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2021年05月15日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

水役人芭蕉 阿部喜三男氏著

 

『俳句』「特集 芭蕉のすべて」 

115号 角川書店 昭和37年刊 

一部加筆 山梨県 山口素堂資料室

芭蕉が江戸に出て来てから深川に入庵するまでの間に、水道工事にたずさわったことがあるという説は、直門の許六がその編者『本朝文選』(宝永三年・一七〇六刊。後『風俗文選』)の「作者列伝」中の芭蕉のところで、

嘗(かつて)世為遺功。修小石川之水道四年成。

速捨功而入深川芭蕉庵出家。

と書いているので、まず、事実であったと推測される。

また、内田魯庵の『芭蕉庵挑青伝』中に、素堂が

吾友桃青も曽て力を水利に尽したれば云々と云ひし由、

正しく其日庵に伝ふる素堂伝に出でたり

とある。其目庵は宗堂の門流、その素堂伝は今見られないが、これによれば、素堂も芭蕉の水道工事関係を語ったことがあるらしい。

 【筆註】『甲斐国志』素道の項に記載がある。

 

 その後は、享保頃のものかと思われる、著者不明の『元禄宝永診話』に載る芭蕉伝中に「寛文末つかた東武に下り、小石川の水道修成傭夫となって、功を終るの頃薙髪して風罹と云」と見え、さらに

『奥の細道管菰秒』(安永七年・一七七八刊)所載の「芭蕉翁伝」中に芭蕉と親交のあった小沢ト尺の子孫が、

  一とせ都へのほりし時に、芭蕉翁に出会て東武へ伴ひ下り、

しば しがほどのたつきにと、縁を求めて水方の官吏とせしに、

風人の習ひ、俗事に疎く、其任に勝へざる故に、やがて職を捨て、

深川といふ所に隠れ、俳諧を以て世の業となし申されしと、

父が物 語を聞ぬ

と語ったという記事が出てくる。

 

ところで、喜多村信節がその著『嬉遊笑覧』(天保十三年・一八三〇年序)及び『鋸庭雑録』(天保十四年・一八四三成)の中で、延宝八年に町政へ触書した‐「役所日記」なるものを引き、次のようなものを紹介した。

 

延宝八年ノ神田上水惣払 町触二

     党

一、明後十三日、神田上水道水七惣私有之候間、致相対已候町々ハ、

桃青方へ急度可被申渡候、桃青相対無之之町々之相対無之之町々月行持、

   明十二日、早天二、杭木かけや水道迄致持参、丁場請受可被申候。

勿論十三日中ハ、水きれ申候間、水道取候町々ハ、左様ニ相心得、

可被相触候。若雨降候ハバ、惣払相延候間、左様ニ相心得、可被申候。

以上。

  六月十一日 ○延宝八年 町年寄三人

     覚

一、明廿三日神田上水道水上惣払有之候間、

桃青と相対いたし候町々ハ、

急度可申渡候。相対無之町々ハ、水足道具為持、

   明早天、水上之羅出可被申候。勿論明日中水切候間、

町中不残可被触候。少も油断有間敷候。

     六月廿二日

 

ここに出てくる桃青が芭蕉だったろうというのである。

 この町触に「町年寄三人」とあるのは、奈良屋市右衛門・紺屋藤右衛門・喜多村彦兵衛のことで、この三年寄は代々上水奉行の下で江戸の水道の事を支配していたもので、信節は町年寄喜多村家の分家筋の人であったから、この「役政日記」を入手したのであろう。

それに、芭蕉が江戸に出た時まずそこに落ち着いたと思われる、前出のト尺は喜多村家の拝領地長浜町の名主であった。また、喜多村家の会所は日本橋安針町にあり、居宅は本町三丁目の西南角にあったといい(東京市史外篇『日本橋』)、本船町のト尺や小田原町の杉風と近くであった。こういう筋をたどると、右の桃青が芭蕉であったことはあり得るように思われてくる。

