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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年05月16日
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カテゴリ:徳川家史料

江戸千七百余町 大江戸を作った三つの要因 

 

『江戸史跡考証事典』 

 

著者 繁田健太郎氏

  発行 新人物往来社 昭和4912

  一部加筆 山梨県 山口素堂資料室

 

 秀吉がまだ小田原の北条を攻めていたとき、参陣の家康に、

「いずれ落城したらそなたに進ぜるが、ここを居城にするつもりはあるか」

 と聞いた。関東ではこの小田原か、頼朝が幕府をおいた鎌倉しか適地はない。小田原城がどんなぐあいに落ちても、形骸だけは残るだろうから、恐らくここを根拠地にするだろうと家康は答えた。ところが瞬間、秀吉は意外なことをいった。

「いや、家康殿。鎌倉より東に江戸というところがある。形勝の地ゆえ居城はそこになされ。それがよい」

秀吉のその一言で、後に世界一の大都会となる江戸の誕生がきまった。家康は特に反撥もまた謝詞をのべるでもなく天正十八年(一五九〇)八月一目、江戸入りをした。

 ところが、ひどい。当時の江戸城は担ぎ上げの土塁に、海に向って建つのはみすぼらしい木戸門、本丸の建物ときてはこけら葺で、玄関の式台として舟底板が三枚ならべてあるだけであった。小田原の出城で遠山景政、がいたが、本城落城まえに放棄したものである。

城の東方は一面潮入り葦原で、武家屋敷や町家を割りつけようにも使える土地は十町あるとも思えない。西南は凸凹の台地であり、その末は丈なす草原が限のかぎりつづく武蔵野であった。

 城祖太田道灌の歌、

 「我庵は松原つづき海ちかく

   富士のたかねを軒端にぞ見る」

 を家康はとうぜん知っていたが、これではあまりに見透しがよすぎた。今の地形にあてはめてみれば、丸ビルから日比谷公園あたりまで入江で、日本橋・京橋・銀座・築地の一帯は海面すれすれの州であった。

 城の背面はどうかといえば、麹町から四谷にわたる台地、市谷・牛込の台地、それに駿河台から本郷に至る神田山の台地、その西方には小石川台地が波のように起休していた。

 これら台地にふる雨は、流れ下って後楽園から神田三崎町あたりに沼をなしている。その末は南に流れ、現在の大手門まえの堀をとおって日比谷の入江に注いでいた。平川である。また永田町台地と赤坂台地の谷間には、湧水による細長い溜池ができ、ずっと赤坂溜池の名を残していた。

 転じて、本郷台地の東には上野・谷中台地があり、一帯の雨水を集めて不忍池をなしている。それはさらに東の方、今の下谷にあった姫池、千東へかけての千束池へつながり、すえは隅田川へ落ちていた。この辺り、ワンワン蚋(ぶよ)のとぶ川と沼地の低湿地であった。

 以上をひっくるめて想像すれば、武蔵野の果てのでこぼこ合地の一角に江戸城が建っており、入江はその土塁間近まで追っている。だから前面はほとんど海、わずかに隅田の河口ちかくに、猫額大のデルタを見るにすぎなかった。

 背面の台地は高所で四〇メートル、縦に走ってところどころ沼地を作っている。神田、桜田など耕地の遣名といわれるが、ぜんたいに沼と葦原の荒蕪地といって憚らない。

 当時、百軒ほどの漁師の宗が、京橋、銀座あたりの渚

に住んでいた。が、長雨や大風のときは高潮となり、いつも家が水浸しになる。そのため漁師たちは妻子や世帯道具を舟に乗せ、日比谷の入江ふかく避難して来た。

そして後の馬場先門あたりで、岸辺の松に舟をつなぎ、炊事の煙を立てているのが望まれた。何とも東国らしい、蕪雑な風景というほかはない。

「こんなところに住めるもんか。体のいい迫っぱらいではないか」

と家来たちは憤慨した。むりもないことで、家康は小田原北条の旧領関八州をもらったとはいえ、代りに金の産地甲斐をはじめ、血で贖(あがな)った駿河・遠江・信濃は取りあげなのである。地味ゆたかな東海地方と、こういう荒蕪地と引換えでは間尺に合わない。東国というだけで、敬遠され、追放されたという印象が強い。なじみのない土地の統治はむずかしく、必ず一揆が起るに違いない。その時、それを口実に家康を屠(ほふ)り、将来の禍根を断っておくのが秀吉の腹づもりだとは誰の眼にもあきらかであった。

