山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/07/30(金)06:22

『利休茶道具』山田宗偏著 山口素堂序文

山口素堂資料室(513)

『利休茶道具』山田宗偏著 山口素堂序文  世雖レ多ト二遊芸者一専レ礼無過ハ二點茶ノ之交ニ一我聞禮始ト二於飲食ヨリ一蓋坳レ地ヲ而貯ニ二飲食ヲ一手カテ食ノレ之時其理既備而後礼儀三百威儀三千簠簋籩豆之類皆自然所ノレ興ル之者也 茶器之行於世亦然矣熟想強拘定式法数実不下知二斯道者還廢定式法数実不知斯道者也爰山田氏宗偏撰二茶亭之定数及ヒ茶器之圖法ヲ而示二サル後学是應(マサ)ニ下得レ魚ヲ而忘ルレ筌ヲ之意ナル上矣 宗偏夫何ニ人ソヤ也 曰ク千氏宗旦老人之高弟而究メ下二宗易居士少庵翁所二授受ル一之道ヲ上以譲ル二於不審庵之人也雖レ然ト以三旦老之子孫有ルヲ二数多一漫ニ不レ彰二其號因テレ舊ニ呼コト二四方庵ト有レ年于茲ニ矣去ル甲寅之冬應テニ或人之需ニ一而界ヘ二四方庵之額ヲ且ツ依門人之勧而茶亭挑不審庵之額従是號宗易居士四無之不審庵者也予以喫茶之友聞此趣聯題篇首耳 素堂、江戸の家・茶道今日庵について素堂、七月、山田宗偏著の『利休茶道具図絵』の序文を著す。 宗偏は延宝八年(1680)に『茶道便蒙抄』、元禄四年(1691)に『茶道要録』を書す。(未見) 序文「喫茶の友……」「元禄壬午夷則上旬濺筆於円荷露葛村隠士素堂」 (壬午夷則-十五年七月)  素堂、素堂には茶道書関係の文書が三篇ある。『鳳茗記』・『茶入 號朝山』それに『利休茶道具図絵』の序である。 奥書……前年便蒙(『茶道便蒙抄』)要録(『茶道要録』)ノ両篇ヲ出スト雖此図ヲ残ス。今厚イ志ノ求メモ切ニ且ハ先書疎缺ノ為ノ書肆上田氏ニ投ジテ板行ヲナシ、云々。 〔茶道余談 宗偏〕宗旦四天王の一人。宗偏流の祖。三州吉田の産。父は本願寺末京都二本松長徳寺の住職仁科道玄。故ありて母方の姓山田を称し、初名周覚、後周学。號四方庵・力圍斎。六歳の時、小堀遠州の門に入り学ぶこと九年、後宗旦に就き皆伝。偶江戸にて小笠原侯当時茶道地に堕せんとするを憂へ、宗旦を迎へ其弊を矯めんと企てしが、宗旦、宗偏を代らしめ、宗 江戸に下り、不審庵を称し、鋭意改革に意を用ひ数種の著書を刊行。宝永五年四月二日歿。年八十五才。(『茶道辞典』による) 〔素堂余話〕 『今日庵』…素堂の家には宗偏から譲渡された「今日庵」の掛軸があった。これが後に『甲斐国志』に、素堂が「今日庵三世」を称したと記載された原因と思われる。 素堂の一周忌追善集『通天橋』の草庵五物に、 一、今日掛物 宗旦筆仲秋の辞世風雅の人目出ざらめや。往日元伯が書る今日庵のいほりをけづりて、けふといふ文字ばかりはむべつきなからずとて毎に弄ばれたるを、有明はけふの素堂の名残かな   郁文とある。 素堂が『甲斐国志』のいう「今日庵」を名乗った形跡は認められないが、宗旦直筆の「今日」の掛軸を山田宗偏から譲り受けて草庵に掛けて居た。宗偏も一時「今日庵」を名乗った事もあるようである。 宗偏は四十三年間仕えた小笠原家を致任し、家督を甥の宗引に譲り、元禄十年(1697)七十一歳で江戸の本所に茶室を構えた。素堂五十六歳の時である。 素堂と宗偏交遊を示す資料は前の「今日」の掛物と、茶書の序文くらいである。 素堂が茶道に於ける「今日庵三世」を継承したことを示す茶道資料や素堂周辺資料は見えないが、三篇の茶道関係の文章や序文は素堂の茶に対する知識の深さを示している。今日庵の代々……一世 元伯宗旦 二世 常叟宗室 三世 泰叟宗安 四世 竺叟宗乾五世 一燈宗室 六世 石翁玄室 七世 柏叟叟室 八世 玄々室宗室九世 直叟玄室(以後継承)  今日庵 …開祖は宗旦である。宗旦は専ら侘び茶の風を宣揚する為に、その思想を表現するものとして今日庵を建てた。一畳臺目の道庫つきで極めて静寂な趣向で、二畳敷の小室。(『千利休』桑田忠親氏著)

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