山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/09/09(木)08:01

山高氏 十三代 山高信俊と信吉

白州町・武川町 歴史文学史蹟資料室(320)

山高氏 十三代 山高信俊と信吉  信直の一子親重は別家し、孫信俊が嗣いだ。山高家一三代である。十三代、信俊慶長元年(一五九六)に、山高孫兵衛親重の長子として生まれた。はじめ通称を杢右衛門、のち三左衛門といった(左衛門・右衛門はもと衛門府の武官の称号で、国主級で衛門督、大名級で衛門佐、武将級で衛門尉の官途を受けるならわしであった。しかし南北朝期ころから形式化して肩書に過ぎなくなり、近世江戸中期になると衛門尉の称呼も忘れられて、たんに衛門と呼ぶに至った。山高家の記録もすべて三左衝門・杢右衝門とされているので、以後すべてこれに従う)。 慶長十三年(一六〇八)にはじめて台徳院殿(いとくいんどの 二代将軍秀忠の誌号)に謁した。これが旗本の嫡男としての栄誉である。慶長十九年(一六一四)養父信直(じつは祖父)が落馬の負傷が原因で歩行不能となったので、その届け出でを聞いた秀忠が本多正信に命じて信直の隠居を許し、嗣子信俊に信直の家督を継がせた。信俊時に十九歳。**大阪の陣** 慶長十三年(一六〇八)十一月大坂の陣が起こり、信俊は本多正信に属して出陣した。これが冬の陣である。大坂城にこもる豊臣秀頼方には大名の味方する者は一人もなく、ただ真田幸村・後藤基次らの有力な牢人が、功名と恩賞を期待して約一〇万の兵力が集まった。これに対して家康・秀忠父子は二〇万の大軍をもって大坂城を包囲したが、堅固な要害を力攻するのを避け、ひとまず豊臣方の戦意と防備を弱めようと謀り、ただ家康出馬のしるしとして、外掘を少し埋めることを条件として 慶長十三年(一六〇八)十二月和議が成立した。しかし豊臣方は内堀までも埋められた上、牢人の大坂城退去、他への転封を強制された秀頼は、元和元年(一六一五)四月再び開戦した。夏の陣である。しかし堀を失い城に頼ることができない豊臣方の軍は城外遠く出て徳川勢を迎え撃ったが敗れ、五月八日秀頼母子は自殺して豊臣氏は滅亡した。この勝利によって徳川氏の支配権は確立し、諸大名の完全な統制の上に中央集権の諸制度を定めることができた。

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る