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江島・生島と三宅島
『三宅島百話』池田信道氏著 島の新聞社刊 昭和48年刊 一部加筆 山梨県歴史文学館
(前略) 武家政治の時代は政治的、思想的に動揺の激しかった一時代である。貴人といわれ高僧と敬まはれた人々は勿 論、現職の天皇や上皇の如き高貴な人でも、配所の月をながめた例は数知れない。 先にも述べた通り、伊豆諸島はその遠近差によって流刑国の種類が分類されていたのである。八丈島は思想的感覚をもった人々が多く流されているので、流人文化としてみるべきものも多いが、三宅島は喧嘩や博突等好ましからざる罪科のために送られた人、が大半であるためか、教養ある大人物として歴史上に名を止める紳士は十指にみたない。したがって、これらの人々が三宅島に残した足跡で、特別称賛に値するというものは、それこそ五指にもみたない。ただこれらの人々が特殊な社会に生きていたために、後世に至って小説や講談の資料となり、又近年に至っては映画や演劇の中に生かされていることは、本人は勿論のこと三宅島のためにせめてもの慰めである。
* 江島事件 *
特に徳川大奥悲劇のヒロインとして艶名を馳せた、絵島事件はあまりにも有名であり、すでに多くの史家がその資としてとりあげている。然しそれらの中には真実の姿を大きく逸脱して、ただ興味をそゝるように記されているものがあることは、絵島、生島にとって誠に不憫なことである。 何人もうかがい知ることの出来なかった徳川大奥という厳しい砦の中で、妖しくも繰りひろげられた絵島、生島の愛慾絵図は、たしかに人々の興味をひくに充分な物詰りである。たまたま生島新五郎が三宅島に送られた流刑囚であることから、私も特別な興味に食指を動かした一人である。然し特別な興味といっても単なるのぞき趣味とは違う。当時の社会機構から考えて、大奥第一の権力者といわれた絵島と、河原者の生島新五郎が出合った数奇な運命が、私の琴線にふれたからである。 私はここで巷間伝えられてきた絵島事件について、その是非を論ずるつもりはない。ただ郷上史を探究する一介の学究の徒として、一見識を求めて絵島の配流地、長野県高遠町に十数回にわたって足を運び、その資料をあさってみた。世にあるときは十万石の大名と肩をならべた大奥の権勢家も、配所の月をながめた流人の身であってみれば、残された僅の遺品と多少の逸話だけが、当時を偲ぶよすが(便)である。 三宅島に残る絵島という民謡は、生島との悲しい恋の心をうたったものである。
「花の絵島が唐糸ならば たぐりよせたい膝元え」 「絵島ゆえにこそ門に立って暮す 花の絵島がくればよい」 「絵島ゆえにか門には立てど 見せてたもれよ面影を」 「雨はショボショボ夜はしんしんと 心細さよ夜は更けて」 「ござの広さよ枕の長さ 床のさみしさ夜のながさ」
生島新五郎のように、煌びやかな舞台生活をしていた者にとって、又松島という犯人のある者にとって、ただ潮騒だけに明け暮れる当時の三宅島の生活が、いかに味気ない苫悩にみちたものであったかは、幾星霜を経た今日でも容易に理解できるような気がする。 又高遠町にもこんな民謡が残されて当時をしのばせる。 「かりが渡ると出て見る江島 今日は便りがきわ(や)せぬか」 生島新五郎からの便りを待つあわれな松島の心境がにじみ出ていて切なさを覚える。 封建時代、権力者に盾つくことは、直接死につながった。私達は太平洋戦争という、大きな犠牲の副産物として言論と筆の自由を獲得し、更に恋愛も自由平等の思想に変って、若い人達にとっては全く笑いのとまらない良き時代である。もともとそれが正しい自然の姿であろうが、当時と比較すれば誠に隔世の感が一入で、絵島事件は同情というよりは、むしろナンセンスに思われる点がないでもない。
* 江島 * この絵島は、本名を白井みよといった。 (註、配所に送られてからは江島という字に替えた)
