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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年05月19日
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 甘利山周辺 ◆農牛◆ 山寺仁太郎 韮崎『中央線』昭和47年

 

一部加筆 白州ふるさと文庫

  

甘利山の西に屹える鳳凰山は、山容の秀麗さにおいて、日本屈指の名山といっても、決して言いすぎではない。

 しかし、この鳳凰山という山が古来から有名になって、格別に人々の問題にされたのには幾つかの別の理由があった。

 その一つは、これだけ有名な山でありながら、昔から奇妙にも山名が確定していなくて、今日尚、山名論争が続いているということであろう。

 先年、山麓の御座石鉱泉へ遊びに行って、みやげ品をあさっている中に、早くも私は頭がこんがらがって来た。みやげ用のペナントの一枚には、かもしかの背景に、通称地蔵仏の岩峰が描いてあり、二七四〇メートルとあって、そこに地蔵ケ岳と明記してあった。そのペナントの横には、三山を描いて、南アルプス鳳凰山と題するのれんがかけてあり、「遠ク望メバ人物ノ状ノ如シ人多クハ誤認メテ是ヲ地蔵ケ岳ナドト云ハ非也云々」と達筆が染めぬかれていた。「甲斐国志ヨリ」とあるところを見ると、この著明な地誌を引用したものと思われるが、甲斐国志の原文とは多少違ったところがある。引用して市販するならば、もっと丁寧に写せばよかったのにと思った。

 何れにしても御座石鉱泉の真上に屹え立っている奇峰は、この鉱泉宿のみやげ品によると、地蔵ケ岳と呼ぶべきであり、又呼ぶべきではないのである。

 登山者がこんがらがるのも無理はない。登山者がこんがらがると、遭難事故なども起りかねないし、それでなくても地元の山岳会など説明に困惑するので、今は一応、昔の陸地測量部の地図、

現在の国土地理院の五万分の一地形図「韮崎」図幅に拠ることに統一している。この地形図は、三山総称説によって、全山を鳳凰三山と称び、北から地蔵仏のある二七四〇メートル峰を地蔵岳、

最高峰の二八四一メートル峰を観音岳、双耳峰の二七六二メートル峰を薬師岳と称している、現行のガイドブックなど全てこれに拠っているが、大正年代頃までの案内書や紀行文はまちまちなので、甚だ混乱するのである。山登りなどに関心のない山麓の古老などには、三山総称説は今以ってあまり通用しない。

 現に、草創期の南アルプスの開拓者の一人、野尻抱影先生なども、頑として三山総称説は採用せられず、地蔵仏のある山は単称の鳳凰山であるとして、山岳会は甲斐国志説に返るべきであるといわれている。

 この開の経緯は、鳳凰山に関する著作には殆んど書いてあるが学術的に尊重すべきものは、田畑真一氏の「赤石山地をめぐる歴史地理的考察……鳳凰山名の錯雑とそれをささえる呼称の地域圈よ(甲斐史学十四・十五吟)という詳細な論文であり、池田光一郎氏は「地蔵ケ岳」に面白く判かりやすく書いている。

 鳳凰山は研究されればされる程、その山名論争は果てしなく続くだろうと私は想像する。当惑しながらも、甚だ楽しいのである。

 さて、鳳凰山を名山にしているもう一つの理由は、「農牛」であろう。

 農牛は五万分の一「韮崎」図幅の観音岳の頂上直下の東の斜面に毎年決って現われる雪形のことである。恐らく何百年も前から、同じ牛の形で現われる。私の粗雑な観察によれば、この雪形-農牛は毎年四月十日頃に出現して次第に大きくなる。四月下旬にもっとも形が整い、五月二十日頃、全山の雪融けと共に消える。年によって、出現、消滅の時期や、形の大小に多少の変化もあるが平均的に四月十日から五月二十日の間である。農牛の出現は大体決っているので、昔は山麓の農民に、播種の目安として使用された。自然暦としての役目を果したわけである。

 この雲形は、まことに見事な黒牛の姿であって、尻尾を左手、つまり南の方に高くかかげて、右手、ドンドコ沢の方へ下ろうとして、ふと立ち止った姿である。たくましく湾曲した角が生えて居り、やさしげな眼もちゃんとついている。雌牛である証拠に、ふくよかな乳房まで垂れ下っている。

