カテゴリ:与謝蕪村資料室
与謝蕪村忌 (俳諧歳時記・冬 s22)
十二月ニ十五日、与謝蕪村の忌日である。 蕪村は享保元年(1716)、摂津東成都毛馬村(現今の大阪市東成区)に生れた。 本姓谷ロ氏、名は寅、字 は春星、東成、三菓軒(三果)・紫狐庵(紫虎庵)・夜半亭・四町其他の別号がある。 丹後与謝の風光を愛し与謝と改姓、叉単に謝蕪村ともいった。 早くから江戸に出て内田沾山に俳諧を學んだ。元文二年(1737)巴人(宋阿)に學び、巴入歿後第二世夜半亭を襲い、宝暦元年(1751)京都に移って畫を業とし俳諧に遊んだ。大鞭堂と並び稀されるに至った。 その頃は芭蕉没後俳風の堕落また萎微している時であったので、大いに清新な句風を鼓舞し、俳諧中興の祖と称せらるに至った。畫も一家をなし大雅堂とならび称されるに至った。
天明三年(1783)十二月ニ十五日歿、 著書に玉藻集・花榛帖・十番句合・芭蕉翁附合集・夜半茗帖・五車反古・夜半帖・桃季・新花摘。俳諧三十六家仙等がある。享年六十八歳、京都左京匹一条寺の金福寺に葬る。墓は芭蕉庵の後山で月居の墓と並んでいる。忌は蕪村歿後其門弟建によって行われたことは勿論あるであろうが、其は知らず、明治になって蕪村の句風が正岡子規によって顕揚せられるに至り、子規の根岸の庵で蕪村忌を修めることが始まったのである。常時の主として学生から成η立った子規門下が集まって句合を催したものである。子規自身ホトトギ入紙上に書いた当日の記事に 蕪村忌は明治三十年十八月廿四日を以て東京根岸鶯横町心草庵に開かれたり。 會する者二十人、一陣庭前に於いて撮影す。終って運座を開く。 室狭くして客多し。火鉢足らず座蒲團欠乏す。 蓋し草庵あって以来第一の盛会なり。
とある。爾来此日俳人間で蕪村忌を修し句趨を開くのが常にななっている。 特に金福寺では此の前後の日曜に「懸葵」の人達によって忌を修し、句会を催し、来誉者に粥を振舞う。昭和七年は百五十回忌に相当したので特志の人達によって夜半舎が設立され、今後十二月に荼宴・句合・講演会・遺 品展覧等が催されることになった。寺は禅宗で古へ寺の僧鉄舟が芭蕉翁を招聘寄宿した跡である。なお月渓の墓もある。
蕪村忌 から檜葉の西に折るゝや霜の聲 凡董 期年 おこたらぬ月日の数珠や一廻り 凡董 蕪村忌に呉春が畫きし燕かな 子規 蕪村忌や赧然として句盗人 三充 蕪村忌に池田の炭を送りけり 炭翁 年々や枯野徑を蕪村忌に 四明 短冊をあぶる火桶や春星忌 蓼雨 凍て初むる筆の穂さきや春星忌 蓼雨 小火桶に伏して遲吟や春星忌 玉春 蕪村忌や障子あくれば輿謝の梅 甫夕 蕪村忌の宮津にすめるわれらかな 甫夕 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月19日 17時47分16秒
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