千五百石の旗本白井家の娘で、容姿は色白で骨太の飽満な肉体の持ち主であったといわれる。父の死後、兄の平左衛門が失敗して家をつぶし、彼女は十四才で放り出され、あらゆる世の辛酸をなめる羽目に立たされたが、当時幸いなことに、伯母にあたる浦尾という人が尾州家の奥女中をしていたので、これをたより奥女中としての第一歩を踏み出した。 後に大奥にあがり、月光院(六代将軍家宣の側室お喜世の方、左京局ともいう七代将軍家継の生母)のお局に入り、絵島という名前をもらい、そのお使い番になった。 一口に奥女中といっても、その職階制は甚だ複雑で、約十八段階に分けられていた。 先ず上位から、上臈御年寄、御年寄、中年寄、御客会釈(あしらい)、御中臈、御坊主、御小姓、表使、御次、御右筆、銅錠口、御切手、呉服之間、御三之間、御仲居、御火之番、御使番、御末の順である。 そしてこの十八段階の職階が、御目見以上と以下に分れていた。御目見以上は将軍、御台所におめどおりできたが、御目見以下の者は将軍、御台所の顔はおろか、後姿もみることはできなかったのである。 当時、大奥に仕えたこれらの奥女中は五百人といわれるが、このうち御中臈は将軍、御台所(将軍の正妻)の側近くに仕え、身辺の世話をする役目であった。将軍には通常七、八人の中臈が仕え、御台所には十人前後の御中蕩かついていた。また歴代の将軍には、この他に御手附御中臈がいた。つまり愛妾、側室といわれる人のことである。 十一代将軍家斉の愛妾は、子供を生んだ者、が十六人をかぞえ、子供の数だけでも五十八人という伝説的な金字塔を打ち立てゝいる。
ともあれ江戸城大奥は、一人の将軍をめぐって多くの美女達がその寵愛を競う愛慾絵図の修羅場と化し、醜い暗躍が渦を巻いたのである。 絵島はこの別世界で暮すこと約二十年、表高六百石(一説に四百石ともいう)実収三千石、出入りの行列は十万石の大名と肩をならべる御年寄の格式にまで進み、大奥では主人の月光院に次ぐ権勢家になった。
*生島新五郎
生島新五郎は江戸山村座専属の歌舞伎役者で、大阪生れの大阪育ちであったが、その芸、が見事であるということで、江戸の山村座にスカウトされた人である。その得意とするところは濡れごと(和事ともいう、恋愛もの)で、当時ならぶ者がないといわれる程の人気役者で、山村座にとっては当然ドル箱的な存在であった。 然しこの時代にはいかなる名優といえども、役者は河原者とさげすまれ、享保の改革時には、人問社会で最下級の取扱いか受ける存在となったが、江戸全期を通じ、芝居は当時の庶民の唯一の娯楽で、わけても大奥の女中とは切っても切れない水魚の関係にあった。したがって芝居小屋にとっては、大奥の女中は最大の顧客で、宿下りの時期になると女中達の好むような特別のプログラムを編成したという。 この頃お代参といって、歴代将軍の命日には上臈やお年寄の人達が、多くの女中をしたがえて芝の増上寺や上野の寛末寺え参詣するのがしきたりで、その帰りには必らず芝居見物をするのが慣例のようになっていた。そして後にはお代参とは形式で、芝居見物が本旨のような姿になってしまった。 当時江戸には中村座、市村座、山村座、森田座などの芝居小屋があって、何れも庶民娯楽の殿堂として隆盛をきわめていた。先にも述べたとおり、生島新五郎は山村座の人気役者で、関回流のねっとりした濡場の演技は、女性の官能を妖しくゆさぶったといわれている。 徳川幕府も七代将軍の時代に入ると、すでにその地盤も固まり、打続く大平の夢に馴れて総てが奢侈に流れ、特に大奥女中の御乱行が甚だしく、人々の噂にのぼるようになった。厳しい大奥の制度もあって無き状態となり、終(つい)にはツヅラ(葛篭)に男をしのばせて大奥に運びこむような振舞いにも及ぶ者が出て来た。これらの乱れについては、それなりの原因があった。 当時七代将軍は僅か四才で未だ是非をわきまえぬ幼年であった。 将軍職の実権は生母月光院と御側用入間郡詮房が握り、大老や老中が幕閣さえも物の数ではなかった。大奥三千の女護ケ島の中で、男は幼将軍と間郡詮房だけである。そのような状態の中でなにが起り、どんなことが行われたかは想像に余りあることである。やがて月光 院と間郡詮房の、みだらな関係が大奥の話題にのぼりはじめた。前将軍の正室、天英院一派は、老中等と図って月光院の失脚をねらっていたのである。 権力をめぐって、妻の座にある者と妾の争いであり、その渦の中に巻き込まれたのが、絵島と三浦屋こと生島新五郎の関係であった。然し輪島事件の直接の導火線となったのは、これら黒幕政治が主であるが、間接的な原因といわれるものは他にもあった。それはともかく、上の乱れは下々にまで及び、大奥の乱脈さは、乱れに乱れていた。 そもそも絵島と生島新五郎を近ずけたのは、浅草の薪炭屋柄屋善六という商人である。彼は大奥に納める薪炭類の販売を一手に握らんとして権力者の絵島に近づぎ、芝居見物に誘って生島新五郎との出合いを企んだ元凶である。