山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/06/09(水)15:39

寿像(素堂)感得の記

山口素堂資料室(513)

寿像(素堂)感得の記 人の生霊限りあるが中に、口を開いて笑ふ事一月のうち四五日に過ずとや。古人寸陰を悼み燭をとり、かげをつくのことわりさら也。予、逆旅を家とするの仕へありて、夕に洛下の花にやどりて春眠のたのしさあるに似たれど、旦に難波江が葦聞こぐ舟のゆくゑさへ知る人なきをかこつあるは、渺茫(びょうぼう)たる東海に魂を消し、嵯峨たる木曽路に断腸の思ひをなす。かく幻に行きかふこと十余年、徒らに東西南北の人とはなりけらし。又今年安永戊戌(七年)卯月、洛陽の瓜期尽て武陽に帰り、再び公事ありて文月の頃、故園を出て洛陽の客舎に移り一年の旅寝をし侍る。されや、秋の日も昨日今日と云ひ暮して飛鳥川の流れ早く、今はた三冬つくる頃二十日あまり四日には成けり。爰に西の京下売(?)と云ふ所に、古器なんど持てたつきとする商人近江屋某とて、年頃予が客中音信れる者あり。此の日古き木像を一体もち来りて告げ申しけるは、近頃此物を求め出しけるが、其の形ち尋常にもてはやす諸祖の姿とも思へさぶらはず、僧形にて打ち掛け様の物打おほひ、安坐して琴を鼓する体何となくしほらしく侍る。予、常に古物を愛する癖あれば、何ぞ思ひ当れる事やあると問ふ。よって其の物つらつら見るに彼が申す如くにて、坐像の丈六寸ばかりもあるらん、面想七十余りの老僧の無絃の琴を膝に上げ、左の手にして抱き。石の手を持て触る風情、幽玄高尚いふばかりなく、彼の悠然として南山を見る面影に似かよふて、只人ならざるを装ひのゆかしく頻りに包み終わるに求めたるも、此の園に依りて此の縁を生ずるなるべしさるにても、余り煤け汚れたればとて布巾を持て湿し悉くふき侍るに、座の裏に文字の様なるもの瞳に見へければ猶なつかしみ、これを見れば其の裏書に、  摂陽の隠士酒堂東都之大隠素堂翁之恩■を慕ひ同志茶瓢と寿像を製し畢る。 ■=不明         享保二年酉八月也かく寿像の座に出志たるに、はじめて驚き始て信じ、夢かとぞ思ひ悦び、只呆然としてうち守りしばかりなりけり。抑此の翁は寛永十九年壬午正月四日誕じて、享保丙申八月十五日にして終りをとれり。今按ずるに、其の一周に当りて摂陽の酒堂・江都の茶瓢・先師の恩恵を仰ぎ慕ひ、繁心より生涯菊を友とし、無絃を愛し、園中に集める草庵の幽趣を接写して、百世の筐とは成したらん。両士の孝心敷するに余り有りと云ふべし。鳴呼、翁の世を去し事、今上し巳に六十三の星霜に及びぬ。されば何地の塵ひちに光をうしなひ、埋れ果つべかりしを、今年今月いかなる日、いかなる時の妙運にや。忽然と吾もとに来り侍りて、年月信慕する吟月雅心をかぞやかし、云ふことの不可思議にいと尊とくありがたさよ。まして此の月朧月二十四日に当りて、奇瑞の感得ある事は幾何年か大庇を渇仰せり。北野の御ん神の吾れ丹心至誠を憐れみ、いざなひ言ふにやあらんと、感涙肺腑に銘して、昆山の玉、魯壁の書を得たる心地して悦びにたへず。此の事を岡のもとの縁ある法橋集の詞家に告げ侍りて、讃辞を乞ふ事になりぬ。固より翁は詩歌連俳に自在の人にして、奥を以て売らず名を以て弛らず、市朝に頂かれ大隠士也。然はあれど、其の弟子としては師恩を思はざんはあらずと、年比其の願を進ひ、其の道を広くせんと思ふ寸心やまざれども、故心にとヾまるの年少なく、唯だ惜しむらくは才力短く吟詠寒く、人にほどこすの日とほしければ、世人の望あまねからざるも、他のおろかなるにはあらで、自れおろかなるらんと、日に月に欺きもてゆく程に、いつしか五そじ余りの老にげらしな。鏡山も間近き京師の旅やどりに、今年はからざる此の奇瑞あるぞいと能しかりける。さもあらばあれ、猶今日よりは此の道のかくやかくやとして、酒堂・茶瓢が葦のすさみも、僅かに吾がためのいさめ也とうなづき侍るも、力草伏して思ひ仰ぎて、願わくば翁は正しく死に亡びざる文章の士なれば、泉下に不朽の霊ありて、今はさぞな仙府に文星典吏の官となるらん。されば、連排和合せし当流興隆の冥応をそえるべかし。我又風雅のために一挙を奉りて、此の時一大事の心魂を尽し、屓笈坦簦かへて、師恩の名を聯も汚すべからずと聖廟を驚かし奉り、深く寿像に誓約をなし、頓首再拝して、此の事を誌し侍りぬ。                  安永戊戊十二月二十五日     洛陽城客申  来雪庵三世 素堂【註】寺町百庵百庵は寺町氏、名は三知、又は友三。号を道阿・梅仁翁・不二山人・新柳亭という。天明六年(一七八六)没。元禄五年(一六九二)生。幕府の茶坊主で百俵二人扶持を受け、後坊主頭をつとめたが事あって、柳常連歌の連衆となるべく運動したと伝えられる。)鼓楼時守に落とされ、後には小普請入りとなる。茶坊主三百余人の中で成島道筑と並んで名物男となり、かの紀ノ国屋文左衛門が吉原で豪遊し小粒金で豆撒きをした時、その撒き手になったのが百庵であったと伝わる。(年代考証に間違いがある)この百庵が先の『連俳睦百韻』の中で素安に素堂号の襲名をすすめられたが辞退したと述べている。 

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