山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/06/05(土)06:58

〈蓑虫〉句の酬和 隠士素堂の「隠」の意識 復本一郎氏著

山口素堂資料室(513)

〈蓑虫〉句の酬和 隠士素堂の「隠」の意識 復本一郎氏著  一部加筆 山梨県歴史文学館 白州町ふるさと文庫  素堂と芭蕉との「隠」の交りの関係をもっとも端的、かつ集約したかたちで窺えるのが子光纂の『素堂家集』に収められている〈蓑虫〉句の酬和であろう。 『素堂家集』(13)は、素堂に十年以上にわたって親灸したという(序文)門人子光によって享保六年(一七二一)に編まれたもの。子光は、序文で、堂堂を評して 隠逸山口堂信章ハ、汪城ノ東北浅草川両国橋ノ傍、下総国葛飾郡ノ内ニ廬ヲ結ビ、歳月ヲ経ルコト久シ。稟野志多ク、固ヨリ貨財世事ヲ以ツテ経ルコトヲセズ。心偏ニ雪月花ノ風流ヲ弄ブ」(原漢文) と記している。その素堂の草庵の様子が其庵中ニ所蔵スル書契、数巻、及茶器、傍炊ノ鍋釜ノミと見えるのも、隠士素望の隠逸ぶりが労朧として興味深い。が、今、注目しようとしているのは、『素堂家集』の冒頭に置かれている「句集」の巻頭部分である。左のごとく見える。    ばせを老人行脚帰りのころ  蓑虫やおもひしほどの庇より    此日子が園へともなひけるにまた竹の小枝にさがりけるを  みのむしにふたゝびあひぬ何の日ぞ    此のちばせをのもとより  蓑むしのねを聞に床上草の庵    これに答ふる詞  蓑虫々々声のおぼつかなきをあはれぶ。ちゝよちゝよとなくは孝にもっぱらなるものか。鬼のうみおとしぬれば、  是もおそろしきこゝちぞすると清女加筆のさがなしや。  (以下略) 芭蕉の〈蓑むしの〉の一句、および素生の「これに答ふる詞」は、よく知られている。芭蕉の〈蓑むしの〉は、貢享四年二六八七)刊、其角編『続唐楽』に「聴閑」の前言を付して収められている。時に芭蕉、四十四歳である。一方、素堂ので」れに答ふる詞」は、宝永三年二七〇六)刊、許六編の『本朝文選』に「蓑虫説」として収められている。『素堂家集』には掲出されていないが、芭蕉は、素堂の「蓑虫説」に対してさらに「蓑虫説跋」を言いたのであった。 そこで、この酬和の発端となった素堂の〈蓑虫やおもひしほどの庇より〉の句である。この句と、芭蕉の〈蓑虫の〉の句と、その成立時期は近接していると見るのが自然であろう。とすれば、前言に「ばせを老人行脚帰りのころ」(14)と見えるので、貞享四年(一六八七)八月に常陸国鹿島へ月見に赴いた『鹿島詣』の旅から帰った折の作品と見るのがよいであろう。素堂は、芭蕉の草庵を訪ねたのである。句中の「庇」は、深川芭蕉庵の「庇」である。芭蕉の帰庵を喜んでの一句である。となると、「蓑虫」は、芭蕉ということになる。言ってみれば、素堂は、芭蕉に「蓑虫」なるニックネームを献上したのである。そして、その日に今度は、素堂の草庵に芭蕉を誘ったのである。場所を変えて一日に二度まで帰庵後の芭蕉と久しぶりにゆっくりと閑談できるのである。そのうれしさを詠んだのがみのむしにふたゝびあひぬ何の日ぞの句であろう。素堂自身、意外な成り行きだったのである。 この句から、幾日も経ずして素堂のところに芭蕉から届けられた句が蓑むしのねを聞に床上草の庵〉である。芭蕉は、素堂から献上されたニックネームがすっかり気に入ったようである。「蓑むしのねを聞に来よ」とは、閑談の誘いにほかならないのである。 それでは、素堂は、「蓑虫」(芭蕉)に何を見ようとしていたのであろうか。「蓑虫説」の和文中、特に注目すべきは、全七節中の次の二節と思われる。『本朝文選』の本文によって掲出してみる。  みの虫みの虫。声のおぼつかなくて。かつ無一能なるをあはれぶ。松虫は声の美なるが為に。龍中に花野をなき。桑子は糸を吐により。からうじて賤の手に死す。  みのむしみのむし。無能にして静なるをあはれぶ。胡蝶は花にいそがしく。蜂は蜜をいとなむより。往-来おだやかならず。誰が為にこれをあまくするや。 連続する二節によって強調されている「無能」讃歌である。芭蕉は、「蓑虫説跋」において、 其無能不才を感る事は、ふたゝび南花の心を見よとなり と応じている。『荘子』を繙とけば、例えば「夫相梨橘柚果蔭之属。実熟則剥。則辱。大枝折。小枝泄。此以其能・苦其生者也」(「人間世篇」と見えるごとく「無能」の肯定に繋がる南花(荘子)の文言をいたるところに見出し得る。素堂の「無能」讃歌は、芭蕉を鼓舞したようで、元禄三年(一六九〇)成立の「幻住庵記」では「無能無才にして此一筋につながる」と述べ、元禄五年(一六九二)稿の「移芭蕉詞」では「胸中万物なきを貴し、無能無知を至とす」と述べて、「無能」の真価を確認しているのである。 「蓑虫説」は、和文七節の後に「又タ以テニ男文宇ヲ述ブ古風ヲ」として四言十六句から或る漢文の古詩を掲げている。 簑虫蓑虫  落人牕中  一糸欲絶  寸心共空  似寄居状  無蜘蛛工白露甘口  青苔粧躬  従容侵雨瓢然乗風  栖鴉莫啄  家童禁叢天許作隠  我憐称翁  脱簑衣去。誰識其終  これによって、素堂が「蓑虫説」で意図したところが明らかとなるのである。酬和の発端である  蓑虫やおもひしほどの庇より(蓑虫がいるのではないかと思っていたが、やはり思っていた通りに庇からぶらさがっている)以来、素堂が「蓑虫」に仮託したのは、やはり芭蕉その人だったのである。「天許作隠我憐称翁」の二句が、そのことを明かしている。このことは、はやく、錦紅(×江)著『風俗文選通釈』(安政五年自序)において「此文は虚斑(筆者注・いっわること)に詞を設けて諷論するの説なり。  天許スレ作スヲレ隠ヲー我憐ムレ翁称スルヲ といへる文をもて其意を察すべき也と指摘もされているのであった。そして、錦紅(江)は、件の二句を 固(かたき)に天縦して其隠をなさしむ、我はあが翁と称して、長く友とせん事を望むよかし、との意衷なるべきにや と解しているのである。 すなわち、「蓑虫説」は、全体、「蓑虫」に仮託しての芭蕉の「隠」の生活への讃辞と解すべきなのである。そして、そのことは、芭蕉も十分に知悉していたのである。 

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