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2021年04月06日
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山梨県韮崎市 伊藤 うた 実業的女学校の設立

 

青少年のための山梨県民会議会 編

   昭和49年刊 

一部加筆 山梨歴史文学館

 

◇ 執筆者紹介 八田達也略歴

 

 明治四五年生れ、甲府中学・日本大学を経て学園の在職三六年、

職名は学校法人伊藤学園主幹。

 ほかに県私学団体連合会・私中高連・私学退職金財団の各事務局長に在任

 

◇ 伊藤 うた略歴

 

◇ 明治元年(1868)北巨摩郡穴山村の守屋家に生まれ、二十一才で同村伊藤家へ嫁し、二男二女の母となった。

◇ 三十才のときに夫と死別した。

◇ 同じような境遇に立った女性達に独力で生活できる能力を与え、悲惨な運命をたどることから救おうという悲願が、うたに実業的女学校の設立を決意させた。

◇ 明治三十三年(1900)代官町の借家で開校した山梨裁縫学校からだんだんに発展を重ね、実科高等女学校・高等女学校・女子商業学校などの新増設があって、昭和九年(1943)六十七才で病没するまでの三十五年間、学校経営に全生命を打ち込んだ。

 藍綬喪章の下賜や帝国教育会などからの数々の表彰および生前の寿像建設等の栄誉はあったが、精神的経済的苦闘の生涯であり、当時の学校沿革史はそのまま伊藤うたの生活記録である。

 

◇ 守屋うたの頃

 うたの父は「守屋()(すが)」といい。穴山村穂見神社の神官をつとめ各地の国学者と親交のあいだ学者肌の人、母「よ志」は女丈夫といわれた人で、うたはその五男五女の長女として生まれた。

 

❖ 兄弟は穴山村長・北巨摩郡会議員・樺太郵便局長、横須賀高女教頭・戦死した陸軍大尉などであり、妹たちもそれぞれ各地の名家へ縁ついたが、今それらの系譜か一覧すると、帝大出の工学士、二・同理学士、一・同農学士、一・医学博士、三・大尉以上の軍人、三・中央の官吏、二などの甥たちがいて、地方切っての優秀の血統統を見る思いである。

❖ うたの誕生は明治元年十二月十日であり、明治四・五年というのは文部省ができ、全国に学制のしかれた年であるから、うたの小学生時代は満足な校舎も先生もなかった頃で、明治六年(1873)に創立された穴山村の小学校とても、泉竜寺の書院に全部で四十人ほどの子どもを集め、これを隣村の坊さんがただ一人で教えていたというような学校だった。

❖ うたはここで下等小学五年を修了、しばらく父について読書・習字・算法などを学びながら二十人を越す大家族の中で農業の手伝いなどしていて上等小学三年へは行かなかったようである。

❖ 一、二年の後、通称山梨女学校と呼ばれた徽典館女教場、これは後の山梨県女子師範学校であるが、これに入学し、明治十六年三月三年の課程を卒業した。当時の同級生だった小川くにさん(小島の春・正子の母)の記憶によると、少女時代のうたはよく肥え明朗で、低音ながらはっきりものを言い、誰にも好かれる人柄だったということで、うたが十五・六才のときである。

 この山梨女学校の関口ふく先生には特別の指導を受け、卒業後も二年間間先生の許で裁縫の修業をしたが、これは嫁入りの仕度としてのものだったに違いない。

❖ うたが同村伊藤(すけ)(よし)の長男又六に嫁いだのは明治二十一年一月で、長女つわよ・長男(すけ)(ぶみ)・次女鶴子・次男(すけ)(ひろ)の四人を生んだ。

 

❖ 伊藤家というのは、伊豆の伊藤(すけ)(ちか)の子孫が甲斐へ入って武田氏に仕え、この地に郷士となったと伝えられる家柄で、一族の男子の名に祐の字が多いのもそのためである。

 この家には土地だけでも山林を合わせて七町歩あまり(約七万㌶)があり、子分と呼ばれた小作人も多かったので、大きな屋敷とともにこれらの切りまわしをすることは、やがて夫が病気勝ちになっただけにさぞ大変なことだったろうと想像される。

