山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/09/01(水)05:58

甲斐の織田信長 『兜嵩雑記(とんがざっき)乾』

山梨の歴史資料室(467)

 甲斐の織田信長 『兜嵩雑記(とんがざっき)乾』 ここに人皇五拾代桓武天皇より十二代の後胤、平相国清盛より二十代の末葉、織田備後守平信秀之次男に上総助平信長と申は、武勇名高く西國を討隨へ威を遠近に震れける。然るに此度武田滅亡に付、天正十年三月下旬、禁裏仙洞へ奏聞有之、近衛殿御同被遊甲斐国府中へ御入有て御誅罰有と也、是は武田家御高家たるに依る、天子院宣を以御誅罰有也。 夫より甲府には信長下知として、川尻與兵衛を肥前守に叙任有て、甲府城代として岩窪村の城に差置給ひ、御身は東海道を御帰り、近衛卿には中仙道を御登り被成りける。さて城代川尻肥前守國中巡見して恵林寺に被參、使者を以申人けるは、此度勝頼の死骸無断引取被申祝事上使に対し無礼之仕方なり、其上門前に小屋銭を掛らるれ事、殊更勝頼一類等圓置候條公儀を恐れざる致方甚不軽から、一々出家に不似合致方不屈至極之由、使者を以申遣しければ、取次之僧住主に告ければ、快川国師之御返事には、勝頼卿御死骸之事は、武田御代々常山之大旦那たるにより葬候なり、一類不残引とる事も右同事也、また使者に對し無禮之儀立合たる事未。無之山地中へ小屋銭之義愚僧之不存事也、武田所縁の者とて一人も隠し置候儀無御座候、と御返事有けれは、川尻然は寺内を捜へしところ、出家衆は不残山門に上り候得と差圖しければ偕達皆々山門に上りける、川尻與兵衛を始め雑兵不残寺申え踏込捜といへ共、侍たるへき人一人も見へざれは甚怒り門前之草舎を壊し、山門の下に積かさね、一度に火を懸けれは、折節魔風烈敷吹来り、堂塔伽羅に燃付一宇も不残一時の煙と成りにける 。あゝ勿體なき事共哉。 快川国師を始奉り紫衣の東堂四人、黒衣長老九人、其外同宿児竜子都合七拾三人、一朝の烟と成りて失にける、そもそも常山乾徳山恵林寺と申は、古しへ足利大将軍足利尊氏公御建立有て、夢窓國師を開山として、武田家を大檀那と被成り、永禄年中に武田家に於いて七堂御建立、殿堂悉く甍を並べ、楼高く聳え、その風景を郡懸に冠たり、其の上寺領三百貫、境内三萬六千坪新に寄附せられ、則信玄公御存生の内、木像を御刻、末世の行儀に及とも、これぞ信玄か像なり被仰、不動明王の像に作り、後に火焔を立て、左りの手に縛の繩、右の手に利剣を持たせ安置仕給ふ故にや、此度焼失に不思儀に火難を遁れ給ひ、今の世迄も拝誦するこそ難有けれ。 本能寺の変 さて天正十年六月二日に織田信長は上洛しける處、家臣明智日向守光秀日頃之意恨を報せんと逆意を起し、主君たる信長を討奉らんと軍勢を催し、一夜の中に首尾の御首を討取ける、是勝頼公御生害の日より八十一日目なり、武田ほどの舊家を無漸に滅亡に及びける報いにて、終に亡び給いける。則京都本能寺にての討死に成り故、そのまま親子共共寺に葬けると也。法名號 『相見院殿泰嵓大居士』、御歳四拾九才、右之子細に依て徳川家康公より甲州川尻肥前守へ使者を遣わし、本田百助を以右之次第被仰遺ける、本多百助は右之趣を承、夜を日に継て甲州え急きける、程なく甲州に到着いたし、川尻肥前守え主人之御口上之趣、 今月二日之夜京都於本能寺に、明智日向守光秀逆心を起し、織田信長親子を討取候間、急き罷登り一戦を被懸へき との口上なりと申けれは、肥前守如何思ひけん、彼使者たる本多百助をただ一刀に討果しける、知れ者なれ共誠に油断の酸なれは、敢なく最期を鐙られける、然るに未を武田の残党衆所々に隠れ忍び居て、川尻肥前守か子末甚だ憎いと思へども、すべき様もなく徒らに思い居ける所に、此度の子末聞て、等敷彼浪人衆相談して近在の百性共相語らい、二・三百人引連れて岩窪目指して急行、既に城近く成りければ、百性共に下知を伝え、城を十重二十重に押取巻き、無二無三に攻めつけ、終に川尻を討取たり、右之趣早速に徳川家康公に訴えける所、家康公甚だ甚悦び給い、神妙也とて、同意之輩へ恩賞を被下ける、川尻を討取しは山縣源四郎か郎等に、三井弥市郎なりと人々感し悦びける。

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