カテゴリ:俳人ノート
夏目漱石忌 (俳諧歳時記・冬 s22)
季題解説 忌日は十二月九日。漱石は本名を夏目盛之助と云い、慶応三年(1867)一月五日庚申の日、牛込馬場下に産れた。父を直克。母はお千枝と云う。 幼い頃里子に出され、預った古道具屋が四谷の大通りに夜店を出すので、三つになる漱石も一しよに連れて行かれ、笊(ざる)に入れられたまゝ師走の寒空に吹き晒されていた事もあり、一時は養子にもやられたといふことである。 明治二十三年東京帝国大學英文科に入學した。正岡子規・尾崎紅葉など同級であった。 同二十六年七月卒業して大學院に入り、後松山中學・熊本第五高等學校などに教鞭を執り、 同三十三年九月英国に留學ヽ英文學を研究し、帰朝後東京帝国大學及第一高等學校の講師となった。 同四十年四月教職を退いて朝日斯聞社に入り、大正五年五十歳を一期として一生を終った。 『文献院古道漱石居士』は其の諱である。
漱石は始め三島中州に漢學を學び、釈宗演に就て禅を修め、大學時代、子規と一しよに俳句漢詩などを作り、俳句は其歿年まで続いた。 明治三十四年洋行中ホトトギスに倫敦消息を書いて病の子規を慰め、同三十七・八年頃は俳体詩も盛に作ったものである。 明治三十八年一月貌からホトトギスに處女小説「吾輩は猫である」を連載して文名大いに上り、引続き、倫敦塔・カーライル博物館・幻影の楯・琴の空音・一夜・薤露行・趣味の遺傳・坊っちゃん・草枕・二百十日・野分などを発表し、朝日新聞入社後、虞美人草・坑夫・三四郎・それから・門・彼岸過迄・行人・心・道草・明暗などの長 篇小説を書いた。其他小品・紀行・文學論・文學評論など著作が甚だ多い。 晩年には、書や畫にも親しんでいた。以上の様な譚で其作品には多分に英文學・俳句・禅などが或はローマンチックな作風となり。低徊趣味に變形し、或は一種の人生観となって影響している。 漱石は博學上品な人格者であったが、また一面気骨ある凰変りな人であった。 明治四十四年一月文學博士の學位を授けられた時「只の夏目でよい」と云って之を受けず物議を酸し、首相西園寺公が当時の文士を招待した時も 「ほととぎす来る厠半に出兼ねたり」 の句を以て応酬し、其の招に応じなかったなどの逸話も随分多い。一代の文豪である。
漱石忌 青草の残れる庭や漱石忌 迦南 このごろは読まぬ妻なり漱石忌 立春 熊本にのこる逸話や漱石忌 さむろ 漱石忌うすら覚えの草枕 濤聲 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月19日 19時59分28秒
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