2021/09/01(水)05:53
武田家滅亡 天正甲斐之國由来傳 兜嵩雑記(とんがざっき)乾
武田家滅亡 天正甲斐之國由来傳兜嵩雑記(とんがざっき)乾 地蔵菩薩利生之事並日輪山法廸寺山来之事 そもそも我朝未三拾三ヶ国にて、五畿七道の別知も定まらさりし時は、此甲斐国も四岳八峯建圍、その中満々たる湖水湛て人民魚別かうりゆうの害を受て、農業高貴の活業を故事不能、爰に人皇四十三代の帝元明天皇の御宇、和則五年壬子に當て行基菩薩遙かに此國の飛地ならん事を察し給ひ、国家を鎮め人民を安堵させん事を、則チ日天子に祈り給へは、六道能化地蔵菩薩の誓願叶ひけるにや、應化の身を現し大神通の佛力を以南山を開て、満々たる湖水を駿河國に流し、此國を沙々たる平地として人民の患を散し、農業を激し佛法を敬る爾地と故給へり、誠に唐土の聖人犬馬の、洪水を治め賜ひし威功も猶これに過ぎんや。去るは彼の地蔵菩薩の三社の霊神と跡を垂れ給い、末世澆季に至る迄。此の国を守護し給うとかや、その外蹴削明神は南山に立ち、天津乙女の音楽を奏し、笛吹川を擁護し、笛に音とりしと云う手有り、此の川の子の方より、西の方に流れる故に、此の川の名とするなり、さて又三保の明神は流れに随い駿陽に至り、源を清くしその流末に住みて末代まで清らかん事を、三保が崎に留まり給う、次に各々要の所に立ち賜う、依之本地は何れも大悲地蔵菩薩に御座、されば一二三の明神は末世の今に至るまで、年々両度御川除難有る事どもなり、彼の行基菩薩右の次第一ニ奏聞在ければ、帝叡聞く御座にて、則、日輪山法城寺と新たに勅額下し賜いけり。評に曰く、行基菩薩地蔵尊を相見みて持ち賜うる御杖に其の儘地蔵菩薩の尊像を作り給へり、今東光寺の地蔵尊の御首に彫り入り給ふとなり。