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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年03月28日
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カテゴリ:柳田国男の部屋

柳田国男先生 思ひだすこと 沢田四郎作氏著

 

定本 柳田国男集

月報 2 昭和372

    筑摩書房

   一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 

 昭和十六年柳田國男先生から「七月十四日、朝日の海上座談会にて米川丸にのり神戸に参り云々」といふ都ホテルでお書きになったハガキを戴いたが、丁度私はこの日に召集をうけ見習士官として天神橋旅館に仮泊してゐた。このお葉書も二十一日に亡娘志都子が面会に来て手渡ししてくれたもので、米川丸船上の「海の日に因み潮風に語る座談会」の記事あるこの日の新聞を添へて持って来てくれた。そして一週間後には神戸港で軍用船一七六号に乗船、鏡の様な瀬戸内海を走り出したが、われらの行く先は南洋・台湾・南支・沖縄或は樺太といろいろ想像されてゐたが、私はひそかに多年のあこがれの沖縄を願ってゐた。船は狭い関門海峡を通過し、対馬の島影をよぎる頃には漸く行き先も判って来て大連に入港したが、上陸の夜半、俄かに出勤命令によって北上することゝなった。四平街より白城子などを経て昂々渓、斉々吟爾と、窓外にうつる人々の生活様式は、今まで日本より知らぬ私には大いなる驚きであった。蒙古草原への夢は破れて狼の多い小興安嶺を横ぎり満洲の最上端の黒河に到着し、丘陵続きの山神府に新しく移された黒河陸軍病院に勤務する事となった。当時孫吾然と

いはれた発疹チフス様の伝染病流行にすこぶる多忙であったが、退庁後の独身官舎での生活は、とても退屈なものであった。

私が内地から持って来てゐた柳田先生の「雪国の春」は、何回も読みかへしたことか。今も懐しい思ひ出になってゐる。某日、私は黒河の街へ出かけた。洞々たる黒竜江を距て、ソ連のプラゴエチエンスクの街が見え、河岸のトーチカに出入するロシヤの兵士の姿も肉眼で判るほどである。この街の唯一の本屋の梅園の書架に、「孤猿随筆」が三冊並んでゐるではないか。私は胸躍らせて三冊を包んでもらったが、この書の欲しい同学の士も来てゐるかも知れんと思ひかへし、わざわざ包装してもらったうちから二冊を返したことが今思ひ出されて来た。暇さへあれば、私はこの二書に読み耽ったものである。表紙をめくると、プラゴエー黒河梅園のスタンプを押したこの書は、今も私の座右においてある。

 当時、山神府には第四軍司令部があり、たくさんの将兵が駐屯してゐた。第四軍は酷寒の地区とて、大部分が東北出身の兵士で編成されてゐたので、この陸軍病院入院してくる傷病兵はいづれもズーズー弁である。陸軍病院病歴は㊙で原籍、職業、住所が明記されてゐたので、私は東北六県に分類して写しとり、週番士官上番隊泊りの日を利用して、方言の採集、山村農村漁村語彙をあつめた。それに受持ち患者の通信検閲の仕事もあったため、家ととりかはす通信のうちにも、いろいろと語彙を採集し得たものであった。

 「雪国の春」は、先生の東北地方の旅行記であるので、その所々を読んでは、その地力出身の兵士にきかせたが、彼等は大変よろこんでいろいろと故郷の話をしてくれた。遠野地方の兵士も多く、土淵村の故佐々木喜善氏の名を知る人もあった。終戦後、浦塩のチュルキンの岸壁で長岡博男君と再会したが、奇しくも佐々本喜善氏の令息もゐられるといふ事であった。うちでも秋田県鶴形村の小林忠之助といふ兵士は全くの伝承型の人であった。丁度同室だった小林梁に筆録してもらってゐたものを「近畿民俗28号」に掲載したものがそれで、なほ冠婚葬制の聴き書も未だ整理もせずに手元に保存してゐるが、どなたか東北在住の方が、同君を訪ねて採集を戴けたらと念じてゐる。

シベリヤにゐた頃は復員後まづ第一に東北を歩きたいと念願してゐたが、復員後の困苦時代を乗りきるために働かざるを得なく、私の東北旅行の夢もいっぺんにけし飛んでしまった。

 黒河につらなる丘陵の起き伏しは、冬は一望千里の荒涼たるところ、夏は炎暑をさくる一本の蔭もなき原野である。このあたりにも日本民族と交渉の深かった満洲族の子孫が住みついてゐることも一つの驚きであった。国境守備隊の居住証明書によって、はっきりと漢人と区別されるが、千木をのせた草葺の妻入、土壁を塗った民家にはシトミ戸の窓さへ見受けられた。高床式の穀倉も富める家には見うけられたが、冬の燃料の皆無の荒野での生活は私には不可解であったが、茸類の採集で大地を掘り起しなどしてゐると、ときぐ想像もしなかった様な巨木の根っこにぶっかった。かつては巨木が茂り、燃料の豊富な時代があったことが

合点された。小孩(ちのみご)に根っこのあるのを教えてやると、次の日は塵一つも見当らぬまでに根っこの姿は消えてゐた。

 日本の古代史をみると、満洲、朝鮮、山陰、九州の北部は今日の国境意識感は全くなかったらしく、大陸から屡々帰化人の渡来があり、異なったいろいろの民俗も日本に持ち込まれたことであらうが、それが在来の日本人との混血により、生活環境に一番アンバッセンした民俗が、形をかへつゝも今日に伝って来てゐるものがあるにちがひない。それを日本の民俗のうちに発見したいといふのが北満での夢であった。

  (近畿民俗学会会長)

 






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最終更新日  2021年03月28日 06時39分55秒
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