❖ 小作をしていた一人でもう故人となった伊藤太郎氏は、うたより二つ年下であるが、その働きぶりをこんな風に話してくれた。

「先生のお宅は大百姓でしたが、特別に忙しい時だけ村の人を雇うだけで、作男も置かず、田の草取りから機織、草履作りまで自分でやり、山村の常として自給自足の生活をしていました。こんな経験からでしょうか、湯田(甲府市)に校舎が建つようになってからも学校のまわりに水田を置き、後から甲府へ出た私がその世話をしましたが、先生もよく手伝ったものです。本当に農家の生活を知り、働くことを楽しんでいたようです。また村人に手伝いを頼んだその晩は老若男女をお宅へ呼んで、ごちそうして下さったので、当時の他の地主がしなかったことだけに皆喜んで集まったものです。こうして昼は皆といっしょに歌をうたいながら桑摘みをし、夜は皆を喜ばせるためにお勝手で働く。とにかく勝気で、がまん強い人、それでいて人のめんどうをよく見る、といった人でした。」

 

❖ 明治三十年七月、夫と死別したのはうた、が三十才の時である。女性の発言は極力押さえられ、その活動分野も限られていた時代を考えて見よう。未亡人となってはなおさらのことである。

 八つをかしらに誕生目を迎えたばかりの末子まで四人の子どもの養育と、夫の両親も、夫もすでにいない広大な屋敷と、手のかかる山林や田畑の将来を思ったとき、うたの心中はどんなだったろう。嫁ぎ先での申年間、夜昼となくただ夢中で働きとおした。そして今の境遇。当座の生活に不足はないものの、うたの気性の中に秘められた何ものかが自分に安楽な生活を許さなかった。

 

❖ 何かをしなければいけない。同じような立場に立った世の多くの女性の運命を考えたとき、何かをせねばならぬ。うたのこの気持が、未だ交通機関のない甲州街道を東京へと力強く歩ませるのである。東京裁縫女学校での一年余は学校設立の構想を練る年月だった。

 

    三十人学校

❖ ごく最近、「三十人学校」ということばをある年寄りから聞いた。うたが甲府市内で校舎に使う借         家をさがしたのは明治三上三年一月頃のことだったが、学校用になる民家などというものがあろうはずはない。何分にも六十年もたっているので、家並みも変り、定かではない、が結局代官町で現在の相生小学校敷地内の北側西寄りのあたりに貸家を見つけ、これを仮校舎にあてた。附近は役人の住宅などがならんで環境は良かった。相生小学校はその名のように、現在地よりもずっと北の相生町内にあったのである。

 この校舎というのは二階が十畳続きの三間、下が八畳六畳四畳の三間、それに玄関と勝手と便所、これがすべてであって、いかに明治時代とはいえ、これだけの施設で私立学校設立の願書を出されたのだから、県でもさぞ困ったことであろう。

 幸い当時県視学をしていた手塚語重氏がすぐ隣の二十人町に住んでおられ、その後も永くうたの相談相手になってくれたが、学務課員ともはかり、二階を教室に、下の居間を事務室、玄関を昇降所といったぐあいに図面を整え、規則書も書き直し、その年の十一月八日やっと「山梨裁縫学校」という看板をかけることを認可、という所まで漕ぎつけさせてくれた。

❖ こんな状態だったが、学校であったことはたしかで、課程は二つ、本科は尋常小学卒業で修業年限一一年、教科に修身・国語・算術・裁縫があり、速成科は修業年限ハか月で修身と裁縫とを課していた。

 生徒定員は二十名だったが、最初の生徒は僅かに六名、それでも十二月一目の開校式には二十六名の生徒が参列したこの時の人学者つまり第一回の卒業生山田たねさんは八十何才かで今も健在、つい先年学校に見え、荒川土手を師弟子をとりあって鉄道唱歌をうたいながら散歩した、その思い出を涙を流しながら語ってくれた。

校舎はうたの住居であり、遠方の生徒のための寄宿舎をも兼ねていた。たねさんも勝沼から出てきた寄宿生の一人だったのである。

 この翌年から翌々年にかけて、市立の甲府商業学校、県立の甲府高等女学校が設立されたが、代官町のこの学校を附近の人々は、あざけりの意味をも含めて「三十人学校」と呼んだらしい。しかし今となれば創立時代をしのぶ愛称としてながく記憶に留めたいほどのこころよい響きを感ずるのである。

 それでも明治三十六年には生徒数、が五十名を越すようになり、この校舎ではどうにもならないことになった。

 

    若松町・愛宕町 

 

