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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年06月04日
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 宮崎汀亀と『珠玉集』 俳諧・素堂の事
   『山梨文芸の研究 資料編』
    著者 白倉一由氏著 2009・8・28
    一部加筆 白州ふるさと文庫 山口素堂資料室
 俳諧とは[俳諧の連歌]の略で、「俳諧の連歌」は本連歌の余興として行われていた。室町時代の末、連歌の貴族趣味に対して、民衆の卑俗趣味を提唱したのは荒本田守武と山崎宗鑑であった。
近世に入り松氷貞徳が現れ俳諧は新時代の民衆詩、貞門の俳諧として出発する。
  
霞さへまだらに立つや虎の年
  しをるるは何かあんずの花の色
 
新時代の民衆詩である貞門の俳諧は、用語の上にだけ庶民性を求めた幼稚な言語遊戯であった。
 貞門の俳諧出発後約半世紀、寛文期(一六六一~七三)になると、松永貞徳に統一されてきた俳壇もその形式的な句風が飽きられてきて、自分達の清新な生活感悄々風俗を詠んでいこうという考えを抱き始めるようになってきた。この寛文期に大坂は東洋第一の都市となり、大坂を中心に商業資本主義が勃興し成長していく。経済を担当し富を身につけた町人は、新時代の文化の担当者として登場する。
経済都市大坂町人の要求のもとに生まれ、町人の生活感情や風俗を詠んだのが談林の俳諧であった。談林の俳諧の中心は西山宗因であった。
  
風に乗る川霧軽し高瀬舟
 
談林の俳諧は大坂町人の俳諧であり、最も談林的・町人的俳風をみせたのは井原西鶴であった。
  
大晦日さだめなき此の定めかな
  長持ちへ春子暮れ行く更衣
 
談林の俳諧はその性格上、複雑な町人生活を描こうとした結果、量とスピードを競う矢数俳諧となり、西鶴はその要求にふさわしい散文形式の矢数俳諧の後、小説に転向する。
 談林の俳諧が、形式だけが俳諧で内容的には小説同様になった延宝(一六七三~八一)末年、俳諧を本来の詩に戻そうとする純正詩運動が開始された。
松尾芭蕉・山口素堂等であった。
 山口素堂は本名言章。字は子普また公商、幼名重五郎。通称勘兵衛。素堂は号、別号来雪・素仙堂・蓮池翁。茶道における庵号を今日庵・某日庵といっていた。
 素堂は山口市右衛門の長男として、甲斐国巨摩郡教来石村(現北杜市白州町)山口に寛永十九(一六四二)年に生まれる。
少年時代に一家とともに甲府魚町に移住する。家は酒造業を営み『甲斐国志』に「頻ル家富ミ時ノ人山口殿ト称セリ」と書かれているように巨富を擁していた。素堂は長じて山口市右衛門を継いだが、二十歳の頃家督を弟に譲って江戸に遊学する。林春斎について漢学を学ぶ。素堂が最初に学んだ俳諧は貞門の俳諧で、特に北村季吟の影響を受けている。
延宝二(一六七四)年京都に上京した素堂を迎えた季吟は、百韻を興行している。俳諧の発展に沿って素堂も談林の俳諧へと転換していく。翌三年には江戸に下ってきた西山宗因を迎え、芭蕉等と談林俳諧を行っている。
素堂と芭蕉との出会いはこの時が初めで、以後終生友情が続き延宝四年二人は『江戸両吟集』を興行し談林俳諧を謳歌し喜びを表している。
  
