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2021年03月28日
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カテゴリ:柳田国男の部屋

柳田国男 「故郷七十年」を読んで 寺田透氏著

 

 定本 柳田国男集

月報 2 昭和372

    筑摩書房

   一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 新刊早々買ったまゝ読まずにゐた「故郷七十年」をこんど読んで、自分が一時しよっ中渡ってゐた利根川の境橋(土地のひとは本当にサカエ橋といふ)が、著者の長兄松岡部氏の布佐町長在職当時、その最後の事業として架されたものと知り、なつかしかった。

 成田線の布佐で列車を降り、石炭殼でまっくろな構内から少しだらだら下りになった駅前広場に通勤労や学生、行商人などとともに吐き出され、たてこめる漬物工揚の匂ひの中を、松の梢を望みながら東北に抜けて、川をわたり、茨城県側の布川の町に入る。さうして町中を通ったり、裏の土手下の道をたどったりして、隣部落の福本へ、通ふと言っていい位よく行ったのは昭和二十年、横浜の住ひを空襲で焼かれたあとが一番だった。

復本といふ土地にすでに夫と死別してゐた父方の叔母がゐて、その隣村の、とは言っても郡もちがふ父の故郷の家に、これもすでに寡婦だった五十五歳の母が疎関してゐたからである。その他戦後は叔母の家の気のいい相続問題で、少しは手伝ふこともあって通ったのだが、それは言はでものことだらう。むしろ境橋の鉄の欄干が一ヶ所、アメリカ軍の飛行機の銃撃で深い切り傷を受けてゐることを書いといた方がいいかも知れぬ。

 福本を今布川の隣部落と言ったが、このあたりに七十二年も前、十二三の少年の身で移り住んで短期開通したにすぎぬ柳田さんの回想記に出て来て僕を少からず驚かした地名の羽中、福本はその羽中の先だから、柳田さんの記憶の正確にならって言へば、次の次の部落である。しかし利根川の土手づたひに下にゆけば、羽中を通らなくても布川から福本へは行けるので隣と書いても差支へない。いづれにせよ県道沿ひの宿と川に近い土手と両福本に分れてゐるこの部落の、初夏と、冬枯れの眺めを日本美術院の絵のやうに美しくしてゐたのは、福本土手と利根川土手の間に展がる田圃のそちこちに、島のやうに残されてゐたヤチの、柳

田さんも印象深く叙べてゐる松林の黒さで、アクセントをつけた樺林の存在である。長塚節の在所からは同じ茨城でもずっと離れた南の平地だが、それでも

「曳き入れて栗毛の駒のゆかぬまで」

の歌を、僕はしょっ中そこで思ひ出したものである。

 この地名の福本も、柳田さんがクロモジを言ふのだと言ってをられる普通名詞の福本と関係があるのだらうか。陳のほか、利根川の溢水がそのまま残って出来た古池の菱が印象的なこの地で、その関係がどうなのか、後考えをまつべきだらう。

 福本で僕は、当時七十幾つかの気のいいひとりの老婆から、

「おらはあ、生れっとからおっちにはぐったんだとよう、切ねえよう」

と、柳田さんが同じ本で言ってゐる間引きの習慣を裏づけるやうな話を聞いたことがある。泣き顔のやうな皮肉な表情で老婆はそれを語ってきかせたが、実を言ふと布川あたりは、隣村の叔母の里が、一等の良田でも反当り六俵から六俵半位しか米のとれなかった頃、九俵から十俵とれた土地なので、それが生活苦のための人口調節とすると、ちよっと不思議な気がする。旧幕から明治初年にかけての話としても、あそこらの多収穫は地味の良いおかげだったらしいから、当時も布川は一帯では豊かな方だったらうと思はれるからである。

 一方叔母の在所の稲敷郡大宮村大宇佐沼宇下佐沼、ずっと古くは河内郡竜ケ崎大宇佐沼と言った僕の本籍地は、布川は勿論、他の近在のどの部落、上佐沼と比べてさへ粘土質の貧しい土地であるのに、間引きの話は遂ぞ聞いたことがない。竜ケ崎ひいては下佐沼も土井家だか佐竹家だかの領地の中にある伊達家の飛地だったさうで、今も町の禅寺にはそ一の代官たちの武張った墓が沢山見られるが、事によると、そのためにここは周囲の村々と多少生活態度なり気風なりが違ってゐたのかも知れない。それはともかくゆたかな筈の、家々の構へもしつかりして見え、川魚料理屋のあとなどもある布川の町は、通りすがりの眼に何だか暗い

感じがするのは事実である。貧しい佐沼の方が町と村の群落相の相違はあるにせよ、明るいのである。

 叔母はここから福木へ嫁いだのだが、をかしな話があって、福本から他の嫁さん候補の家をたづねて来た仲人の男が、道でふと叔母に何か物を尋ね、その応待が気に入って、酒屋の嫁にはこの娘の方がよからうと、前の話を破談にし、叔母の嫁とりを纏めたのだといふことだ。剛毅で進取の気象に富んでゐた祖父の性質を一番濃くうけてゐるのはその叔母で、僕には大事なひとである。

酒屋と書いたのは、かの女の嫁ぎ先の今でも通用する屋号だが、十二歳の柳田さんが目と鼻の先の松林の梢ごしに動いて行くのを見てびっくりしたといふ白帆をあげて、利根川を船が上下してゐたころ、今は農家の家が代々営んでゐた家業の名残りとしてそれがあるのだ。

さて一方の佐治に、僕は子供のころ、夏休みごとに帰省させられたものだったが、そのころ、その季節、橙紅色の芙蓉に似た綿の花が、そちの畑でわさわさ夕風に揺れてゐるのを見た覚えがある。またその実が、霜の匂ひのするつめたい日暮れの空気の中で、白くゑみ割れてゐた思ひ出すことができる。

その季節に僕が佐沼にゐた少年期と言へば、大正十二年の大地震の難を避けてそこに行ってゐたとき以外にはないので、その頃も、長兄がこ方に普汲させようとして失敗したと柳田さんの語つてゐる綿花の栽培が、佐沼ではなほ五十年近く続けられてゐたといふことになるのだらうか。それともあれは昔からの畑作物だつたのだらうか。それを今確めるすべのないのが残念だが、菅茶山の「女児傾筐采新種。雨後寒生野風。知是授衣期巳近。村家竹裡響棉弓」といふやうな詩を、富士川英郎ともに楽しみえたのは、さういふ少年期の見聞のおかげだといふこ確かである。

山容沿線の棉についても柳田さんは「故郷七十年」の中で述べてゐる。

                       (文芸評論家)






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最終更新日  2021年03月28日 16時57分15秒
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