❖ 明治三十六年三月、うたが三十五才の春である。代官町の校舎はせまくなったが、まだ校舎を建てる余力のないままに、幾分広い若松町の借家ヘー時の移転をした。

 場所は信立寺の西南、いま若宮氏宅のある四隣で、南北をとおして両端は道路に接し、道をへだてた南側には矢島製糸の大きな工場があった。

 この建物も使用目的が製糸関係のものだったらしく、その東側の庇下は荷車の通る通路になっていて、百人ぐらいは楽にすわれる板の間があった。うたの住居はこの北にあった別棟で、裏には町なかのこんな所にと思える場所に小さな墓場があった。幽霊が出る、などとこわがった生徒もいたという。若松町のこの校舎は半年たらずで、九月には愛宕町に貸家を得て、また引越しである。

❖ 英和学院のある愛宕町の通りを北え登りつめた左に折れると将運橋がかかっている。橋を渡ったすぐ右手はいま、芳江勝保氏宅であるが、当時ここに村松花火の大きな屋敷があった。

 校舎に使った家というのはこの一部で、二階が村松氏居宅の上まで通しに造られていて、その広さは四間に八間、つまりI〇〇平方メートル以上あり階下も八畳三間に六畳というかなり大きなものだった。

 生徒の数も百を越すようになり、課程にも受験科が加えられで、後にこの課程を経て免許状を得て小学裁縫専科教員となった人は二百人に達している。

❖ 話が前後したが、うたが女性であったこと、年令のこと、社会的のおもわく、その他もろもろの理由から、校長は白く長い髭をたくわえ学識人格ともに声望のあった稲積神社(正の木さんといった方が通りがよい)の神官輿石守郷氏(北杜市長坂町出身)を委嘱し、この人が明治四十四年八月になくまるまで校長職にあり、うたは一教員として、また経営者としての仕事を続けたのである。

 当時の教員にどんな人がいたかは明らかでないが、渡辺とみ子、高橋しづ江などという名が古い記録に残っている。

 

    郷里の人々とうたの子孫 

 

❖ 東京裁縫女学校へうたが入学したのは、明治三十二年であるから、夫の死後一年ほどは郷里           にいて、残された財産管理のこと子供たちの始末などに明け暮れたものと思う。

 うたの学校設立計画は、伊藤家の方でも、また実家でも猛烈に反対した。言い分は当然夕女の分際でとか、伊藤の身上を食いつぶすとかいうものであった。明治の時代に後ろ盾のない一未亡人が、これらをはねのけて主張を通すことにはよほどの決意と忍耐とが必要だったことだろう。

❖ 義弟伊藤祐保の家は「お東」といったうたの家のコ軒おいて西にあったので、村の人々はこれを「お西」と呼んでいた、が祐保の父祐愛(前出)は中田村に成業銀行を創立し、その頭取をした人だったから、祐保も若い頃からこの銀行に関係していた。

 祐保は従って理財にも長じていて、うたからの学校の経済的な問題についてはいつも相談を受けていたらしく、いま残っているうたがこの人にあてた手紙というのは、どれも借金返済の打合せや「お東」の管財問題に限られている。

 うたが生前から自分の棺をかついでもらうことにきめていた四人の子分たちも、よくお東の山林田畑の世話をしてくれたが、もう皆新しい世代になっている。

 まだ幼い男女四人の子供たちは、うたの上京中、伊藤窪の南隣石水の部落にある実家へ預けられて、親のいない一年あまりを過ごした。この守星家は伊藤の家よりも富んでいて、その折に食べた佃煮の味が今でも忘れられない、という述懐を聞いたが、当時の山村の食生活がどんなものであったか、か想像されよう。

 

❖ 代官町校舎が一段落した頃になって、この四人はようやく母のもとに呼び寄せられたのである。

 うたが嘗て話をした中込鉄一郎という人が、サンフランシスコで日本新聞をやっていた。全国的な渡米熱もあって、十五才の長女つねよはこの人を頼って愛宕町の家を出た。海を渡って日本婦人ホームヘ入り、ローウエルハイスクール・マクドウエル裁縫学校を経て、明治の末、二十四才のとき帰国した。すぐに結婚して篤文を生んだが、年余で不縁となり、子供とともに母の学校の中に住み、英語・音楽を教えていたけれど、折角持ち帰った最新式型紙は当時のわが裁縫学校には役立だたなかった。昭和六年病歿。

 

