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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年06月09日
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カテゴリ:山口素堂資料室

素堂略歴 生い立ち 
 

山口信章素堂は、寛永十九年一月四日の生まれ(『連俳睦百韻』による。『甲斐国志』は五月五日とする。)長じてからの通称を太良兵衛、後ち松兵衛、信章は本名であるか雅号なのか不明。『国志』には素堂が官兵衛・市右衛門を名乗ったとあるが、数ある資料にも全く見えない名前である。幼名については「重助」と(国志は「重五郎」)も言ったと云う記述もあるが、出所の書本を失念したので、こゝでは不明としておく。

『国志』(素堂没後百年余してから刊行された)に依れば素堂は其の先は州(甲斐国)の教来石村山口に家す。これによって氏名とする。後に府中(甲府)の魚町に居を移す。家は頗る富んで、当時の人は山口殿と称す。信章は寛永十九壬午五月五日に生れた。故に重五郎を童名とする。長じて市右衛門と改める。つまり家名である。

と記す。後に「官兵衛」を称したと云うのである。

 

素堂の「甲山紀行」(元禄八年・一六九五)では「亡妻のふるさとなれば、さすがになつかしくて」とあり、自分は甲斐の生まれや育ちでは無いかのような記述をしている。また府中で「舅野田氏を主とす」ともある。

『国志』では代官触頭桜井氏に対して「父母の国なれば」と手伝い要請を受けたと記している。これは『甲山記行』には記載が見えない。野田氏については詳らかでは無いが、町奉行か代官を務めた人であると思われる。

また祇空門の夏目成美は『随斎諧話』(文政二年刊行・一八一九)に「素堂は甲斐国の産なり。酒折の宮の神人真蹟を多く伝へり」と記し、同年代の『俳家奇人談』(玄々一編文化十三年刊行・一八一六)では「江戸の人」と紹介している。 

ところが教来石村について素堂の親友芭蕉や、直弟子と称する馬光(素丸)は旅の途時に、この地を経て「教化石」の句を詠んでいるのに素堂の事は伝えていない。

山梨県の俳人の中で素堂を顕彰したり、継承した俳人は少ない。寛政・文化頃の教来石宿の俳人塚原甫秋や、その子幾秋等は芭蕉には熱心ではあるが、同じ村の出身とされる素堂には触れないし、山口にも懐旧談くらいは在っても良いと思うが、素堂の伝承については不思議なくらい無いのである。尤も、塚原親子については、もっと研究する必要が有りそうである。

また同じく下教来石の生まれで江戸で材木商を営み晩年故郷で過ごした河西九郎須(俳号素柳)も同様である。

素堂が元禄八年に亡き母の生前の願い身延詣でを果たすために来た折に記した『甲山記行』には、素堂が時の代官桜井孫兵衛に会い、『甲斐国志』の云うような「濁川改浚工事」の経緯については記されていない。ただし元禄八年の素堂甲斐入りについては後に甥の黒露が主催編集した追善集「みをつくし」(明和六年冬刊行・一七六九)に、編者の一人久住が「露叟の扉は府の柳町といふにつゝきし緑町と申所なり。町つゝきのおもしろきにや。むかし素堂も此所にしはし仮居せられしとなん」と記しているに留まる。

素堂の生年月日と通称

さて次は生年月日であるが、『甲斐同志』(以後『国志』と略す)は寛永十九壬午年五月五日としているが、明和八年(一七七一)の資料は一月四日(『連俳睦百韻』寿像感得記・三世素堂著)と有る。どうやら『国志』の五月五日説は「童名重五郎」名を引き出すための日付である。

同様に、通称についても「連俳睦百韻」の序の著者で、素堂の親族と云う寺町百庵は、

『山口素仙堂太良兵衛信章、俳名来雪、其後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。其の弟に世をゆずり…云々』と家督期の称を「太良兵衛」とし、また「松兵衛」(「とくとくの句

合」雷堂百里跋・享保十二年・一七二七)とあって「官兵衛」名は無い。まして市右衛門の名は見えないのである。「市右衛門」については後で紹介するとして、官兵衛に固執して見れば、山口殿と称された寛永十八年赴任の「甲府御城御番衆」で「山口官兵衛直堅」(四千石)であろうか----

こうして見ると、素堂の「生い立ち」は『国志』に依って述べると、実に不安定な状態になり、他の記事も誤りが多くあり始末が付け難くなる。『国志』編纂時(享和三~文化十一年一八〇三~一四)には、如何程の素堂に関する資料が、甲斐国内に残されていたのであろうか…。

何はともあれ素堂に関係する記述の殆どは、『国志』成立以降のもので有った訳である。


  素堂の実家は魚町山口屋市右衛門家ではない


 素堂の実家についても『国志』はどんな職業であったか述べていない。百庵も「其弟に世をゆずり…中略…後、桑村三石衛門に売り渡し、佗家に及ぶ」と商家であった事を匂わせ、他の書本でも「酒造業」と懸けているのも有るが、これで即「市石衛門家」に繋げる事は出来ない。兎角、実家は富裕で有ったらしい事は想像できる。

現在のところ、素堂に関する良好な資料は見出せないでいる。従って「生い立ち」自体が霞の中であるが、一つ言える事は、素堂は甲斐の生まれでは無く江戸で有るらしい事。

素堂は好学のために「少小ヨリ四方ノ志アリ婁々江戸ニ往還シテ」と『国志』にはあるが、門人子光は「素堂句集」の序で「弱冠遊四方」と。晩年の素堂の生活の面倒を見たと思われる子光は「二十才頃より各地を遊歴」と云う。

「少小」で林春斎に就いて漢学を学ぶ事は肯定できるが、

少小とは子供の頃の事で、それでは素堂は親と甲府に出て酒屋を営み繁栄した『国志』の記載は在り得ない事になる。弱冠とは二十歳のことで、『国志』記事は不確かとなる。

また茶を宗丹(旦)師事とすると、千宗旦は没年が万治元年十二月、素堂十七才の時となる。尤も親友と成った山田宗偏が宗旦に就いたのが十六才であるから、年齢はどうと云うことにはならないが、宗偏は正保の始め頃に宗旦に師事し、明暦元年に推されて小笠原忠知の茶道指南となった。その四年後に宗旦は八十一才で没した。素堂が宗旦に師事するためには遅くとも明暦の初めには京都へ行かなくては(素堂十四才)ならないとすると、林家塾に入るのは宗旦の没後と云う事にしないと、辻褄が合わなくなる。また国志の云う様な「今日庵」は近隣の友山田宗偏が所持していた「今日庵」の掛け軸を庵室掲げていたからで、素堂は今日庵は名乗っていない。






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最終更新日  2021年06月09日 13時44分07秒
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