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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年09月09日
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明治政府官僚としての信離


 明治維新の大変革によって武家政治は終わり、天皇親政の新政府が成立したが、明治政府の当面した障壁は人材の払底であった。

 欧米先進諸国に追いつかねばならぬ、との至上命令を課された明治政府にとり、最大の課題は、新進の頭脳と力量をそなえた人材をいかにして得るかにあった。

 権力の中枢は、明治政府建設の原動力、三条・岩倉・西郷・木戸・大久保らの人傑によって占められたが、新政府の眼目である財政・民政・外交・司法・立法など、中央権力樹立のために不可欠の実務を推進し得る人材に欠けることは、目前の致命的な弱点であった。

 これに対し、旧幕臣中の有能な人材を多く召し抱えた静岡藩は多士済々であったから、新政府要路が静岡藩に着眼したのは当然であり、甚だしいのは函館戦争(五稜郭の戦い)に敗れて降伏し、獄中にあった人々までが、釈放された直後に新政府に出仕した例もある。

 それらの中から二、三の例を拾ってみる。

**勝安芳**

勝安芳は旧幕府の全権として、東征大総督府参謀西郷隆盛と談笑の間に江戸城を開城し、江戸市民の生命財産と徳川家の存続を全うした。やがて静岡藩主に仕えて移ったが、明治五年明治政府に迎えられて海軍大輔となり、翌年十月参議兼海軍卿(大臣)に任ぜられた。

**榎本武揚**

榎本武揚は旧幕府海軍副総裁として同志を率い、函館五稜郭に寵って官軍に抵抗したが、官軍の黒田清隆の説得に応じて降伏し、禁獄三年ののち明治五年一月に釈放、その直後北海道開拓使四等出仕となり同七年一月海軍中将、特命全権公使としてロシヤ駐在、外務卿副島種臣を助け千島樺太交換条約を締結した。

**新井郁之助** 

新井郁之助は甲州市川代官新井清兵衛の嫡男で、長崎海軍伝習所に入り、勝安芳に学んだ。幕府瓦解後、榎本武揚と行動をともにしたが、明治五年に釈放されて開拓使五等出仕、北海道開拓使学校(札幌農学校)長・内務省地理局次長・測量局長・気象台長を歴任した。

 

信離は静岡藩相良奉行として治績を挙げる間もなく、明治三年十月太政官より同藩の権少参事に任ぜられ、ついで同五年二月十日付けで大蔵省七等出仕、博覧会御用掛となった。

 博覧会というのは、当時は博物館の事業で、本来の目的は古今東西にわたって、考古学資料・美術品・歴史的遺物その他の学術的資料をひろく収集保管し、これを組織的に陳列して公衆に展覧するにあり、開化思想の盛行した維新当時にふさわしく重要な施設であった。

**廃仏毀釈**

ところが、明治政府が神仏分離令を発布すると、その行きすぎが廃仏毀釈の暴政となり、全国的に仏教への圧迫、仏教的史跡・文化財の破壊という暴挙が流行した。政府がその行きすぎに気付いた時はすでに遅く、取り返しのつかぬまでに文化財破壊が進んでいた。

 ここにおいて古社寺の宝物であった文化財の緊急の所在確認、収集・保存の必要性が識者の問で強く叫ばれるようになり、先進国の博物館事業を範としての推進が要望された。

 しかも当時の政府の施策は富国強兵・殖産興業にあったから、これに関連する美術工芸の振興にも、博物館の使命は小さくなかった。

**ウィーン万国博覧会**

明治五年二月、大蔵省七等出仕として博覧会御用掛を命ぜられた信離は、同年十月には博覧会書記官に昇進した。翌六年一月には大蔵省六等出仕に進み、この月オーストリヤの首府ウィーンで催されるウィーン万国博覧会に、一級書記官として派遣されたのであった。この博覧会は、明治政府としては最初に参加する博覧会として、政府では事務総裁大隈重信、同副総裁佐野常民、ほかに事務官二人と、御用掛に渋沢栄一、書記官に山高信離、という顔触れを派遣した。渋沢・山高両人は七年前のパリ万国博覧会での見聞を役立てている。