❖ 長男祐文は受容町時代に甲府中学に在学、野球部の主力だったから、本年甲子園へ行った甲府一高野球部の大先輩の一人である。東北帝大採鉱治金科卒業後、鉱山監督官をしていたのを、母の健康が思わしくなかった一時期に山梨へ引き揚げ、県庁勤めをしていたが、母の死とともに学園の理事長に就任し、現在に至っている。妻、たか江との間に、法政大学卒業後戦死した長男祐久、東京高師を出て地歴の教師となったが病死した長女康子、東大卒で現在東京の会社役員をしている次男信とがある。

 次女鶴子は湯田校舎になってから山梨師範へ入学、奈良女高師を経て母の学校の教諭、教頭として四十年近く勤続し現在学園の理事。家裁・社歌・婦人会等でも活躍、先年勲五等宝冠章を授与された。

夫中込四郎との間に、長女妙・長男良夫・次女京、三女礼、かあって、全部成人しそれぞれ好配偶を得ている。そして老夫妻は学校近くの家で余生を楽しんでいる。

❖ 次男祐博は代官町時代にまだ四才だったので、最も長く母のもとで暮らした子供である。甲府中学・北大水産科を経て会社員から教職に転じ、甲府・北海道・埼玉等の教校をめぐり、昭和三十年川越商業高校長の現職で病死した。勲五等を授与され、行年五十九才、妻いそじとの間に実子は恵まれなかった。

 

◇ 明治三十九年

 

❖ 百二十名の生街を収容するのに借家住いの校舎では、もはやどうにもならなくなった。

 資金の出どころさえあればすぐにも解決する問題であるが`人を頼らず独力でやり通そうという決意の未だ衰えていなかったうたは、本校舎建設をも自力でやり遂げようとした。そして太田町公園の東に隣接した約四百坪の敷地を一運寺から借り受けることができた。

 甲府市の東南端だったここからは、盆地の東部を全部見渡すことができ、甲府商業の小さな校舎と朝気部落のから屋根のひと塊とを埋め残した一面の田畑が、山裾まで青々と拡がっていた。

 

【註】湯田高校は甲府の低地であり、上記のような描写はない。ここは英和高校上部の記載と思われる。

 

❖ 建築資材は伊藤家の住宅や倉庫を解体して運んだ。交通不便の時代だったので、これを荷車や牛馬の背で、細くけわしい山道を穴山から中条・青坂を経て韮崎へ、それから甲府への転送である。苦しく永い人海作戦の時間だった。

 田舎の後家が嫁入先の家を壊して、困った道楽とも思われていた学校を建てようというのだから、親類の人たちの機嫌が良かろうはずはない。自分の持ち物を質入れしてまでの資金繰りを続けた。

 その年の暮れに陣頭指揮の結晶が仕上がった。もともと吉材のことである。いまの学校建築からは想像もできないような姿だったが、うたにとってはただ涙あるのみであったに違いない。

❖ 新校舎というのはこんなものだった。二階建ての倉の他は全部平家の瓦葺きで、六十五坪の教室と七十七坪の寄宿舎、それに居宅物置など三十七坪、約六〇〇平方メートル棟続き、教室は学校の性格から全部畳敷き、元の座敷の床の間が教室には不似合いの程立派だった。それでも教室の外側は新しいガラス障子になったので、どうやら見られる様にはなり、東側の門から奥に見える昔ながらの中門が厳めしかった。

 この時の校舎は次々に建て替えられて、すっかり姿を消しだのは大正十二年の大地震後の事である。

明治三十九年十二月、これが現在の学園がはじめて自分の校舎を持った時であり、六十年後のほとんど鉄筋化した八〇〇牛バ平方メートル近い校舎もここから出発した。

 これは学校創立から六年目、うたの年令は三十九才であった。

 

◇ 移り変り

 

❖ 百五〇名の在校生で明治は終り、大正の改元となった。

❖ うたの心にも新たな構想や決意が生まれたのであろう。市内の有力者や教育家の意見をも聞いて、学則を全面改訂、三年制の本科のほか総定員を二三〇名としたが、これは実科高等女学校設立の布石であった。

今の東校地約五千平方メートルは大正六年に拡張したもので、その半分は名取忠愛、村松甚蔵両氏の地所だったのを、終戦後に寄付同様の価格で学園にゆずられた。忠彦氏が学園の幹事に益造氏が評議員になっているのはこんな関係も手伝っているのである。