 芭蕉には、延宝六・七年頃には宗匠として立机したり、削髪したりしたことが考えられるが、八年の深川入庵までは住所も一定していなかったらしく、高野幽山の執筆を勤めたとか、ト尺の帳没の手つだいをしたとか、或は医業にたずさわったとかいう伝えがある。

それで、ト尺や杉風の紹介で、喜多村家の支配下にあった水道関係の仕事についたことも考え得るのである。『東京市史稿』上水篇(大正八年刊)はこれについて、

 

謂フ所ノ桃青ハ、

則チ松尾宗房歟。

後二年即チ天和二年九月廿八日ノ惣払町触ニハ、

六左衛門ト有リ。

恐ラクハ神田上水水役内田六左衛門其人ナル可シ。

水役ハ、三町年寄ニ属シテ、

上水ノ監視ヲ掌リ、

惣払普請等ノ外、

極メテ閑散ナル職也。

六左衛門前、

宗房亦三年寄ノ好意ニ由リ、

此ノ閑職ニ在リテ、糊ロノ資ヲ得、

以テ専ラカヲ俳諧ニ用ヒタリシ者ニ似タリ。

 

という。こうした閑職のアルバイトとすれば、触書に俳号桃青の出てくることも考え得るのではあるまいか。

 『武江年表』によると、

 

  神田上水は井の頭の池に発し(多摩郡牟礼郡)、善福寺池(同郡廃寺の旧跡地)妙正寺池(同郡)多摩川の分水等の諸流中、荒井村の末に至り合して、神田上水の切水となる、今其地を落合村といふ(水流落合ふ故の名なり)、牟礼村より落合迄十二村を経て高田村に至り、目白白の下にて二つに分れ、一流は余水にして大洗堰より江戸川に落ち、一流は上水にして小日向を廻り、水府様御殿の中を東流す、すべて牟礼より爰に至るの間、樋なくして流るゝを内堀と号す。其水流御茶水掛樋を伝ひ、小川町を経て神田に至る故に、神田上水の名あり、又一筋は神田橋うち竜閑橋より、本銀町、本町辺、南は京橋辺、東は木材木町、両国辺、浜町に至る、町

数凡二百七十丁程に及ぶ。

 

とある。この神田上水の施設は徳川氏入国当初から始められており、目白台下の上水堀割工事(関口の堰の工事)があったのは芭蕉時代以前のことであった。

 芭蕉が関係した水道工事が大工事であったように伝えられるのは、後世誇張されたものであろう。許六の記事にもすでにその口吻があったことが考えられる。『東京市史稿』は前掲の文の続きに、

許六の所伝を掲げ、

  是ニ拠レバ、宗房(芭蕉)本役在職中、

四年ニ亙ルノ上下水道ニ従ヒタル者ノ如キモ、

其竟ニ如何ナルエ事ナリシヤヲ知ラズ。

宗房年三十七ノ日ハ、延宝八年此ノ惣払有リタル時世。

是ヨリ先四年延宝五年前後ニ於ケル上水工事ハ、

元吉祥寺前、乃至水上石垣樋等ノ普請有リシモ、

多クハ修理ニシテ、

偉績ヲ後世ニ伝フルニ足ル大土工有リタルニ非ザル如シ。

 

という。ここらが実情だったのであろう。

 

ちなみに私は、右の惣払うというのを前出の今の水道橋・お茶の水辺の掛樋の大掃除ほどに考え、もと芭蕉の故郷伊賀上野に関係があって、津の藤堂藩出身の浜高市之迎なるものが芭蕉当時家老をしていたという駿河台の旗本中坊家邸(現明治大学)内に、芭蕉が深川入庵前に住んだことのある芭照倉があったという説『一話一言』等)を、まんざら否定はできないと考えたこともあった。

 

  (明治大学教授)

 






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最終更新日  2021年05月15日 18時23分39秒
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