カテゴリ:松尾芭蕉資料室
○芭蕉翁風雅の志を示す説(金澤)
史料 『奥の細道詳解』「逸話集」岩田九郎氏著 昭和五年 発行 至文堂 一部加筆 山口素堂資料室
芭蕉翁、元禄行脚の終りならん。 金澤にしばらく杖を休め給へる時、小春亭にて一夜会合ありしに、その席の饗応、山海の珍物をつらね、善美をつくしたるまうけなりし、其の終りに後食の事を約しけるに、翁曰く。こよひのもてたし、心づかひの程はいふべくもあらず、されど惜しむらくは大名の御成りのごとくにして、さらに風維のさびなしといはんか、我れは世を浮草のよるべ定めぬたぐひにして、あるは草深き野邊に晝寝の夢を結び、あるは茂りたる木の下に一むらの雨をしのぐの外、浮世に望みさらになし。 況んやかゝる珍物厚昧、豈に世をさくるもゝの本意ならんや、もし重ねて我れと交ひを結ばんと思ひ給はゞ、食事の煩ひをひたすら省きたまひ、もし飢ゑば我れより乞ひなん。かへすがえすも此の旨をよく守りて、只風雅のさびを重んじ給ふべしと申されたり。
その次は浅の川下なる一早庵にて會席あり。 人々前の諌めに恥ち恐れて、其の夜はやうやく煎茶の下くゆらすばかり、箸とるべきものは何にても出さす、やゝ更行くまゝに、 翁曰く。席もはや闌(たけなわ)なれば、人々の腹空しかるべし。冷飯あらば鉢ながら出さるべしとありければ、主人いとやすき事なりと云ひつゝ、手づから鉢を抱きて来り、其のまうけのこころゆかぬを謝するに、翁はほゝゑみながら、諸禮停止は風雅の舊制なり。何の謝する事やあらん、皆々近う圓居し給へとて、茶漬一二椀さらさらと打ちしたゝめ、風雅はかくこそあらまほしけれ。すべて酒食の奢りに隙を費やして、俳諧の味をわするは、遊里戯場の物好にして、風雅の席には無下なりといふべしと示し申されける。金澤の人々此の詞を感じ、それよりしてはおのづから奢りを諌め、風雅の粉骨を致す事に成りて、後に至りても、北枝叟、暮初会の如き、諸国に名高く呼ばれたる人の出来し事も、いはばかゝる教戒を世々によく守りぬる故にこそ、是ひとへに翁の訓誨(くんかい 教え)のまめやかなるによりて、金澤の人々初めをつゝしむ事をよく辨へ、今の世までもかたりつたへて、終りをよくするの基とはなりけらし。
白露にさびしき味を忘るゝな 芭蕉 (俳諧世説巻一) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年09月05日 14時49分12秒
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