 この土地に三五〇平方メートルの校舎が建ち、七年三月、待望の山梨実科高等女校ができ、いままでの縫製学校は山梨女子火付学校と校名を改めた。

 社会的にもこれまでの実績が認められ出したのだろう。大正六年に甲府市から百円の補助金が出たのをはじめ、八年には県からも二百円の補助があり、その後甲府市は昭和一一年まで最高三百円、県は同十四年まで最高千二百円の交付を続けた。

 

❖ 大正十四年(1925)、実科高女は定員四百の甲府湯田高等女学校に昇格

昭和二年(1927)には甲府女子商業学校を新設。

この年の十二月には以上の高女・商業・実科の三校は財団法人伊藤学園の経常に移されて、うたの個人経営の時代が終り、生徒数も千名に近づいた。

 

うたもすでに還暦を過ぎた年令である。

 寿像が東校地止門脇に有志の日で最切に建てられたのは昭二十九年のことであるが、これは戦争が激しさを加えた時国に献納させられ、現在の像は昭和二十九年に同窓会が再建したものを、四十一年の鉄筋本館建築に際し、校舎内玄関正面に移したものである。

 県下最初のタイプライター科が和文十合だけの設備で始まり、現在体育館のある土地を園芸実習地とし買収、初の校旗樹立など、昭和八年は命の火がまさに消えようとしていた<うたの>学校への熱情が最後のまたたきを見せたような年だった。

 

❖ 卒業生五千余、在校生一千、学校敷地九千五千平方メートル、校舎建物三千七百五千平方メートル、これだけを形見として、昭和九年四月十一日・武田神社祭典の日に、うたは六十七才の生命を終えた。

 

創立者にとっても学園自体にとってもしあわせあった。まず、うたけ戦災で施設の全部を焼失しか学園の姿を見ずに済んだこと。

それから、うたの病床にあった時から校長代理をし、その死後すぐに就任した奥山新治郎校長は東京高師出の温和な仏教徒で、精神面でも良き協力者であったこと。これは後のことだが、戦災前後十年間在職、その混乱期を手ぎわよく処理した藤波国途校長があったこと。この人は広島高師出身で、うたの葬儀のとき県の学務課長として参列していた。

 

◇ 意志の人 

 

❖ 学校を経営し、生徒を教育したうたは、発願の時からの使命感に支えられて、その生活態度は常人と異った数々の面を持っていた。

 現在でもそうであるように、私学経営と財政難とは昔から離れられないもので、特に一番悩ませられたのは施設のための資金である。しかし出郷の折の経緯からも、また自分の信念からも他の援助を求めることはできなかった。

❖ 前に書いた義弟祐保を通じ、田舎の銀行から融資を仰いだことは再三であったが、滞り勝ちながら元利金はいつも完全に返済した。

 最も苦しかったのは実科高女設立の時で、倣重な資格審査ともいうべきもの、つまり基準に合わせた施設、高給を要する有資格教員の採用などのことがあって、土地・建築その他の経費二万五千金円の工面、がどうしてもできない。

仕方なく伊藤家の山林の立木・有価証券など全部と、一度手に入れた校地の一部とを売り払った、が、これは嫁という一個人を考えれば、信じられない英断だった。この頃祐保にあてた手紙の中に、現在の経営状態では千円の借財も恐ろしい、とある時代だけに、学校昇格への執衆のほどがうかがえる。

❖ 金のことといえば、補助金をもらった時にこんな話がある。甲府市が補助金を出すというので係員が学校へ出向いて来た。書類のことか何かで面倒なことを言ったらしい。立腹したうた

「そんなものはいらないから早く帰れ」

と大声をあげた。係員も困って

「そんなことを言うと後々のためにならない」

益三どすような様子を見せた。うたはたたみかけて

「あなたが上司に報告するのに困るのだろう」

とゆずろうとしない。

結局はのちに誰かが中に入って補助金は受けることになったのだ、が、自分の学校、自分のやる学校という気持が強かったからだろう。

 従って生徒に対しては極めてきびしく、裁縫などはとりわけやかましかった。縫い上げたものが不完全だと容赦なくほぐしたので、生徒が成績物を見てもらうのに必ず鋏を持って行く習慣になり、先生には教え方のことで生徒の前をもかまわず正すし、時には学校を辞めさせもした。こんなことは現在の学校では思いもよらないことだが、うたをめぐる生徒も先生も毎日が真剣だった。

 

