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2021年09月10日
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松平甲斐守吉里 吉保ノ男、幼名、網干代又は柳沢兵衛安暉と云う。
 元禄 年
任越前守
元禄十四年
賜御氏諱改、松平伊勢守吉里
宝永六年丑六月廿八日
家督改甲斐守四品侍従に至る(按に宝永三年の八月、望まれて古府八幡宮奉納百首和歌の尾に記して曰く、従四位
下行侍従兼伊勢守源朝臣吉里、「武家補任」に家督の時叙任と記せるは非なり)
享保九年辰三月
和州郡山へ本高得替えなり。按に本州三郡高弐拾弐万八千七百六拾五石八斗六升五合四勺之内拾五万千弐百八拾八石
七斗三升七合(本知行高なり)七万七千四百七拾七石壱斗弐升八合四勺(内高)
外二五万四千弐百四拾六石弐斗四升式台九才(新田ノ高)
弐万八百拾七石九斗弐升壱合七勺(都留郡御預り、但し宝永三成七月より正徳三己九月に至る)
【註】柳沢吉里 – Wikipedia
柳沢吉保の長男として生まれる。父の吉保は第五代将軍・徳川綱吉に寵愛された側用人で、宝永元年(一七〇四)に甲府藩主・徳川綱豊が将軍後継として綱吉の養子となり、江戸城に移った際に甲斐を拝領し、甲府藩主となっていた。
元禄十四年(一七〇一)には父と共に綱吉から偏諱を授かり、吉里と名乗る。宝永六年(一七〇九)に綱吉が死去して第六代将軍に家宣(綱豊)が就任すると、同年六月には父の吉保も致仕して隠居したため、家督を継いで甲府藩主となる。父の吉保は終生幕閣にあり、国元へ入国して直接藩政に携わることはなかったが、吉保期に甲府藩では都留郡を預地として甲斐一円を支配し、甲府城の修築や城下の整備を進められていた。また、甲府藩では前代の徳川一門の藩主も江戸定府で甲府城へ入城することはなく、翌宝永七年(一七一〇)五月に吉里が甲府城へ入城すると、甲府藩は初めて藩主を国元に迎えることとなった。吉里は藩政において、慶長以来検地が行われず、幕領と旗本領が入り組んでいた笛吹川以東の山梨郡栗原筋、八代郡大石和・小石和筋の村々に対して検地を実施し、用水の整備など勧農政策も行った。
また吉保の隠居に際して、庶弟である経隆と時睦には藩領内の山梨・八代両郡のうちの新田高をもってそれぞれ一万石を分与され、甲府新田藩が立藩した。享保九年(一七二四)には享保の改革における幕府直轄領の拡大政策が行われ、甲斐の直轄領化に伴い吉里は大和郡山藩主として移封され、甲斐一国は甲府勤番と代官支配となった。なお、経隆は越後黒川藩、時睦は越後三日市藩へ移封されて共に幕末まで代を重ねた。
吉里は父譲りの学問好きで、郡山藩政においても基礎を固め、名君とも評されている。延享二年(一七四五)九月六日に死去した。享年五九。跡を四男の信鴻が継いだ。
明治維新の後、新政府により廃藩置県が行われて大和郡山藩が消滅したが、明治十三年(一八八〇)、旧郡山藩士族が初代藩主の吉里並びにその父の吉保の遺徳を偲び、旧大和郡山城跡に父子を祭神とする柳沢神社を創建した。
【年譜】一部加筆
◇ 貞享四年(一六八七) 生まれる
◇ 元禄四年(一六九一) 将軍・徳川綱吉に初見
元禄一四年(一七〇一)十一月二十六日、松平の苗字を許され、将軍・綱吉の偏諱を授かり吉里と改める。
元禄十二年(一六九九)十二月三日、従四位下に叙位。越前守に任官。
元禄十四年(一七〇一)十一月二十六日、伊勢守に遷任。
元禄十五年(一七〇二)十二月一日、侍従を兼帯。
宝永六年(一七〇九年)六月三日、父・吉保が隠居し、柳沢家を相続。
宝永六年(一七〇九年)六月二十八日、甲斐守に遷任。侍従如元。
享保九年(一七二四年)三月十一日、大和国郡山藩に転封。
延享二年(一七四五年)九月六日、卒去。
