゝぐ手に春の月     一茶  野の董しつかに歩む鳥かな     成美   草の葉や燕来初めてうつくしき   一茶   藪竹の狭い空より雁の聲      成美   門口の灯かすみて帰る雁      一茶 成美の軽い調子は一茶の共鳴するところであつたらう。この外常時の錚々たる道彦・巣兆等とも親しくして居る。然も    ちる木の實赤ふんどしがうれしいか   野は桔れて何ぞ喰たき庵哉 の如く突如として野性の飛出して居ることは面白い。 文化元年十一月二十五日記   唯女子與小人爲難也近之不遜遠之則怨    鳥ともに糞かけられし柳哉 一茶の女性親とも見れば見られる。前述の如く、この頃は「世路山川領ヨリ嶮シ」「小人同而不和」等の舎人多く、何となく院悪な気が感ぜられる。叉、心力と體衰の不調和も感じて絶えずいらいらして居たらしい。 老楽の重る年はかくすとも頭の霜に顕れにけり (元年十一月十日記) この年以後の一茶は一層行脚に精出して、毎回の日数も約一ケ月に渡って居る。その頃の旅はなかなか楽ではなかったらう。「我孫子より北へ入、野田を過て流山に入る道に一丈ばかりなる蛇幡る」・「シヤウケン掘入、鹿出ル」等の断片によっても一笠一に託して。船に陸に面を晒して行く一茶の淋しい勇姿が想像される。炎日病と称して、折々暑気當りにも苦しんだやうである。この行脚は実際口過ぎと称すべきであって、愚直なむ天狗俳人のお相手は、時に一茶の心を腐らせることもあったらう。   来るも来るも下手鶯よ窓の梅 これは下総の俳人が一茶を訪れた日の句である。然し、行脚のわらじ銭の貰ひ溜めでもあるらしい時には、無骨な一面多趣味な一茶は芝居・操り・縁日等、よい心持さうに遊び歩いて居る。けれども、文化二年の後半期は余程不景気であったと見え、行脚後も遊山にも出ず、殊に十一・十二月中は「髄斎朝飯」「誓願寺朝飯」といふ記事が散見して居る。朝起きて、飯だけ食べに行ったものと見える(相生町五目から蔵前の隨斉宅までは三十分足らずの行程、誓願寺は浅草田島町にあり、住職と入魂であった)窮迫の極にあつて精神も沈滞していたらしく、句数も少ない。   炭の火や夜は目につく古畳   宵々を見へりもするか炭俵   炭くだく手の淋しさよかぼそさよ  有爲の世はけふか翌かと鐘の音をあはれいつまでも聞かんとす捨てぶちをいつまで見べき夜の霜   大年や我はいつ行く寺の鐘 同三年の正月は隣家に招れて祝儀の膳にありついた程で、貧しさに變りはなかつたらうが、それでも幾分ホツとしたところが見える。    とぶ燕君が代ならぬ草も無し   かつしかや雪隠の中も春のやう   行くは行くは江戸見た雁が見た雁が   陽炎や寝たい程寝し昼の鐘   煙してかはほりの世もよかりけり 六月には山王祭。七月には四百文張り込みで友人耕舜ほか一人と市村座見物。及び若一王子と田楽見物をしている。九月には俳友心可及び一茶と同郷の二竹に依頼されて、病気及び縁談について易断して居る。この外にも一茶は卜筮によつて、チョイチョイ小遣い稼ぎを得ていたのかも知れない。一茶は白髪を余程気にしていたと見え、「白髪黒くなる藥くるみを擦り潰し云々」の書入れがある。歯性も悪かつたらしく、當時既に      初霜や莖の歯ぎれも去年まで然も、   飯の湯のうれしくなるや散るみぞれの子供らしさを失っていない。   初雪の素湯乞食に出たりけり蓋し、實情であらう。   夕燕われには翌の宛は無き 同年十月末「国にいかんとして心すゝまず」ながら江戸を立って、十一月初旬郷里の柏原に入つた。大方、父没後の異母弟継母の遺産分配に関する紛争を解決するつもりであつたらうが、鳳来人の彼に対して周囲は飽く迄も冷ややかであった。故郷に帰っても手足の伸ばすところのない一茶は世にも不幸な人であつた。      雪の日や古郷人のぶあしらひ   心から信濃の雪に降られけり 深々と降り積もる雪に行暮れた旅人の心。それは當時の一茶の心境であった。當時友人知己次々に喪ひ既に老を感じながら猶一個の漂泊者であつた一茶は、疎外されゝればされる程、一層郷土に対する愛着はいや増したろう。漢書に有  若人不能留芳百年臭残萬年 この書入れも何やらあだには  

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