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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年04月28日
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フィクションとノンフィクション 市川康氏著

雲切仁左衛門なる男、甲州韮崎そだち

『中央線』1973 第9号

     市川康氏著

    一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 この春、身延山久遠寺に参詣した時、広庭に赤い木瓜(ボケ)の花が咲いていたが、その内の一枝だけが白い花を付けているのに驚いて、帰宅後隣家の、植物学界の権威、新津宏先生にお聞きした所、

「そのような突然変異は、植物には間々ある事で、特に身延山にかぎったことではありません」

との御返事であった。

 大地に根を降ろして動かない植物でさえもこのように急変するのだから、動物の世界、特に常に流動する人間界では尚更のことである。まして物語り言い伝え等の領域では、それらが伝わるうちに、どんなに変化して行くのかは計り知れない。

 それに付いて今回私は、我家にまつわる言い伝えやら又は、それをもとにして創作されたと思われる、二三の事柄と、それを裏付けるような又は、多少それらに関連する古文書について考えて見たい。

 歴史家は史料のみを重視し、これの無いものは史実とはしない、然し物語といい、伝説といっても、そこに何らかのもとになるものがなければ発生しないだろうと思うのだが。

 それ故それらは小説伝説、いい伝えと呼ばれるのである。

 

(一) 雲切仁左衛門之記 (大岡政談の内)

 

この小説は江戸時代の黄表紙(当時の小説本)をもとに、作者不詳として明治十八年(1885)七月二日届出、出坂入京橋錦屋町、野村銀次郎として発行されているが、又これとは別に、日本橋横山町二~十四、鈴木喜右衛門発行のもある。この方はさし絵入りで人目を引くように出来てはいるが、紙質が前者は和紙であるのに反し、後者はわら紙の粗末な洋紙であり、明治十八年五月十三日出版となっていて、定価二十銭と大衆向きであり、前者はその一〇倍の四十銭と高価である所から見て、おそらく後者は普及版として後から出版されたものと思われる。兎も角内容は両者共全々同一で、その目次を見れば次の通りである。

 

○ 原沢村百能文右衛門親子のこと

    並び常盤屋遊女お時身請けの事

 ○ 甲州万沢お関所破りの事

    並び雲切小猿向見ず悪心の事

 ○ 雲切偽殺人の事

    並び原沢村文蔵方にて大金を奪う事

 ○ 文蔵夫婦吟味の事

    ならび雲等三人成行の事

 ○ 三吉雲切の方へ無心に行事

    ならび仁左衛門小猿両人三吉を欺き殺す事

○ 仁左衛門小猿両名死刑の事

   ならび原沢村一件落着の事

 

❖ 本文にうつる  

 

「まさに秋霜となるも鑑羊となる勿れと、この言や男子たたる者の本意と思うは却て其方向を誤るの基(もとい)にして、性は善なる孤児も生立(おいたら)に随い其質を変じて大悪無道の賊となるあり。然は(しかれば)雲切仁亙衛門なども其一にして、今の出才や幼名を残したる、其物詣を茲に説出すに。

頃は享保年中、甲州原沢村に佐野文左衛門というて、右膳に暮す百姓あり。或る時文左衛門は出府表に出て所々見物なし、日も西に傾きける故、佐倉や五郎右衛門という穀物問屋に一泊を頼みたり…………」

 

と、まあザットこんな書き出しだが、昔の戯作(ゲサク)のこと、すべてに回りくどくて、如何にもわずらわしいので、ここでは荒筋だけを書くことにしょう。

 

文左衛門は其時の縁で佐倉やの娘おもよと結ばれ、一子文蔵を得て幸に過ごしたが、享保元年(1716)八月十八日文蔵十三才の折流行病のため急死、以来母「おもよ」は番頭忠右衛門の尽力によって家を譲り我が子の生長をたのしんでいたが、同人も二十四才と成ったので、享保十ー年(1726)文蔵は番頭忠右衛門と共に、かねて身よりの者にまかせてある、興津の米の販売先えと出張。その折一夜遊んだ遊女お時という者と懇ろとなり、その後老母の反對もあったが、若い者を失望させるのは良からずという忠右衛門の取りなしもあって、遊女の身元を調べさせた所、父親は故あって王家を浪人した士分の者とわかり、母もこれを許し、「おとき」を嫁として娶ることになった。

 文蔵大いに喜び、益々家業に励んでいたが、翌十二年、駿河の父親病気との知らせに、夫妻は身延山参詣を兼ねて、父親を見舞うべく、十月十日番頭清助という者を共に出発した所が、甲州万沢の關迄来て、通行手形を持参して居らないのに気付き、其処の茶屋にて主に相談した所、ちょっと廻り道すれば裏道もあるとのこと。家迄取りに戻るのは日もかかること故、心せくまま其言葉に従い、裏道を廻ることにした。

 所がたまたま茶屋に居合わせた、雲切仁左衛門、小猿及び、向う見ずの三吉の三名、これを聞いて悪心をおこし、偽役人となって文蔵一行をおどしたので、文蔵は大いに恐れ入り、有金三十六両を差出し、内分に願って其場はのがれたが、これが因で後日大厄に合う破目となった。

