カテゴリ:山口素堂資料室
『虚栗』・『続虚栗』に於ける素堂 素堂の其角編の『虚栗』(天和三年刊)同『続虚栗』(貞享四年刊)は、俳壇の苦悩をつぶさに背負っていた。『虚栗』には素堂の「荷興十唱」があり、『続虚栗』には素堂の序が寄せられている。特に素堂の序は俳壇に大きな影響を与えたと思われる。まず、素堂の漢詩調の句を見るために、「荷興十唱」の最初の句を挙げてみよう。 浮葉巻葉此の蓮風情過ぎたらむ 素堂の教えを受けた山口黒露は、素堂が不忍池のほとりに隠居したのは、蓮の君子に比べらられのを愛した故であると述べている。(略)兵貞享二年夏を過ぎて葛飾の阿武に移り住んだが、庭に池を掘って白蓮を憶えた。彼の蓮に対する愛情には、清きもの・静かなもの・純なるものに対する好みが本質的にあったようである。この句にも漢詩漢文的な調べと高踏的な趣味が漂っている。談林俳諧の行詰った句風を一新した功は少なくない。 また、「続虚栗」の序においては、当時の俳諧が、ただ対象を写しているだけで、作者の感情がこめられている作品か少ないと批判し、景情の融合の重要さを力説している。 古人いへることあり、 景の中に情をふくむと。 から歌にていはば、 「花を穿つ蛺蝶深々として見え水に点する蜻蛺款々 (せいていくわんくわん) として飛ぶ。」これこてふとかげろふは所を得たれども、 老杜は他国にありてやすからぬ心となり。 まこと景の中に情を含むものかな。 やまとうたかくぞあるべき。
引用されている漢詩は杜甫の「曲江二首」の第二の詩の二行である。峡蝶はあげは蝶、蜻峡ほとんぼうであると今はされている。 素堂は花弁に深々と頭を入れて蜜を吸ふ蝶や水面を尻でたたきながらとんぼうがゆるやかに飛んでいる景色を、平和な春たけなわな世界とし、それにもかかわらず戦乱のため杜甫は他国に流浪し、家族とも連絡し得ない不安な心境であ ることを余情とし感じ取っているのである。景色を表現しつつ、それが作者の生命の感情を含んでいてこそ、詩でありやまと歌であり、また俳諧でなければならないと説いているのである。漢学に通じた上、漢詩人でもあった素堂の詩観の確立している点を理解することができる。右の詩の素材に関連した芭蕉の発句をあげると次のような句がある。 牡丹蘂(しべ)ふかく分出る蜂の名残哉(『甲子吟行』)芭蕉が執州田の門人桐葉の許に宿り、江戸に向けて帰ろうとする折の別れの句である。厚いもてなしに感謝する情が十分に表されている。 蜻蛺(とんぼう)やとりつきかねし草の上(『瓜畑集』) とんぼうの草にとまろうとする瞬間のこまやかな動きを捉えた繊細な写生の奥に、何とも言えない重大なものがこめられているのを感じる。このように見ると、景情融合の主張が蕉風確立に大きく寄与していることが推定されるであろう。 素堂は、『続虚栗』の序文では、この景情一致の外、「終(つい)の花」つまり不易の美を求めるべきことを論じ、結びとして次のように述べている。 われ、わかかりしころ、 狂句をこのみて今猶折にふれて わすれぬものゆゑ、 そぞろに弁をつひやす。 君みずや、漆園の書、 「いふものはしらず。」と。 我知らざるによりいふならし。
漆園の書は『荘子』のことで、その『荘子』にある「いふものはしらず。」というのは、荘子の説く無為自然の道はことばではとらえることができないので「本当に道を知っている人はことばで説明しょうとはしない、それだのにことばであれこれ、と言うものは、本当こ道を知っていないからである。」という意味である。荘子の道に徹して来た素堂は、自分の俳諧観を反省し若き日の作為よりも自然のままの美に眼を開けてきて、そこに景情一致の世界を創り出すに至った。単なる奇抜さを追うことから真実の美----不易の美を求めるようになった。理論だけでなく実作に、次のような格調の高い作品が生まれている。 市に入てしばし心を師走かな (『歳旦帖』) 雨の蛙声高になるも哀哉 (『蛙合』) 春もはや山吹白苣(ちさ)苦(にが)し (『続虚粟』) 芭蕉いづれ根笹に霜の花盛 々 年の一夜王子の狐見にゆかん 々 これらの句は、芭蕉の当時の句にも決して劣らない。貞享末年ごろは蕉風形成の時代で芭蕉が学識が高く、俳歴も長く声望もある素堂の支援を得たことは、芭蕉に蕉風俳諧への自信とと勇気を与えたこと甚大であった。 ところで芭蕉は俳諧に対し強烈な情熱を持ち、俳諧のためには路傍に死んでもという打ち込み方で、旅から旅へと新しさを求め、宗匠として生き通した。素堂は穏士として閑寂を愛し、俳諧も一余技として執着を持たなかった。そこに二人の作品の相違が現れる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年06月09日 14時07分08秒
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