**米国博覧会** 

ついで明治八年二月には米国博覧会事務取扱いを命ぜられる。この年三月三十日に博覧会事務局と改称し、大蔵省より内務省に移管される。

信離は同時に内務省博物館掛に任ぜられ、五月米国博覧会事務官を命ぜられた。

 明治九年、内務少丞に任ぜられる。同十年二月、パリ博覧会事務取調を命ぜられ、六月同博覧会事務官に任ぜられる。

**メルボルン博覧会**

明治十一年六月、勲五等に叙せられる。同十二年五月、オーストラリヤのシドニー博覧会事務官を命ぜられ、翌十三年二月同地のメルボルン博覧会事務官を命ぜられる。同年四月内務省書記官、内国勧業博覧会事務官、大蔵省書記官兼任、六月従六位に叙せられる。

**博覧会履歴** 

明治十四年、内務省博物局および所属博物館を農商務省に移管したので、信離は同時に県南務省書記官に任ぜられ、同七月博覧会掛長、八月工芸課長兼芸術課長を命ぜられる。

 同十五年十二月農商務権大書記官。同十七年十月大阪府絵画品評会審査長を命ぜられる。

 同十八年十月勲四等に叙せられる。同年十二月博物局長に任ぜられる。

 同十九年三月、博物館を農商務省より宮内省の所管に移され、四月一日博物館長心得を命ぜられる。

同二十一年一月、博物館は宮内省図書寮所管となり、博物館長に任ぜられる。

 同二十二年五月、図書寮附属博物館を廃し、帝国博物館・帝国京都博物館・帝国奈良博物館を設置する。同時に信離は帝国博物館理事・美術工芸部兼工芸部長を命ぜられる。

 同二十三年三月、第三回内国勧業博覧会審査幹事を命ぜられる。

同十一月勲三等瑞宝章を賜わる。

同十二月奏任官一等(すなわち勅任官)となり、翌年従五位に叙せられる。

 同二十七年二月、帝国京都博物館長・帝国奈良博物館長兼任となり、京都在勤となる。

 同二十八年十二月、特旨をもって位一級を進められ、正五位に叙せられる。

 同二十九年五月、古社寺保存会委員となる。

 同三十一年二月、帝国博物館鑑査委員、四月、全国漆器生産府県連合共進会審査長を命ぜられる。

 同三十二年八月、パリ万国博覧会出品鑑査委員を命ぜられる。十二月(勲三等)旭日中綬章を賜わる。

 同三十三年六月、帝国博物館評議員、七月一日、博物館官制改正(帝国博物館を東京帝室博物館、帝国京都博物館を京都帝室博物館、帝国奈良博物館を奈良帝室博物館と改称)。 

同日、京都帝室博物館長を本官と心得べき旨令

せらる。

 同三十四年一月、従四位に叙せらる。翌年五月、特旨をもって位一級を進められ、正四位に叙せらる。

 同三十九年、勲二等に叙せらる。

 明治四十年(一九〇七)三月十六日、病いにより逝去した。享年六十六歳。よって考えるに、前年すでに老病を理由に職を辞するに当たり、多年の勲功により勲二等に叙せられたものであろう。信離の法号を「紫山院殿明卿嬉翁大居士」といい、山高家歴代墓所のある東京新宿区弁天町の宗参寺に葬られた。

 旧幕臣の明治政府に出仕した人々の多くが、藩閥の圧迫に押されて不遇に甘んじたとき、ひとり山高信離が、正四位勲二等、京都帝室博物館長の要職にのぼり、わが国文化財関係の最高峰と仰がれたのは、その比類ない学識と手腕が幕藩の埼を超越した結果とみられる。

 信離は少時、渡辺華山の高弟椿椿山に入門し、以来孜々として南画の修業につとめ、遂に紫山と号して一家を成すに至った。その同門の先輩に浅野楳堂がいる。楳堂は甲府勤番支配・京都町奉行を歴任し、和漢書画の鑑識に長じ、わが国で楳堂の右に出る者はないといわれるが、信離は棋堂と双壁といわれる。

 山高家二十七代は信離の男、五郎が継いだ。五郎は船舶史の研究家として知られ、その生涯をかけての著述『日の丸船隊史話』は、得難い名著との評価を受けている。五郎はまた画技に巧みで、著書の挿画はみな自筆である。

 二十八代は五郎の嫡男登が継いだ。登は官界にあって功成り名遂げ、登の弟茂は洋画家として一家を成し、独歩の作品で知られている。信離―五郎―茂の三代には美術家的資質のすぐれた遺伝があるように考えられる。

 






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最終更新日  2021年09月09日 08時13分25秒
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