 

この雲切仁左衛門なる男、甲州韮崎そだち(原文にも河原部村とはなっていない)にて頭脳明晰、大兵にて膂力に優れ、釰をよく使った。或る夏落雷の折、舞降り来った一団の黒雲を切った所、鼬(イタチ)に似た怪獣が死んでいたという。雲を切ったので人呼んで雲切りの仁左衛門。

 

さて、文蔵夫妻、駿河に着き父親を見舞い、病気も及々快方に向う様子故、安心して数日の後に帰宅した。其内幕も押し迫った十二月二十七日、数名の待、江戸は南町奉行配下という触れ込みで、村の問屋志形で正衛門方に到り、当村百妙文蔵なる者、過日万沢村の関所破りの件、訴えにより取調べる、とて文蔵始め家中一同を呼び出し、繩打って身柄は村役預けとし、番頭忠右衛門に案内させて十一戸前の倉全部を開けさせて調査の上、之を封印して二度目呼び出しあるまでそのままにする様、申渡して立去ったが、後で番頭が気付き、倉の中の長袴を調べた所、中に入れておいた千百八十両の金が持ち去られていたという。

 一家は大いに気落ちしたが、これも廻り合せ悪しき事とあきらめ、数年がすぎた。

 一方雲切という男、根っからの極悪人ではなかった故か、これにて一切悪手をやめ、江戸表に出て、この金子を基金(で)に正業つき、世をおくるべく、小猿、三吉両者に申渡し、金を三分して今後は、何処で行合うも、一切口をきかぬと、堅く約束して別れ、仁左衛門は両替屋を、小猿は呉服屋をとそれぞれ店を持ち、追々繁昌していた。

 所が一人向う見ずの三吉だけは、根っからの怠け者で、ぐずぐずと有り金を使い果たし、博奕場なんぞに出入して数年の内に又もとの無一文となった。こまった三吉は、約束を破って小猿を脅し、小金を無心していたが、味をしめた三吉は、及々雲切方へも出入するようになった。

 『スネにキズ持ちや笹原よける』で、大声でも出されてはこまると、其都度何がしかの金を与えていたが、両名思案の末、同十七年三月十八日、吉原で大いに遊ぼうと三吉を連れ出し、欺むいてこれを殺害した。旧幕の頃とて、ならず者の三吉は、水死人として取り棄てられてしまった。

 やれやれと両名、胸をなで降ろしていたが、悪い事は出来ないもので、原沢村、村役より市川代官所に届出たことから、南町奉行に一件申送りとなり、同奉行所も関所破りとあれば捨置く事も出来ず、日を改めて文蔵夫婦をお呼び出しになり、逐一吟味する事となった。

 折も折、三吉に強請り取られて、手元不如意となった首切小猿の両名は資金欲しさから、もう金輪際これきりと、同年十月二十八日夜、折からしと降る秋雨の中を、両替屋鳥屋治兵衛方に押入り、小判千両を持ち去ったが、これに極印が打ってあった所から足がつき、終に両名の悪事一切露見に及び、翌年正月、処刑された。

 所が此処で大岡が困ったのは、大金を失った原沢村文蔵夫妻の始末、何しろ彼等は被害者であるが然し、関所破りとなれば大罪人磔(はりつけ)はまぬがれぬ、何とかならぬものかと思案の末、前記の文蔵夫妻をお白州に呼び出して大岡が言うには、

 「これ其方等が通行せし関所は何と申す所であるか」

との問いに、

 「それは万沢と申す所でございます」

との答、越前の守ハタと膝を打って、

 「ウム、それにて相わかった、その万沢という所には古来万沢狐というて、悪い狐が住いし、常日頃通行入たぶらかすと聞いている、其方等もその万沢狐にばかされたであろう、のうどうじゃ」との情けあるはからいに両者涙ながらに

 「恐れ入り奉(たてまつ)ります」

と答えて、一件落着となるのがこの物語の終りである。

 

話はまことに幼稚で、今から見れば面白くも何ともないが、文字も娯楽も少ない当時としては、大岡政談の一つということもあって中々の評判となり、遂には芝居にも取り上げられて大人を取ったと

も伝えられている。

 扨てこの荒唐無稽とも思われる雲切話を、私の父鮭次郎に、その存命中聞いて見た咳「そんな話はするな」と大変不機嫌だったので、以来これは我家のタブーででもあろうかと思って今日迄過ぎてきた。                

 

ところが今度甲西町誌の編纂に際し、本家所蔵の古文書中から、これに多少関連があると思われる。奉行所からの呼出し状や、歌舞伎役者からの礼状やらが発見されたので、或はこれら小説の素になるような事件があったのではないか、とも想像され、目下当主文蔵氏の協力を待って、少しこれ等を堀り下げて見たいと思うが、事は慎重を要するので、それらの事は十分研究の上次号に書きたい。 

末完






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最終更新日  2021年04月28日 05時42分24秒
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