❖ 宜伝ぎらいも徹底していた、諸々の新聞社が来ても広告など絶対に出さない。こんなことだから当時の新聞は学校の悪口を書いても、良いことなど一行も載せようとしなかった。ただ明治の末から姶た年一回の成績品展覧会には異常な熱を入れ、提灯をつけて毎朝会場を見廻る幾年かが続き、これが一時は甲府名物の一つに数えられて、毎日千人を越す参観者が学校へ押しかけたものだった。

 

❖ 八十キロ以上の肥えた体だったが、晩年背中に大きなはれものが出たのがはじめて、、思わしくない健康状態の数年は、床の上で裁縫教科書の校正をしたり、棟梁を呼んで建物の指図をしたり、大蔵経を読んだりしていたが、九十日におよぶ絶食の末に黄疸を併発した心臓病で死んだ。

 

◇ 情の人

❖ 昭和のはじめ頃まで寄宿生かいて、多い時は百名にもなった。当番制の自炊をしたものだが、世話役ともいうべき先輩が常に五人から八人ほどはいて、万年舎監のようなうたの公私生活を助けていた。この人たちはうたの信奉者といってよいくらい忠実な人々で、無報酬で勤め、昼間は裁縫授業の助手をしていたが、こんな人たちの延べ数は五十人になっていよう。

 原作という老いた小使は大正のはじめから昭和のごく初期まで校内に住みついていた。身寄りも無かったらしく、しまいには足腰も立たなくなって自室に寝た切りになってしまった。

その間うたは若い者のいやがった汚いものの始末から食事の世話までして息を引き取らせた。八十才に近かったろうが、現在の校地で亡くなったのはこの原作じいさんが最初である。

❖ これも同じ頃、うたが学資を出して上野の美学校に学ばせた近藤某という人、これが徹底した芸術家で、中途で学業を投げて「甲斐が嶺焼」に打ち込んだが、生活力は皆無、市内東二条の川端に焼き窯を造り、乞食のような一人暮しをしていた。うたは腹も立てず時折食事などを運ばせていた。彼はうたの死後も同じような生活状態を続け、戦後の三十二年にその場所でひっそりと死んだ。

 

❖ 松野良吉などといえば、当時の人でも首をかしげる名であるが「ひげの棟梁」と言えばうなづく人心いよう。建築の方の腕前はとにかく、仕事にうるさかったうたの注文を口答えしながらも聞いたのが気に入られたらしい。大正時代の大きな校舎三種を手がけたあと、動けなくなるまでの数年間、毎日学校に出勤して修繕などをしていたが、煙草を吸っていた時の方が多かった。この棟梁は息子二人を良い学校を出したばかりに、自分の臨終の時に誰もいなかった。近所からの知らせで人をやり、葬式の仕度万端を済ませ、遠い県から駆け戻った息子たちに引きついだ。うたが亡くなる一年前のことである。

 

❖ 昭和四年、米倉寿仁という先生が高商を出てすぐに着任した。二糾合に人選するほどの絵を書き、詩もやり文芸評論もするという多才の持主で長身の美青年たった。彼が絵の博覧会を市内に開いた時、うたは主催者よりも早い時間に人の肩にすがっての病身をその会場へ運んだ。彼の絵はシュールである。うたは絵を見に行ったわけではない。彼は後にうたをこう評している。

「文化現象の中に特異な現象を求めて価値づけることが私の喜びである。暴君的な現実環境の中に自己の理念を押しとおして行った先生の苦悩は、創作の道を知る私にはよく推察できるのである。」

帰って行くうたの後姿に彼は涙を流しつつ合掌した。

 

❖ 中銀前頭取夫人正代子さんはうたの歌友だちで、

「よき妻をあまた出ししみいさほの、光は世々に照りわたるなれ」

とたたえているが、うたの詠草には日記的感懐が多い。

 

老いの身の

    使命もつきし命なれど

     などかこの身の惜しまるるかな

 

みとりする

    者を泣かせし幾日かを

      夢にうつつにただもだえけり

 

❖ 東京帝大経済学部を卒業した昭和四年、就職先を会社にしようか学校にしようかと迷った末、湯田高女に着任した二十五才の青年、それが現校長斉藤俊章であり、生涯を教育界に捧げる方向づけがこの時にきまった。