したがってこの事件は権力だけの争いでは無く、その反面には利権のからんだ複雑な事件でもあった。そのような深い企みがあるとも知らず絵島は新五郎の心に迫る舞台姿にすっかり魅せられてしまい、大奥取締りという重要な地位をも忘れ、自から法度を踏みにじり、狂恋に身をおくただの女と化してしまった。当時大奥に仕えた女性の総数は三千人ともいわれる。女と生れて三十余年、格子なき牢獄のような特殊社会に生きて来た絵島が、男女の秘めごとに対して異状な興味をもち、生島新五郎という男を相手に女のよろこびを知り、恋の擒となったとしても、人間的には至極当然のことでありこれを責める理由は見当たらない。然し当時としては、不義はお家のご法度という不文律が存在し、しかも大奥の腐敗に切開のメスを入れるべき好機が侍ちのぞまれていた時期でもあった。 正徳三年正月十二目(一七三三)は五代将軍訓吉の命日である。絵島は主人月光院の名代として芝増上寺に代参を命じられた。十万石の格式をもつ絵島の行列には、百数十人の女中や徒士がしたがい豪勢のうちにも威厳の備わったものであった。然し駕籠にゆられる絵島の胸の中には生島恋しの思いが募り、身も世もあらぬ風情は隠し切れなかった。やがて代参もすみ行列はそのまま木挽町の山村座に向ったのである。 絵島が生島新五郎と暫しの逢瀬を楽しんでいる間に、供の者が陣取った二階の桟敷は乱痴気騒ぎがもちあがっていた。座主の山村長大大が手すきの座員を動員して酒の相手をしたのが悪く、酒気をおびた供の者達が日頃の欲求不満を爆発させて舞台などはそっちのけ、 文字通りの乱痴気さわぎで荒れ果てた。そのうち、こぼれた酒が下の桟敷に落ちて戸田という武士の額にかかった。彼は向う気の強いことでは日本一を誇る薩摩武士、そうでなくとも思いあがった不遜な態度にムカツイていた矢先のこと「即刻公儀に訴える」といきまいたが、徒士頭の平あやまりによって、その場は何事もなくすまされたが、芝居小屋には多くの眼があった。このことが逐一老中の耳に届くには、たいした時間はかゝらなかった。
やがて老中筆頭秋元但馬守(甲斐谷村藩主)の机上にその報告書が達した瞬間に、輪島と生島新五郎の運命がきまったのである。 大奥の腐敗を一掃するために、その機会を窺っていた老中に、絵島自身がその糸口を提供してしまったのである。 「世の中にかゝる習いはあるものと ゆるす心の果てぞかなしき」
世の中の人々がするのと同じことをしただげなのに、なぜ自分だけがこんな罪にならなければならないのだろうか。絵島は、誰にともなくこの不満をぶちまけたかった。老中からの逮捕命令にのがれる術はない。絵島は身分もわきまえず法度を踏みにじった自己の罪に観念の眼を閉じた。やがて裲襠を剥ぎとられ、無地の下着と細帯一本のみじめな姿、髪の根が解けてなんとも無残な罪人姿、昨日の権勢に比べて今日のあわれさ、役人にひかれて不浄門から去ってゆく姿は、白井みよなる女が、娑婆に残した最後の匂いであったかも知れない。
一方、木挽町の山村座では、「よめかがみ薄雪桜」の初日が開いたばかりであった。十手を振りかぎした町役人の一団が録台におどりあがり、由井正雪に扮した生島新五郎、丸橋忠弥の市川団十郎、狂言作者中村清五郎などを手当り次第に捉えてしまった。江戸の人気者が、次々と引きたてられて行く姿を見た群衆の騒ぎは大変なものであった。 やがて辰ノ口評走所(現在の裁判所)に於て、夫々の罪が決定したのが三月であった。処罰されたものは、この事件に関係したあらゆる階層の者を含めると、千五百人、処せられた者が九十人、大奥史上最大といわれた絵島事件のあらましである。 月光院と間部詮房は、自からに類の及ぶことを恐れて絵島等を見殺しにする考えで、ただ自身の安泰を図っていた。それとは知らない絵島は、いくら責められても月光院と間部詮房の関係については、最後まで口を割らなかった。 絵島は当初、死罪の判決を受けた。これを聞いた月光院は、さすがに気がさしたのか、老中阿部豊後守にその減刑を頼んだところ、死一等を減ぜられて俵島之流罪に変更、更に三転して、信州高遠藩、内藤駿河守の領内え永遠流(終身刑)と決定したのである。 正徳四年三月二十六日騎馬二騎、総勢五十八人に付添はれ、名誉も地位も剥奪されて、いまは罪人となった絵島は、網乗物に入れられて江戸を後にした。 武蔵野をすぎるとき
「浮世にはまたか之らめや武蔵野の 月の光の影もはずかし」