 先程、この農牛は何百年も前から現われたと、ひどく確信ありげなことを諮いたが、徳川時代の最高の漢学者といわれる荻野徂徠が農牛の漢詩を作ったのは、宝永三年(一七〇六年)のことであったから、今から二百七十年程前に、既に農牛は顕著な自然現象として、人々に知られていたことになる。徂徠は僚友、田中省吾と共に、この年甲斐の国守柳沢吉保の命により、甲州に旅行した。その時の紀行が「風流使者記」であり「峡中紀行」であるが彼は甲府城の天守台に登って四囲の山川を眺望、ひどく感動して「千里ノ山川悉クー目ニ在リ」と書いた。北の方金峰山から時計の針の方向にぐるりと山川を眺め別して、白根三山に到る。

 「其の右ハ即チ蝸田山、益々右ニシテ農鳥、農牛ノ二山、鳳凰地蔵、巨摩ノ諸岳、次第ニ環匝

シ以テ金峰卜接ス、二農ノ上ニ巌然タルハ白崖ナリ云々」

 多少の不正確さはあるにしても。農鳥というのは、現在の白根農鳥岳に間違いはなく、農牛は先程の観音岳のことと推定される。観音岳は呉牛の現わる由に、当時は農牛山と称ばれていたのであろう。巨摩は駒ヶ岳。鳳凰、地蔵が何れの峰頭を指すのかは、詮索すると、又、地名論争に戻ってしもうので、それには触れない。

その次に徂徠は、「農牛山」と題して難解な七言絶句を誌してい

 河村義昌氏によって読み下してみる。

   

農牛山        茂郷

  是宮家輦下の牛ニアラズ

  儼然タル頭角、渓流ニ俯ス

  総テ觳觫(こくそく)トシテ山形ノ異ナルニ因ッテ

  始メテ識ル農桑ノ百州ニ冠タルヲ

 

輦下(れんか)とは、天子のおひざもと、京師のことであり、觳觫(こくそく)というのは、牛の歩むかたち、死所に至るをおそれるさまということで、孟子に出典があるという。

 丁寧に読んでみれば、農牛の姿をよく描写しており、農牛と甲州の農業の関係に適切に触れているが、流石の徂徠先生も農牛の存在にはいささか驚いた態に見える。

 徂徠の詩を受けて、友人の田中省吾も詩を作った。

   農牛山        省吾

  農牛双ツナガラ着船タリ

  尾ヲ垂レ渓頭ヲ左ニス

  吾ニ帰田ノ計有ルモ

  山ニ入ランコト何レノ日ノ秋ゾ

 

双つながらというところが私には判からないが、或いは当時、農牛の雪形が、二ケ所指摘されたのかも知れない。何れにしても省吾先生の方は、窮屈な宮仕えに少々嫌気がさしていたらしいのが伺える。

 川村儀昌氏の研究によれば、それは九月十一日のことであるというから、徂徠先生も省吾先生も、農牛そのものを実見したわけではあるまい。恐らく、案内の三人の武士が、農牛のことを細かく説明したのに違いない。三人の名前は中国流に変形されて記録されている。拓清孝、細時庸、清利重である。

 「峡中紀行」から百年近くたって、文化十一年(一八ー四年)に「甲芽国志」が編集されたが、この著名な書物にも、農牛は記載される名誉を担っている。一六〇年もたって、今日、この書物

の利用価値は愈々高まっている。そして御座石鉱泉のみやげものにまで利用されている。

 甲斐国吉巻之三十山川部第十一の鳳凰山の頃には、

  又此山ノ面ニ春三月頃ヨリ雪消テ消残りタル雪

自然ニ牛ノ形ヲ作ス処アリ

土人望デ農奴トシ農牛ト称ス云々」とある。

 

甲斐国志が農牛を記録したのは流石であった。編者が峡中紀行をよく読んでいたことも推察される。

 ところで、この甲斐国志の記述には疑問がある。農牛は雪のとけた形であって、残雪の形ではないからである。記述者は、現実には農牛を確認しなかったのか。土人の言うことをもっとよく聞けよかったのにと悔まれる。

 雪形が融雪の形(黒色)か、残雪の形(白色)であるかは、意外に混同されているらしい。一例は北アルプスの白馬岳である。この山では融雪の形が黒馬に見え、それを晨候としたのが本来であって、シロカキ馬、代馬といった。それが白馬に転じて山名になってしまった。白馬岳でなく、正確には黒馬岳であるべきであった。従って、甲斐国志だけが、その誤りを責められるものでもない。

 雲形が山麓の人達に、信仰の対象として、あるいは農候として又山名の由来として受取られる例は、全国に極めて多い。岩科小一郎氏は「山の民俗」という書物の中で、約六十山、一〇〇種の雪形を紹介しているが、その中には、私達に親しい白根農鶏岳の農鶏も、富士山の農鶏、種蒔小僧も、鳳凰山の農牛も勿論入っている。鳳凰山の農牛は一〇〇例の中で、最も傑出したものの一つとして紹介されている。