 当時の在任は僅か一年であったが、うたのこの人への期待は大きかった。すでに病床の時間の方が多く涙もろくなっていたのであろう。朝鮮へ転任の申し出でを聞いて

「もうおやめになるのが、この学校の将来をお願いしようと思っていたのに……」

と絶句した。

 終戦で帰国、うたはすでに他界していた。市立甲商、県立一高などの校長を歴任して県教育界の重鎮となったが、その間ずっと法人の監事になってもらい、長い間学園との関係を絶やさなかったのも、こんな因縁からである。

 内容の充実に合わせ、施設設備の飛躍的な拡充のため、校長としての努力はすでに七年、学園の面目が一新した今、うたの期待は、その死後にようやく果たされた感がある。

 

❖ 最後に人間うたの側面を覗いて見よう。

 その私生活は、慎しいの一語につきる。私財の全部を学校に注ぎ込んだのだから当然かも知れないが、暇のなかったことも事実で、そのために下着はもちろん、着物の袖口、帯のはしにはいつもぼろが下がっていた。『紺屋の白衿』である。

❖ 建築が大好きで、少々体の悪い時でも棟梁とはよく話し、朝暗いうちから現場を歩いて釘や木切れを拾い集めた。

❖ 肥えていたので正座が苦しく、居間でのひと時、足を投げ出して大きな包丁で好物の粟や柿をむきな、がら食べる姿は無邪気にさえ見えた。大きな口を開いて、アッハッハと男のような大声で笑ううたは、女性特有の感情に左右されることなく、判断も適確であり、いつも時勢の先の方を見つめていた。

❖ 裁縫についてだけ見ても、新技法は真っ先に取り入れ、職人といわれるような人でも必要があれば臨時の講師に頼み、自著の裁縫教科書は毎年のように改訂版を出した。それから今では何でもないが、鼓笛隊の指導者を東京から措いて世人をびっくりさせたこともあった。四十年近く前のことである。

 

❖ 昭和元年四月十四日、学国葬が行われた。会葬者は五元を越え、告別式の時間を一時間延長した。

 そのおくり名は「祐学院政禅室教範大姉」

いま生まれ在所穴山の、松の疎林にかこまれた墓所に眠っている。

 

參考交献

 1、昭和九年七月一日

伊藤学園同窓会発行、石原保麿編集「(るい)

 2、昭和十三年十二月一日 

伊藤学園校友会発行、村松志孝編集「伊藤うた先生とその生涯」

 

韮崎市偉人伝 伊藤うた先生胸像碑文

 

財団法人伊藤学園(甲府市)を設立された伊藤うた女史は穴山村(韮崎市穴山)に生まれ、山梨女学校を卒へて、伊藤家の人となったが良人(夫)又六氏が病没、俊志をたてて東京に学び、明治二十三年甲府市代官町に山梨裁縫学校を設立して、輿石守郷翁を校長に推載して教鞭をとった。其の後若松町愛宕町に校舎を移し、三十九年湯田町に校舎を建設した。四十四年校長の死去に依って女史自ら校長となって校務を処理し終わりに現在の如く女子教育上重要なる地位を占むる伊藤学園となったのである。湯田高等女学校、女子商業高等学校、山梨実科女学校、計千名の生徒を容(擁)するに至ったのである。

 先生は昭和九年二月六十七才にて病没されたが、此の胸像の建設されたのは、昭和五年十一月であって、名取忠愛氏が率先し、校門の左側に建設したものである。

 

 胸像碑文は左(下)の通り

 

女史市井堅實悲忍夙志於女子教育之振興一、

明治三十三年創設山梨実科女学校

後又設立甲府湯田高等女学校、

甲府女子商業学校、

苦心経営克善学校創設之使命

教育教育奮闘数十年如

一日受教卒業者数千人、

其功績可偉大

昭和二年五月十七日、

官賜藍綬褒章彰其善行

知己門弟等亦欲顕彰其徳胥謀建

銅像於校域以傳於不朽一矣

 

昭和五年十一月 名取忠愛撰 並書

昭和14年 郷土研究 湯田小学校

 






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最終更新日  2021年04月06日 16時49分14秒
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 Re:山梨県韮崎市 伊藤 うた 実業的女学校の設立(04/06)   伊藤隆 さん
郷土の先人の紹介は、有意義な仕事で敬意を表します。伊藤うたの註についてですが、湯田周辺は低地でありますが、当時は一面の田畑と記してあるように家がほとんどなかったわけですから山裾まで見渡せたと思います。原文に違和感はありません。 (2021年05月05日 05時13分21秒)

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 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
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