山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/09/08(水)16:22

馬場美濃守信房公の墓地

馬場美濃守信房資料室(75)

馬場美濃守信房公の墓地 『甲斐の名勝 馬場美濃守信房公とその子孫』昭和46年 鳳来町立長篠城跡史跡保存会長 丸山彭氏著一部加筆 山梨県歴史文学館  ❖p25~ 長篠の合戦で武田方の戦死者のうち、名の知れた将士は五十名にのぼるが、古戦場に墓碑があるのは十四基で、戦死の地点と墓地が共にはっきりしているのは、馬場信房と土屋昌次の二人だけである。 以下馬場信房の墓地五ケ所について述べる。 1、長篠の墓(首塚) 所在地 愛知県南設楽郡鳳来町長篠字西野々五一の一 林英太郎氏所有地。長篠城趾史跡保存館の西方約五〇〇m。寒狭川左岸。周囲は畑である。     墓地の面積は約六〇㎡、そのうち約四・五㎡を高さ六〇㎝に積み上げてある。   碑左側が明治二十四年建立の、殿敏恵死の碑で、高さ一m一㎝。その右側の自然石は高さ一m40cm で文字は見えないが高さ一m二〇㎝で文字は見えないが、最初の墓石であろう。墓碑の裏にあるのは、昔の道標で、二つに折れ、 是より半丁西 馬場墳 とある。墓地の右端に句碑があって、    天正のむかし思ひ出されて     只秋の風が吹なり古戦場    北越李門 と刻まれている。信房公従士の子孫、新潟県三条市善性寺住職福田見励師が、明治二十七年九月十七日来村された折の句である。 碑文は次の通りである。   天正三年五月廿一日  馬場信房殿敬志死之碑  援に遭ひては梁の如し。諌むと雖も聴されず。主の逃路を啓らひし、敵を捷遥に脚つ。戦を回らすこと頁合。城に迫りて力俳く。君が忠雄なるを聞けば。敗れどもなお勝つに優れり。天資隠然として、千秋定まるあり。遠高見存し、祭棄逃かに贈らる。 銘並書の白樹影翁は愛知県宝飯郡御津町出身の書家。長篠で寺小屋を開いて、筆子が多かった。九十六歳の長寿を保って、大正十三年に逝去した。                        長篠古戦場見聞録には「明治二十四年九月八日工を起し、十一月十九日竣工、二十二日建碑式を行なった。明治二十三年十月十日一ノ水戸馬場正答氏夫妻が米村され、明治二十五年五月二十日再度来村され、臨時招魂祭を行った」と記録されている。(中略)工事の折、前からあった墓石の下から、数片の骨片と、素焼きの皿が二枚出た。皿の一枚は越後の馬場氏に贈り、他の一枚は林重三郎氏が保存した。林家では、その骨片を馬場美濃守の遺骨と信じ、他の長篠合戦関係資料と共に、希望者には参観を許していた。                                              ところが、昭和のはじめ、第八高等学校の学生が林家を訪ねた折「名将の遺骨を見世物にするとは何事か」とひどく憤慨した。 当時の戸主、林勲平氏は感動して、昭和三年五月二十一日、遺骨を瓶に納め、蓋表に、  明治二十四年九月馬場公ノ墳墓ヲ改修シテ遺骨数片ヲ得、爾来郭林二保管セシカ当主勲平所感アリ恐テ之ヲ返納ス   昭和三年五月二十一日       医王寺廿七世良仙識と記して、良伯師を始め、三人の僧侶が読経して埋骨した。骨片は大腿骨らしかったとも、頭蓋骨らしかったとも、現在では話があいまいになっている。(長篠戦史資料、長篠合戦余話) 信房戦死の地と墓地については、次の文献によって明らかであるが、信房の首級だけ寒狭川の左岸の地を選んで葬られた。 三河国二葉松(一七日〇年刊)には、長篠村在武田臣馬場美濃守信房墓、於出沢之沢尻討死、頚を埋めるここ長篠橋場近所、此所元禄年間ニ成畑石塔ノミ有此処今。と記されている。 また三河原補綴(一七七五年刊)には長篠村、武田巨、馬場美濃、河合甚左衛門墓と記されている。 生前から、敵味方共に名将と称えた馬場美濃守信房の首級だけは、信長の特別な計らいで、信玄塚にらずに、ここに葬ったのであろう。 出沢の墓(戦死の地) 所在地 愛知県新城市出沢字前畑六十五番 寒狭川右岸で国道二五七号線を、新城市大海国進一五一号線分岐点より約一キロ北上した所、県道出沢東上線分岐点。 碑石は高さ一m四三㎝。幅一mn一三㎝の根府川石。表  馬場美濃守信房之碑     陸軍大将正三位勲一等功二級男爵土屋光春書裏  天正三年五月建之顕彰会     新城住鈴木八十八嘉矩刻碑の右に高さ一m一八cm、幅四二㎝の石塔がある。表に  天正三年五月二十一日忠死             当所若者  馬場美濃守戦死墓   関原与十郎    明治二十六年六月建立     願主 今泉金次郎と刻まれている。土地の有志が供養のために建てた石塔である。土地の人々の馬場信房に対する敬慕の念のあらわれである。 福田寺の墓所在地 愛知県北設楽郡設楽町大字田口字居立十九番地                     福田寺 福田寺本堂の西側、用水地の北側、信玄公墓より一段低い所にある。はじめは信玄の墓と共に本堂西側にあったが、そこに防火用水池をつくったので、北側の築山に移した。 この墓は単なる供養塔であるか、或は遺髪を葬った所であるか、詳でない。

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