今私達が、観音岳と俗称している山が、昔は素朴に、その雲形によって農牛山と称ばれたのも当然であった。

 鳳凰山を全国に有名にしている理由の一つは、この農牛の出現ということであろう。

 私の陋屋(ろうおく)には、毛色の変った作品が二つ掲げられている。その一つは能穴焼のレリーフ(陶額)で、林茂松氏の片心の作。それには、晨牛の姿が、やや幻想的に焼きつけられている。

 もう一つは、野尻抱影先生の色紙であって、あの特徴ある字体で次の様に書いてある。

 「農牛農鶏雪消の甲斐を忘れめや 抱影」

 

 甘利山から農牛の見えるところは一ケ所だけである。甘利山は地形的に准平原といわれるところであって、そのあちこちに残丘といわれる丘状の高みがある。その一つ一つが頂上であるわけだが、今は通称ナベカムリの頭が頂上ということになっていて、其処に甘利山頂の標柱が立っている。一六七一・五メートルの三等三角点のある台地も、戦前は登山客が必らず訪れた経塚も、又、ナベカムリの頭より少くとも十メートルは高い最高点も、夫々頂上といわれてよい資格を持ちながら、今はナベカムリの頭にその栄誉を奪われてしまった。

 その頂上は、眺望の広さで一番優れている。この地点からしか鳳凰山ので月は見えない。この地点から西方を望むと、千頭星山御所山の連嶺が長々と連っていて、その上に鳳凰山の一角は確かに見えるのである。この連嶺は、大西裏のところがやゝ盛り上って居り、北の方、御所山に向って、ゆるい弧状を描く、なだらかな鞍部になっている。このなだらかな鞍部の上に、薬師岳の双耳峰と、観音岳の一部が見える。地蔵ケ岳は全く見えない。

 春ヽ四ヽ五月頃この鞍部は淡い緑色に包まれて…山笑う…という形容が相応しい程になるが、鳳凰山の方は、この鞍部から距離にして一〇キロ、高さにして一〇〇〇メートルも違うので、全く別の世界の存在の如く、峻厳に孤高を保っている。青紫に屹えたっていて、残雪が切り絵の様に鮮やかである。

 薬師岳の双耳峰の方が、山の形としては特微かあるので、その方に目を奪われるが、観音岳の残雪の雪形に往意すべきであって其処に、農牛の姿が、鞍部の上、すれすれに現われているのである。

 今年、五月三日はよく晴れた日であった。甘利山頂から見た鳳凰山には白雲が右から左にしきりと去来していた。その雲の切れ目に、農牛の姿が出没した。漆黒なこの古形は、干頭星、御所の連嶺の上を、北に向って、それこそ…ご觳觫…として歩むが如く見えた。真昼の日の白く輝く弧状の稜線の上を、黒々とした巨大な怪獣が歩いて行く。私は奇怪な幻想にとりつかれているのではないかと思った。

 農牛のことを書いていると際限がない。いい加減に切り上げねばならないと思っていたところ、丁度野尻抱影先生から、池田光一郎翁と私宛に一通の葉書を載いた。先生のおゆるしを得て、こ

こに全文を掲げる。

 

「ツヨタテから苔の厚い樵路を下って行くと、聞もなくセエバヨコテで、東の岳へはここから路が分れる。……ここから鳳凰へ約三里半、路も楽だ。

 大コンバーキリワケ小屋―ツヂーオムロー砂払岳-薬師岳-観音岳-地蔵岳-賽の河原-鳳凰山といふ順序といふ。

明治四十二年夏 「北岳に登る記」

 右は杖立で聞いた話に、名取村長の説明を補ったもの。地元で地蔵岳の位置を判然と示していて、「国志」と一致してゐるのに白会のお歴々は頬かぶりをしてござる。喝!

 朝から甲斐絵図を開き、国志のコピーを読み、昔の紀行を読み返すと、表記の忘れていた道順の記録を発見しました。余白があった時に、「中央線」の隅にでもお入れ下さい。

 農牛岳=観音岳では陶額の牛が失望するでせう。

いよいよ夏山でお忙しいでせう。不一(七月九日) 」

 …頬かぶりしてござるへ池田翁と私は、又してもお叱りかと首をすくめているのであるが、白鳳会には白鳳会で、多少の言い分もあって、機会を見て陳辨これ努めようと思ってはいるのである。

 私が今思いついているのは、鳳凰山山名論争を解くのに、農牛という自然現象が一つの鍵になるだろうということである。それにしても論争に終止符が打たれるのは何時のことか。″觳觫″として長い時聞かかかることであろう。






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最終更新日  2021年05月19日 20時55分15秒
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