梅の風俳諧国に盛んなり     信章(素堂)
  こちとうづれもこの時の春    桃青(芭蕉)
 (梅の風》は「梅翁」即ち西山宗因を表し、その俳風が全国を風靡することを賛美し、それに賛同する自分達の気持ちを素直に表現しており、『江戸両吟集』には当時の町人の生活感情が大胆率直に表現されている。
その後、江戸俳壇における談林新風の推進力として活発に活動している。延宝七年長崎旅行から帰った後素堂は、官を辞し上野不忍池畔に隠栖し、素堂と号して退隠の生活に入る。素堂の隠士としての生活は自らの生活をけじめ俳諧についての深い反省で、談林の軽薄な俳風に飽き足りなくなってきて新風を考えていたのであった。
この生活は貞享二、三年(一八九五~八六)頃には更に静閑の地を求めて葛飾への移住となり、隠士の境涯に徹するようになる。
 芭蕉は延宝十八年(? 延宝八年)から芭蕉庵での隠棲生活に入る。芭蕉庵への入居は、自己の談林風の俳諧に対する文芸性の見地からの自覚に基づく反省からであった。芭蕉の反省は文芸理念に立脚したものであり、蕉風樹立の萌芽であったが、前年隠退した親友素堂の退隠生活に動機づけられたといってよいと思う。
 素堂・芭蕉のこの行動は、談林俳諧から脱皮しょうと文芸理念の革新を求めたものであった。天和期(一六八一~八四)は、町人の生活と生活感情を詠むことによって通俗性に走った談林俳諧が、新しい文芸理念を漢詩文に求めた時期である。漢語や漢詩文の文芸理念によって新鮮味を出そうとしたのである。
 この時期に、漢学に造詣の深い素堂が指導的手腕を発揮したのは当然のことであった。芭蕉が素堂を尊敬しているのは、素堂が修得していた漢学の知識だったのである。
  浮葉言葉此蓮風情過ぎたらん      (虚栗 みなしぐり)
  市に入りてしばし心を師走かな     (貞享三年 歳旦帖)
 素堂は人生観において芭蕉に先行していたが、文芸観においても同様であった。・延宝八(一六八〇)年刊の高野幽山偏の『誹枕 はいまくら』に書かれている素堂の序文は、上野に隠退した時に書いたもので、当時の素堂の文芸精神が去現されている。杜甫・率白・西行・宗祇・肖柏等の生き方に対する共感であり、漢詩・和歌・連歌・俳諧は文芸性の本質において一つであるという認識である。
「是皆此の道の情なるをや」
と短詩形文芸を「此の道」と総括しており、自ら旅をすることによって得た感動を表現するところに、同質性を見いだしているのである。
 
芭蕉は貞享四(一六八七)年から元禄元(一六八八)年にかけての紀行の後、同三、四年『笈の小文』を書くが、その中で全く同じことをいっている。『誹枕』の成立年代を考えると、芭蕉より早く素堂がこの文芸観をもっていたことになる。
貞享四年には芭蕉の門人其角が撰集した『続虚栗』に序文を書き、杜甫の漢詩を引用して景と情けの融合こそ望ましいと説いているが、素堂は当時俳壇における地位の高かったことが窺われる。そのほか鋤立編『俳諧六歌仙』(元禄四年)、沾徳編『俳林一宇幽蘭集』(同五年)、不角編『廬蘆分舟』(同七年)等に請われて序・跋を書いている。
 素堂は漢詩文に優れていた。談林俳諧からの脱却は漢詩文によってなされ、漢詩的文芸性を俳諧に生かすことによって天和調の俳諧が形成されたのだが、素堂の功績は大きかった。素堂の漢詩文の教養は芭蕉の尊敬するものであった。
天和二(一六八二)年十二月江戸の大火で芭蕉庵が消失し九時、芭蕉庵再建に尽力した中心者は素堂であるなど、二人の交友は終生続いた。
『三冊子』によれば、芭蕉はある禅僧に漢詩について聞かれ九時、素懐の名を挙げ「詩は隠者の詩、風雅にて宜し」という素堂の言を紹介している。
素堂の「芭蕉庵再興勧化文」(天和三年稿)、[瓢銘](貞章三《一六八六》年稿)、「蓑虫記」(同四年稿)、「芭蕉庵十三夜」序(同年稿)、『三日月日記』(元禄五《一六九二》年)等において二人の隠閑の交遊ぶりがよく表現されている。
 
素堂の和漢の古典に関する深い学殖、脱俗・高踏清雅の俳風は芭蕉とともに俳諧の成立と発展に貢献し、素堂を始祖とする葛飾蕉門の俳系が形成されるのである。門人に黒露・馬光・子光等があった。





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最終更新日  2021年06月04日 16時30分50秒
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