 が、当の家康は相変らず無言で、いそがしく城づくり町づくりの指令を発していた。

「まず玄関の船底板だけでもお取替えになっては……」

 という家臣にも、ただ笑っただけで答えない。何か大きな目標をとらえ、そのため細かいことはどうでもよかった。時に家康の胸中にあったのは、この転封を機会に戦国末期にふさわしい、兵の動員態勢を作るにあったというのが定説である。

中世の武士は土着の豪族が、農兵を率いて出陣する形である。だから統制が取りにくく、極端なことをいえば収穫期になると、合戦を目前に勝手に帰国したりする。これでは集団戦に勝てないので、兵農を分離して兵を城下町に住まわせ、その代り家臣として完全に扶持するのが理想であった。父祖の地とのつながりを断ち切るのに、転封のこの時期がいちばんよかったとするのである。

 確かにそれもある。が、いまひとつ、秀吉がお為ごかしに言った通り、案外江戸は形勝の地ではなかったのか。

 都市は交通と防備上、河口に発達するのが世界的な通例である。理想的には河岸つづきの台地を背負い、前面に河口の三角洲、がひろがってほしい。台地は何より防衛に役立つし、からっとして住宅地に最適である。また三角洲は三角洲で、舟使の利があるため商・工業地として誂え向きといえた。この台地と三角洲は、両々相侯(あいま)って理想的な都会として機能したのである。一般に前者を山の手といい、後者を下町といっている。

 家康の目は天正十八年の江戸が、この山の手・下町を持つ理想の都会に発達する可能性を見てとった。下町の形成にはそうとうの埋立工事が必要であろう。が、そんな手間ぐらい、将来の大飛躍のまえに物の数ではない。第一、候補地は、東国でここをおいて他になかった。家康が根をおろしたわけである。

 家康は江戸城の改築より、まず城下町の建設に全力をあげた。家臣団を城下に住わせるには、食糧および生活物質、それに武器・弾薬の供給者たる商人・職人を一日も早く集めねばならない。その居住地を割り当てねばならなかった。

 すぐ着手したのは掘割鑿で、低地の溜り水を海へ吐き出すことを計った。そして掘り上げた土で沼地を埋め、まず常盤橋の東に町人街を割りあてた。これを古町といい、以後、ここを中心に市街地がひろがってゆく。

 とりあえずの武家地もきめなければならない。そこで江戸城の背面に大番組など旗本屋敷を、その東方、田宮台には役人屋敷を割り当てた。前者は後の番町であり、後者はおなじく代官町である。その他の家来は今の麹町・青山・本郷などに屋敷地を与えた。

 当時の地図を見ると、やたらに沼と竹藪の目立つ新開地だが、すでにこの時から山の手・下町の区別が画然とっけられている。

 この辺地にも産土神として、江戸城内に山王社があった。これを今の三宅坂に移し、後々まで江戸市民の氏神とした。神田明神はまだ神田橋近くにあり、山王社とともに江戸を二分して尊崇をあつめた。そのほか王子権現・芝神明・高島天神・品川稲荷など深い樹海の中に見え隠れしていた。

 浄土宗増上寺は日比谷にあったが、すぐ芝へ移されて徳川家の菩提寺となった。また天台宗浅草寺は、頼朝以来の信仰を集めて隅田河畔にあった。ほかに吉祥寺・青松寺・総泉寺・東光院など点在して、荒涼の風土にやや趣きを添えていた。






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最終更新日  2021年05月16日 09時11分21秒
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