松平刑部少輔安通 吉保の二男、初め云、横手伊織
宝永六丑年
依願分知新田の内壱万石
享保九年
賜越後蒲原郡の内壱万石、引替ふ在所黒川と云う、後改め名を経隆、号随雲軒「除禄」に曰く至其男刑部少輔里済ノ時復称柳沢氏子孫之同
【柳沢経隆(やなぎさわつねたか)】Wikipedia 一部加筆
  ※ この記事では吉保の四男となっている。
幼名は安通、伊織。
元禄七年十一月十六日、江戸神田橋邸にて生まれる。享保十年八月二十三日、卒
甲斐甲府新田藩主、のち越後黒川藩の初代藩主。
柳沢吉保の四男。母は側室正親町町子(田中氏とも)。正室は大納言正親町実豊の娘・直子。
官位は従五位下、刑部少輔。
元禄八年(一六九五)六月十九日、将軍徳川綱吉の命令を受けて横手姓に改姓した。
元禄十四年(一七〇一)十一月二十六日、松平姓を名乗ることを許される。
宝永六年(一七〇九)六月三日、父より一万石を分与されて甲府新田藩主となった。
宝永七年(一七一〇)四月七日に元服する。
享保九年(一七二四)閏四月二十八日、甲斐から越後黒川に移封された.
享保十年(一七二五)八月二十三日に三十二歳の若さで死去した。子がなく、跡を養嗣子の里済が継いだ。
 法号は〔実山勝義天休院〕。墓所は東京都新宿区市ヶ谷河田町の正覚山月桂寺。
松平式部少輔時陸 柳沢吉保の三男也。初め云う横手左門
依願分知新田の内壱万石得替蒲原郡三日市壱万石、
嗣于称、松平弾正少弼保経、実ハ吉保ノ五男也
保経ノ男刑部少輔信著ヨリ、復柳沢氏子孫同之
吉保には五男五女アリ
柳沢保成 柳沢吉保の四男
第四男保成は米倉丹後守ノ嗣、更に米倉主計忠仰、五男は保経也
五女は松平右京大夫輝貞、黒田豊前守直重、土屋出羽守定直、内藤山城守政森、大久保加賀守忠英の室と為りぬ。
 
【参考資料】三日市藩 - Wikipedia 一部加筆
享保九年(一七二四年)三月十一日、柳沢吉保の長男・柳沢吉里は甲府藩から大和国郡山藩へ移封された。このとき、甲府藩の支藩で一万石を領有していた吉保の五男・柳沢時睦は越後三日市に一万石の所領を与えられ、ここに三日市藩が立藩することとなった。
時睦はわずか三ヶ月の在職で家督を弟の柳沢保経(吉保の七男)に譲ったため、治績はほとんど無い。保経は江戸城警備・大坂と駿府の加番・日光祭礼奉行などを歴任して活躍した。
しかし成立直後から、もともと小藩であった上、藩主が江戸定府で膨大な出費が続いたため、藩財政は極度に悪化した。このため、天保十四年(一八四三)頃には藩の借金が二千百九十両というとんでもない額になったと言われている。このため文政年間に財政再建を主とした藩政改革が試みられたが、失敗してしまい逆に藩財政をさらに悪化させるに至った。
幕末期、三日市藩は外国船の到来に備えて、軍備増強に多額の経費を投入した上、幕府から新潟町の関屋・青山海岸や江戸飛鳥山近辺の警備を命じられた。おまけに第八代(最後の)藩主・柳沢徳忠の家督相続による費用、安政の大地震での藩邸復旧費用、朝廷に対する費用などの出費も重なって、遂に藩財政は破綻寸前を迎えた。ちなみに歴代藩主の中で藩に入ったのは、最後の藩主・柳沢徳忠だけである。明治元年(一八六八)の戊辰戦争のとき、三日市藩は新発田藩と行動を共にした。翌年、版籍奉還により徳忠は三日市藩知事となる。
明治四年(一八七一年)七月十四日、廃藩置県により三日市藩は廃藩となって三日市県となる。
明治四年十一月二十日、三日市県は新潟県に編入された。





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最終更新日  2021年09月10日 08時34分45秒
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