という、悲愁切々たる和歌を残していった。 想うに彼女は悪婦でもなく、また妖婦でもない、情火に身を焼き滅ぼした至極平凡な女で、大奥制度という特殊な世界が生み出した、悲劇的な犠牲者であるとみるのが正しいのではないだろうか。
信州に到着後は、非持村火打平という場所に囲屋敷が作られ、こゝで配所の月を眺めることになったのである。 外出は勿論許されず、食事は一汁一菜が原則であった。当時内藤公は三万三千石の小藩であり、輪島が大奥在勤中は、その足元にも及ばない存在であった。したがって当主の駿河守は、罪人ながらも輪島を決して粗略に扱うようなことはなく、絹かいことにまで気を使い、僅かのことも幕府の指示を仰ぐようにつとめた。幕府も内藤公の内状を察し、「絵島死去の他は届けるに及ばず」の一札を送っている。
輪島が送られてから二年後、つまり正徳六年には、幕府に大きな変化があった。先ず老中の秋元但馬守が死んだ。そして月光院と間部詮房との間にも秋風が吹き、やがて五月には七代将軍家継、が八才で亡くなられた。これにともない、紀伊中納言吉宗が八代将軍となって、享保の改革か始まった。先ず黒幕政治の元凶、間部詮房と新井白石が罷免され、大奥の粛正が断行され、緊縮政策が実施にうつされたのである。
この頃、内藤駿河守より幕府に対して、絵島の住所問題につき伺書が提出された。
「絵島事、長所寒国その上山方につき冬に至れば殊の外寒く、壁など落ち、苦しからざる儀に候わば城下に差置度存じ候」
この伺書はことなく許可され、新らしい囲屋敷が建設 されることとなり、これが完成するまで、絵島は高遠城内二の丸会所に移り住んだ。新らしい囲屋敷は高遠城か ら五町ほど離れた花畑という所に完成した。流されてからすでに六年の歳月が経ち、絵島は三十九才になっていた。この頃は内藤公の配慮により、名目的に監視人が付き添って外出も許可されていたが、絵島の心境はすでに有髪の尼であった。 その後は肉食を絶ち、深く仏門に帰依し、法話を間くためによく寺院に足を運び、時には寺僧を相手に囲碁に興ずることもあり、少なくとも外観でみる限り、悟道に徹した老僧の風格があった。 享保七年(一七二二)五月疑獄に連坐した者で、絵島、生島、山村長太夫の三人を除いて、すべての人々が赦免になった。 その後、さらに十五年経った元文二年(一七三七)には、絵島赦免の話がもちあがったが、絵島は 「親類縁者もない天涯孤独の身、夫と定めた生島も流刑の身であってみれば、今更行き場もないので、このまま内藤公の保護を受けたい」
と申出た。あわれなるかな絵島。高遠は山国である。柿の葉に色がつきはじめると、山 はそろそろ雪化粧の時期に入る。三十三才で配所におもむいた絵島も、二十八年間という苦渋にみちた生活のために、すでに髪にはうっすらと白いもののまじる年令に達していた。特に近年は関節の痛みに、顔をしかめて床にしたしむ日が多くなり、更に、かりそめの病で床についたまま、 寛保元年四月十日(一七四一年)六十一年の波瀾にたえたその生涯は、高遠城の子彼岸桜と共に散っていったのである。
私は昭和四十年六月、高遠町の古跡を訪ねたみぎり、絵島の墓に詣で、その冥福を祈って来た。生島新五郎が眠るこの三宅島からは、はるばる絵島の墓を訪ねたのは恐らく札が始めての筈である。以来十数回この地を訪れているが、その都度絵島の墓に詣でることは忘れない。蓮華寺の小高い丘の墓地に眠る絵島の霊は、さぞかしよろこび、かつ驚いたことであろう。それにつけても、しばらくの間は自身が生島新五郎になりかわったような錯覚におちいり、なんとも形容のできないような気分にひたったことであった。 信敬院妙立如大姉 としるされた案内板に、初夏の日がうっすらと映え、満々と水をたゝえた田圃の中には、すでに植えられた稲が生長の息吹きを感じさせていたが、心なしかあたりに漂よう寂しさは覆うすべもないように想われてならなかった。 武田、内藤の大名が栄華を誇った高遠の城もいまはなく、城趾に咲く子彼岸桜とアカシアの花だけが当時の名残である。すでに苔むした絵島の墓は然して語らず、私は息苦るしい程の感情を胸にたたみ、ひっそりと静かなたたずまいの城下町に別れを告げた。
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最終更新日
2021年03月21日 17時16分00秒
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